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2008年11月30日「楽園回復」

2008年11月30日 主日礼拝説教 「楽園回復」

  説教者 山本 裕司
  創世記 4:16
  ルカによる福音書 23:42~43



カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。(創世記 4:16)

イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカによる福音書 23:42~43)


 今朝、待降節第一主日の礼拝の言葉として朗読頂きましたのは、創世記4:1以下のカインとアベルの物語です。既に禁断の木の実を食べ堕落した、最初の人・アダムとエバの二人の息子です。聖書には、不幸な兄弟、悲しい家族の物語が多く書かれています。そしてそれは、余りにも多くニュースで聞かされる、現代の家族崩壊の物語、悲劇的な兄弟姉妹の物語にまで連なってくるのです。

 その原因は、嫉妬でした。弟アベルは羊飼いとなりました。兄カインは農夫となりました。丁度、今の季節、収穫の季節だったのでしょうか。二人はそれぞれの産物を神さまに捧げました。ところが何故か主なる神は、アベルのはお受けになりましたが、カインの供え物には目を留められなかったのです。

 その時、神が、一方の供え物だけを受け入れ、他方を退けられたのが、どうして第三者に分かったか、という問いが生じます。聖書物語のアニメを観ていましたら、祭壇がありまして、兄弟は、そこで、産物を焼き尽くして天におられる主に献げます。その時、アベルの供え物の煙は真っ直ぐに天に昇っていくのですが、 カインの煙は昇らず、彼はその煙で返ってむせかえってしまう、そう描かれていました。勿論、聖書にはそんな話はなく「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」(創世記4:4b~5a)とあるだけです。また、どうして、神さまは、このように兄弟を扱ったのだろうかという問いを多くの人が持ちました。

 その解釈の一つは、アベルは、自分の羊の群れの中から最も値打ちの高い「肥えた初子」(4:4a)を持って来た。カインの場合は、ただ「土の実り」(4:3)とあるだけです。そこで、先の聖書アニメになりますと、さらに拡大解釈を施しまして、カインは、穀物を供え物として分けた時、彼は、一度、その穀物の山をじっと見て、惜しくなったのでしょう、もう一度、自分の籠に戻してしまう、そういうふうに描いていました。つまり、カインは神さまに、惜しまず捧げたのではない。その信仰は純粋でなかった。だから、神さまはお受けにならなかったのだ、という理解です。このえこひいきのような物語がそうやって、一応、合理化されるのです。

 しかし、学者の中には、このアベルの捧げ物が「肥えた初子」であった、という記述は、元々の創世記の言葉にはなかったのではないかと言う人もいます。最初は、アベルがカインよりも宗教的、倫理的に優れていたから選ばれたということは書いていなかった。だからこそ「カインは激しく怒って顔を伏せた。」(4:5b)となったのは、当然のことであった。カインにも何か後ろめたいことがあれば、これほど、怒らなかったであろう、とも言われるのです。

 そう言われれば、私たちも、このカインの怒りは思い当たるのではないでしょうか。ある教師は、「現代人の傲慢は、人が自分に優越することに耐えられないことだ」と言いました。差別はいけない、平等に扱われなくてはならない、現代人はそう教えられてきました。しかし、私たちの人生は、実際には、決して、平等にはいかないのです。そもそも、この兄弟の話は、アベルの牧畜が成功し、カインの農業が巧くいかなかったという、非常に具体的な話かもしれないのです。まさに、それは私たちが日々苦しんでいることです。「何故あの人は成功し、私だけが巧くいかないのですか?!」

 先の教師は「平等原則への疑問」という一文を書いています。私たちは子どもを育てる時に、差別なく公平に接したいと願います。しかし、先生は、絶対に平等であらねばならない、などと、子どもに思わせたらいけないと断言される。教師が平等にするのは当然です。しかしいつでも人は公平でなくてはならない。少しでも不公平なことがあったら頭にくる、などと子どもたちが考えているとしたら、それこそが問題だと言われる。そんなことを考えているとしたら、世の中、一日だって生きていかれはしない。世の中は最初から不公平、不平等にできている。健康な人がいて、病弱な子どもがいる。美人がいて、不美人がいる。頭の良い兄と出来の悪い弟がいる。金持ちの家に生まれる子がいる。貧しい家の子がいる。世の中は平等じゃない。世の中とは不公平に出来ている。この世に生きていくことは、その不平等に耐えていくことだ、と先生は言うのです。耐えることを知る子どもになって欲しい。平等に平等にと言っている内に、人間は不満のかたまりになる。妬みと怒りのマグマが噴出する。人の本当の幸せは分からないではないか。美人が幸せになるとは限らない。その損得はすぐには分からないでないかと言いながら、先生は最後に使徒パウロの言葉を引用されるのです。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」(ローマ9:20)創造主なる主が、文字通り、私たちの人生の主、主人なのだ、という意味です。

 あるところにこんなことが書かれてありました。「仮にA氏としよう。彼は一流大学から一流企業に就職し、人も羨む昇進を遂げた。ところがそんなA氏は、確実だと思われていた役員に昇格することが出来ず、会社を追われた。それまでは、○○社の支店長A…とさえ言えば、誰もが黄門様の印籠を示されたときのように、ははーっ、と頭を下げてきたのに、もう誰もそんなふうにしてくれない。A氏は混乱した。それまでは穏やかな人だったのに、家族に対して、異様な剣幕で怒り出すようになる。」まさに現在のカインの出現であります。「(主は)カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」

 このカインがしなければならないことを、主は丁寧に教えて下さいました。少しも主はカインを見捨てていません。むしろ主は一所懸命、カインを宥めます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(4:6~7)弟のようにうまくいかなくても、何も恥じなくて良いではないか、だから顔を上げなさい。この試みに耐えて、その人生を受け入れ、胸張って生きていけばいいではないか。もうあなたを誘惑する嫉妬の嵐は、戸口で待ち伏せしている。それをあなたは、今こそねじ伏せねばなならいのだ。しかし、カインは、負ける。禁断の木の実の誘惑に耐えることが出来なかった父母の血を引く者として、やはりこの人生の試練に負け、罪に支配される。カインの主は、そこでもはや神ではなく、罪となる。そして弟に襲いかかり殺すのです。

 人を殺した人生は、もはや祝福されることはありません。土が、弟の血を飲み込み、作物を実らすことはない。カインは地上を彷徨い「エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」(4:16)

 ここに、かの有名な映画の題名が出てきました。「エデンの東」と。

 創世記3:24によれば、原罪をもった最初の人間は、エデンの園を追放される。そして、その園への道を塞ぐために、エデンの東(そこに入り口があったのでしょう)に、主は、ケルビムという天的怪獣を門番として立たせました。また燃える剣もそこに置かれて、いわば天的力で二重ロックする。呪われたエデンの東の荒地で人は生きながら、西の世界にはエデンがある。どこかに生きることの苦しみから解き放たれる楽園がある、そう思いました。

 先ほど、もう一箇所朗読頂きました、ルカ福音書23:43には十字架上の主イエスの言われた言葉の中に「楽園」とありました。遙か彼方にあると聞く、敷居高き美しき園。それは、どうやら西にあるらしい、と不思議なことに、多くの民族は共通に思うようになりました。古代ギリシャ人にとっては、太陽の沈む真っ赤な夕陽の向こう側・西の洋上に祝福された常春の死者の国があるのだという想像になりました。現実にも、嵐の後など西に面する海岸に椰子の実が辿り着いている。あるいは西岸に見慣れぬ丸木船の残骸が打ち上げられていることもある。そうであれば、西の海の向こうに、見知らぬ楽土があるのではないかという空想を生んだ。そのために、人は限りなく「西方の国」に憧れ、それはついに大西洋を西へ渡る大航海や、アメリカの西部開拓の精神的エネルギーとなったとさえ言われるのです。東洋にも極楽とか桃源郷という言葉があり、あるいはやはり西方浄土、西方十万億土という言葉もあります。どの人類、民族にも共通して、激しいとも言いうる西の楽園願望があることが分かります。

 主イエスと一緒に十字架につけられている犯罪人もまた、主にこう願います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」死刑囚にとって、この楽園とは、遙かに遠い場所でした。しかし、最期の望みを託して、主の憐れみにすがって言った。わたしを思い出してください。その時、本当に思いがけないことだった思う。主は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:43)と言われた。その瞬間、一気に楽園が近づく。原罪にまみれたあなたを、一緒に楽園に連れていくために、私は今、十字架についているではないか。そう主はおっしゃられる。その時、楽園の敷居高さは消えてしまう。御国に昇った主が、十字架を振り回して、ケルビムを追い払い、炎の剣も打ち倒してしまわれる。そうやって、エデンの東の扉を大きく開放して下さる。主が私たちの原罪を、十字架について、全て贖って下さったからであります。

 カインの話に戻りますと、彼は、さすらいの地に追放される時、誰かに殺されることを大変恐れました。しかしその時、主は、この罪人への愛を忘れません。「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」(4:15)このカインの「しるし」とは、入れ墨か、傷跡であったのではないかと言われています。その主の配慮があるために、カインとその末裔は、さすらいの地であっても、生命を守られたのだと、言われる。使徒パウロも言いました。「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(ガラテヤ6:17)パウロは、実際に十字架の焼き印を肉体に付けていたのかも知れません。そうでなくてもその魂に刻みつけたのでしょう。やはり妬みのためであったかもしれない、初代教会を迫害し、キリスト者の殺害にも手を貸したその罪が、十字架の焼き印によって裁きを免れることを知った、その時、彼は逆に、誰よりも激しく、十字架の福音を宣べ伝える者に変わりました。

 「カインのしるし」のことを学んでいますと「ケニ人仮説」という興味深い学説に至ります。これは旧約聖書にも時々出て来ますが、カインを父祖とする部族にケニ人がいる。やはり入れ墨をもったと言われるケニ人は、唯一の神ヤハウエを崇拝していました。しかし、このケニ人は、イスラエルのように約束の地に定住することや農耕生活を拒否して、あくまで荒野を移動して生きる奇妙な部族でした。そして、このケニ人仮説によると、イスラエルの祖先は、このケニ人から、ヤハウエ(主)への信仰を学んだというのです。それはモーセがヤハウエという御名を初めて教えられたのが、ケニ人の一氏族・ミディアンの地だったからです。モーセの義父エトロもミディアンの祭司でした。 そう考えると、罪人カインの血統から、主の御名はイスラエルに伝えられたのです。そして私は思います。本当に人生に無駄なことは一つもない、と。人生は確かに不平等です。その試みに負け罪を犯す者もあります。しかし主は、なおそのような私たちを憐れみ、その罪をも用いながら、主の御名を宣べ伝える器へと変えて下さるのではないでしょうか。カインは、罪を犯したために、返って、主の救いの焼き印を体に得たのです。そのしるしの意味を、子孫に喜んで伝えて生きたのではないでしょうか。そして、子孫ケニ人から主の御名がイスラエルに伝わる。やがてゴルゴタの丘の犯罪者も、主の十字架の恵みを、最初に得る者となりました。彼は福音書の中で、今も尚主の愛を証ししています。そして、教会の敵サウロが、しかしその敵をも救う恵みを知った時、彼もまた全世界に、主の御名を宣べ伝える器となった。彼はイエスの焼き印を身に帯び、第二のケニ人となったのではないでしょうか。かくして、私たちのマイナスはプラスに転じる。不平等、不公平の人生も用いられる。それを本当に知る時、私たちは不公平の試練に耐えることが出来るようになる。いついかなる時も主なる神の愛と配慮は変わらないことを知るからです。


 祈りましょう。  罪が戸口で待ち伏せています。どうか、その罪の誘惑に耐えることが出来るように聖霊をもって支えて下さい。しかしなお罪に負けた時すら、あなたは、それを通して、誰よりも深く、あなたの恵みを知る者に変えて下さるお方であることを覚え、感謝します。そのことを信じ、西方の国を望みをもって目指す私たち西片町教会として下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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