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2008年11月18日「教会建築家パウロ」

2007年11月18日 主日礼拝説教 「教会建築家パウロ」

  説教者 山本 裕司
  コリントの信徒への手紙一3:10~17


 使徒パウロは自分のことを「熟練した建築家」(3:10)と例えました。誰もが自分の家を建てる時、熟練した建築家に建てて欲しいと願うことでしょう。今、耐震偽装問題が起こっていますが、熟練の建築家であれば、そういうことは決してしないでしょう。何故なら「熟練した」という言葉は、単に年季が入っているという意味ではなく、元のギリシア語では「知恵ある」という言葉だからです。知恵ある建築家は、地上の建築物の高さ以上に地面を深く掘り巨大な土台を据えることもあるのです。どのような地震にも耐えるためです。ところが、土台というのはそれがどんなに巨大でも、どんなに建造費がかかっても、建物が完成されてしまえば少しも目には見えません。それだけに建築家の真の賢さが問われるのです。目に見える広さ豪華さばかりを追求しても、目に見えない土台が軟弱であれば、後でどうなるかということです。パウロは「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。」(3:13a)と書きました。この「かの日」とはキリストが審判をなさる終わり日のことです。人の目には明らかにならなかったその建物の値打ちが、全てを見抜く神によって、ついに明かるみに出される「かの日」が来るのです。

 ここでパウロが言う家とは、これは後に言い換えられまして「神の神殿」(3:16)と言われています。教会のことです。ここでパウロが語っているのは、教会建築の話なのです。教会とは教会堂のことではありません。教会とは信仰者の群れのことです。私たちのことです(3:17b)。今、私たちが、共に集まって礼拝をしています。そのただ中に、神が、聖霊が、お住みになる(3:16)神殿、これこそが教会なのです。 パウロは、自分は熟練の教会建築家として、コリント教会の土台を据えた、と言っているのです。その土台の上に、他の人が、後から来た伝道者アポロでしょうか、あるいは長老たちでしょうか、その上に教会を建てているのだ、そう手紙を書いて、もうパウロは少々、心配になったのでしょうか。11節で「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」と言っています。ところがパウロが去った後、いつの間にか、パウロの見るところ、土台とも言えないようなものを土台だとか言って、その上に建物を立て始めてしまう、まさかそんなことは出来ませんね、とパウロは言っているのです。

 この教会建築の土台こそ、イエスキリストなのです。この土台なしに、表面どれ程立派な建物が建っても、それは「かの日」に耐えることは出来ません。この後、パウロは、「金、銀、宝石、木、草、わら」(3:12)と建築資材を挙げますが、前半の「金、銀、宝石、木(糸杉)」を用いて造られる建物はさぞ煌びやかで美しいことでしょう。ソロモン王が建立した実際のエルサレム神殿の建材がここに列挙されているのです。「…純金で内部を覆った。この大いなる神殿に糸杉材をはり付け、それを上質の金で覆い、その上になつめやしと網目模様の浮き彫りを施し、宝石で神殿を美しく飾った。」(歴代誌下3:4~6)しかし、土台がしっかりしていなければ、それは後半の「草、わら」を用いて建てた家と何も変わらず脆いのです。いえ、そうではなくて「草、わら」で造った家でも、つまり人々が見て、その家は小さく、貧しくても…、私たち日本の教会の多くは質素な教会堂を持っていますが、しかし土台がしっかりしておれば、それは確かな神殿なのです。終わりの日にその堅牢の値打ちがはっきりと現れる。「かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」(3:13b)「かの日」に、むしろ、金銀宝石糸杉で出来た豪華絢爛な神殿の方が炎上するかもしれないのです。

 実にエルサレム神殿の「かの日」はまさに火で焼かれる時でした。それは歴史上二度ありました。一度目は、紀元前586年、イスラエルはバビロニア帝国との戦争に敗北し神殿は都と共に焼き払われました。その後捕囚の民は帰還しエルサレム神殿再建を成し遂げ、ヘロデ大王が完成させます。それは見る者を圧倒する小山のように白く輝く大理石の建造物となりました。主の弟子が「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(マルコ13:1)と感嘆の声を挙げたのです。しかし主は「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とその崩壊の預言をしました。その通り紀元70年、ローマ軍によって神殿は破壊炎上し、黄金の燭台や銀製のラッパなどが戦利品としてローマに運ばれました。確かに「金、銀、宝石、糸杉」で造られた目を見張るような神殿でしたが、その土台が弱かったのです。その土台が「神の言葉」でなくなっていたのです。旧約時代、預言者が何度も、神の言葉に立ち帰れと忠告しましたが、聞き入れなかったからです。新約時代もまた、パウロが言った、キリストという土台の上に、ヘロデの神殿は建てられることはなかったのです。むしろその土台を棄てた。その土台を十字架につけてしまった。それが、金銀宝石杉で出来ていたはずの神殿が、草やわらのように簡単に「燃え尽きた」(3:15)理由です。

 聖書研究の雑誌で牧師のストレスについての分析がありました。それによると牧師は最も「燃え尽き症候群」に陥りやすいと言うのです。牧師は真面目であり禁欲的生活をしがちである。牧師は日々多くの悩みについて相談を受ける。深刻な苦悩を聴いても何も出来ない自分の無力に悩み、一緒に溺れてしまうことがある。あるいは、それこそ会堂建築のために、燃え尽きてしまう牧師もいる。牧師も教会員も人々の評価の渦の中で生きていることには代わりありません。立派な牧師、立派なキリスト者だと思われたいのです。それこそ、金銀宝石杉のような人間でありたいと思うのです。そうやって、とうとう立派な教会を建てた時、燃え尽きる、そういう話を聞きます。

 私たちもまた今、会堂改修を計画していますが、最近、急に建築費が高騰しまして、最初考えていたような規模の改築は出来そうもないということを、先月の役員会で話し合いました。そうすると、この会堂改築の責任者である者たちは、どうしたって頭を抱え込むことになります。こうして牧師も教会員も、こういう目に見える教会堂にしろ、目に見えない教会にしろ、その建築のストレス、重荷から解放されることはありません。その重荷から本当に解放されたいのなら、牧師を辞め、さらにキリスト者であることも辞める他はないと思います。しかし、そのキリストと隣人に仕えて教会建築をする中で、どう燃え尽きない家を建てるか、倒れない信仰者の人生を建てるか、それをパウロは今日の御言葉の中で教えているのです。燃え尽きないためには、自分たちの真の土台を思い出すことです。それ以外にありません。

 教会学校の説教で語ったことがある「オフェロの物語」を思い出しました。川の渡し守であったオフェロは、嵐の吹き荒れる夜、一人の少年、つまりキリストの仮の姿ですが、その少年を背負って濁流の川を渡る。ところが、その少年の体重がぐんぐん重くなってくる。これは駄目だ、流されると思ったのですが、どういうわけか一歩一歩が川底に食い込み流されません。ついに渡り切ることが出来た。どうしてか。キリストという重荷を担って進む時、それで私たちは滅びることはない。返ってそのキリストの重荷の故に濁流に足を取られることなく、向こう岸にたどり着くことができる、そういう信仰の物語です。私たちは信仰者となってキリストを担う。しかしその担うキリストによって、実は、私たちの足は支えられ守られるのです。これは本当のことです。だから耐えることが出来る。何故か、何度でも何度でも、くずおれ膝をつきそうになる私たちを主がその愛をもって、底から支え続けて下さっているからであります。 「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」(3:10)この「熟練した」とは「知恵ある」という言葉だと言いました。四谷に上智大学(ソフィア・ユニバーシティ)があります。そのギリシア語のソフィアと同じ言葉が「熟練した」という言葉です。そしてこのこのソフィアというギリシア語は1:18以下に頻繁に登場します。その21節から読んでみましょう。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。…わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。…召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(1:21~24)この神の知恵が「上智」であり「真のソフィア」です。そしてそれが、この世の知恵では知られないのは、それが十字架の「知恵」だからです。その神の知恵、十字架の言葉こそ教会の土台なのです。詩編にはこうあります。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」(118:22~23)建築家がこの石が何の役に立つかと退けた石なのです。パウロの言った通りです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです」(コリント一1:18)、この上に建ててどうして立派な建造物が出来るのかと訝られた石、それがイエスキリストだった。しかし詩編詩人は歌う。驚くべきことが起こった、と。その私たちが棄てた石が隅の親石となった。土台となった。その石を棄てた者を支える土台石に返ってキリストはなって下さった、と言われる。それが十字架の贖いなのです。

 私たちの神殿が燃え尽きる、それは、この十字架の知恵を忘れるからです。教会を建てる労苦、そこで本当に疲れ果てるのは、良いことをする中でも現れる私たちの罪のためです。ある牧師は燃え尽きた時、自らの伝道者としての生活を振り返って、自分は妻を真に愛してこなかったと告白しました。開拓伝道で生み出した自分の教会を大きく立派にすることだけに邁進し、妻に一切の犠牲を強いてきた。そして今礼拝出席者が150名になり、会堂建築の借金数千万円を返済し終わった時、妻が病んだ。それを見て自分も燃え尽きた。その時、一番身近な妻を、自分はこの20年間、見殺しにしてきたのだと知った。立派な牧師だ、優れた説教者だという誉め言葉に酔っていた。妻が病んでしまった時、自分は他の牧師に一切を譲り教会を去った。そして今は何もない。しかし妻が傍らにいて微笑んでくれる。これでよかったのだ、と書いています。

 「燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(3:15)ここに、火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます、と書いてある。建てた家が燃え尽きてしまって、その人は滅んだ。罪を犯したからだ、そう続きそうですが、しかしそうは書いていない。火の中をくぐって、つまり燃え尽きても救われます、と書いてある。ここで読み間違えないで欲しいのです。神を信じ、教会を建てる中で、懸命に奉仕する中でなお罪を犯す、だからこそ、罪を犯すと言った方が良い。そういう私たちです。にもかかわらず、そうやってくずおれる私たちを、なお底から支える十字架の主という土台は揺るがない。上に建てた建物が罪の故、全て燃え尽きても、しかし主の十字架の贖いは、なお私たちの命を底から支え続けます。罪が赦される。罪の赦しの十字架こそ私たちの土台なのです。教会の土台なのです。これこそ熟練の建築家の知恵なのです。教会を建てる中で罪を犯す私たちを、家を建てる中で妻を犠牲にし、子どもを愛し育てる、その中で返って罪を犯す私たちであります。しかし私たちが土台さえ誤らなければ、、、いえその土台選択も私たちが目利きであった、経験がものをいったからではありません。パウロは「わたしは神からいただいた恵みによって」(3:10)と、そこで知恵ある土台を据えることが出来たと言っています。全ては恵みなのです。その恵みによって与えられたイエスキリストという土台が残れば、私たちは救われる。何を失ってもです。燃え尽きても救われる。何と素晴らしいことでしょうか。だからパウロは、この土台を無視するわけがないね、と言っている。あり得ないことだ。この十字架という土台なき所に建てた家は、脆い。罪一つで滅びるからです。

 そして私は思います。このことを本当に知っている人、私たちは燃え尽きても大丈夫だと、罪を犯しても支えて頂けると、本当に知っている、つまりこの土台石を本当に知っている人は、燃え尽きない、と。どこかでこの土台に委ねることを知っているからです。緩められる。ふと気を抜くことが出来る。自分の努力や正しさに一切がかかっているのでない、そのことを知る。その時、自分も妻も子もそして教会員を病気にしてしまうような強迫観念からぱっと手を離すことが出来る。燃え尽きても大丈夫なのだ、そのことを本当に知った時、つまりキリストの土台の上に自分たちは立っている、赦しの中に立っている。愛の上に恵みの上に立っている。それを本当に知った者は、燃え尽きないと思う。そして、金、銀、宝石、糸杉の家ではないかもしれない。ぱっと手を離してしまったのですから人の目のから見たら、なんだ草やわらの家か、と馬鹿にされるかもしれない。しかし、建ち続ける家を、永遠の教会を残すことが出来る。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けます」(3:14)。私たちの西片町教会もそうなのです。感謝!



 祈りましょう。  教会を家庭を建てる重荷に疲れ果ててしまう者です。自分も兄弟姉妹もその疲れの中で傷つけてしまう者です。しかし、私たちは既に、イエスキリストという揺るがぬ土台の上に立つ神の家の民であることを思い出し、望みを回復させて下さい。どんなに人の目からは貧しい姿をとっても、この家は、あなたを土台としているが故に滅びることはないことを信じることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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