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2008年11月 4日「命を着る」

2007年11月4日(聖徒の日) 主日礼拝説教 「命を着る」

  説教者 山本 裕司
  創世記3:15~21
  コリントの信徒への手紙一15:50~58


 今朝の聖徒の日の礼拝の言葉として与えられましたコリント一15:55bにはこう記されてあります。「死よ、お前のとげはどこにあるのか。」これは預言者ホセアの言葉の引用です。元の言葉は「死よ、お前の呪いはどこにあるのか」(ホセア13:14)となっています。その「呪い」という言葉が、ここでは「とげ」と言い換えられています。これは「死のとげは罪である」(コリント一15:56)と印象深い言葉として直ぐ繰り返されます。「棘」とは小さなものだけでなく、これは獣を追い立てる棘のついた棒であるとか、蜂やサソリの毒針、蝮の毒牙のことであろう、と注解されます。いずれにせよ致命傷を与える棘のことです。まさに「呪い」なのです。死にはこの呪いの棘が絡みついていて、触れる者をみな致命的に傷つけると言うのです。

 死ということは確かに寂しいことですが、自然なことと理解する向きもあるかもしれません。植物は今の季節、次々に枯れていきます。それも一つの死です。動物も死にます。一度生まれたものがいつまでも生きていたら、直ぐこの地上は生物で一杯になって身動き出来なくなるでしょう。生き物は死にそして新しい生命に場を譲る、その循環の中で自然は秩序と美しさを保っています。

 しかし、私たち人間の死はどうでしょうか。天寿を全うし大往生を遂げる方々の死は、あるいはそのような自然の営みに近いかもしれません。しかし多くの場合、愛する者、掛け替えのない者の死は、決してあってはならないこと、恐ろしいこと、とても「不自然」なことと感じられるのではないでしょうか。人生のある瞬間、突然、まさに死の棍棒が一振りされ、それに絡みつく棘で体中がずたずたに裂けてしまい血が噴き出す、そういう経験をする。その傷を十字架と復活の主によって癒して頂きながら、今に至られたご遺族もここにおられると思います。

 しかし最近の日本においてこの「死の棘」ということが分からなくなっているのではないかと言われます。作家加賀乙彦さんが書いた『悪魔のささやき』という新書を読みました。加賀さんは、犯罪心理学を専門とされる医者でもありますが、しかし彼にして想像を遙かに超えるような犯罪が、毎日のように報道されると、彼は驚きを隠しません。事件を犯すまで、ごく普通に生活していたように見える少年少女が、ある日、突然、いとも簡単に友だちや家族を殺す。あるいは先生に叱られただけで首を吊ってしまった小学生もいました。加賀さんはそのような現象は、死の「リアル」を知らないからだと言うのです。死はアニメで描かれるような美しいものではない。ゲームのようにリセット出来るものでもない。小学生のアンケート調査で「人間は死んでも生き返ると思うか」と聞いたら、半数以上が「イエス」と答えたそうです。加賀さんは、日本は余りにも死の現実を隠していると言います。ドイツはそうではない。小学生の時から「死の教育」をしている。人間の肉体は死ぬとどうなるか、どういうプロセスで腐敗し骨になるか。死は恐ろしく、苦しいものだ。苦しみもなく、サーと天国に行けるわけでない。あなた方のような子どもも突然死ぬこともある。一人の人が死ぬと、どれほど家族や友だちが衝撃を受け悲しむか、絶望するか。教科書を作って、まさに御言葉「死の棘」の存在を幼い頃から教えるのです。

 パウロは「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(15:50)と書きます。パウロがこう書いた理由は、手紙を送ったこのコリント教会もパウロが去った後、別の指導者によって、死に対する誤った安易な楽観主義が広がっていたからなのです。人間の霊魂は元々永遠不滅であるから、何も死を恐れる必要なない、サナギが蝶になるように、返って肉体の虜から解放されて、死後の霊魂は自由に羽ばたけるのだ。だから死は解放であり喜びでさえあるのだ、そう教えた者がいたようです。それに対して、パウロは「肉と血」、これはただ肉体だけのことではなく、霊魂も含めた人間の自然的状態全てのことです。それが神の国を受け継ぐわけではない、その意味は、つまり人間はそのままで救われるのではないということです。死ねば救われるのではない。人間の一切は、肉体も霊魂も一切は、朽ちるものであって、つまり滅びるものであって、そこには元々永遠性はない。そうパウロは霊魂不滅の楽観主義を否定するのです。どうしてか。その理由こそ「死のとげは罪である」と言う事実に他なりません。

 罪が問題なのです。他の生物、植物にしても動物にしても、その死は普通自然の摂理に沿った穏やかなものだと先に申しました。穏やかでない死に方をするとしたら、それは人間の貪欲による自然環境の破壊や動物虐待などの罪が入り込んできた時です。同様に人間の死だけが、死ぬ者も残される者も、そして社会さえ、一つの死によって大きな傷を負うのは、死に棘としての罪がまとわりついているからです。ある学者は、この御言葉をこう注解しています。「棘は実際には死にあるのではなく、罪にあるのだ。…この罪が赦されて、取り去られているところには、たとえ死があっても、棘は抜き取られるであろう。」

 島尾敏雄というカトリック作家の作品に、このパウロの言葉「死の棘」をそのまま題にした作品があります。映画化もされてカンヌ映画祭で大賞を得た名作となりました。この島尾の自伝的作品は、平凡な家庭に罪が入り込んできた時、それがどんな結果を引き起こすか、それは死をもたらす、夫妻だけに留まらない、子どもたちまでも死の虜にする、そう描いているものです。

 あるいは、こう言っても良いでしょう。私たちの人生に付きまとうものは虚無ということです。私たちはこの人生で一所懸命働きます。人生の大半を労働に費やします。しかしその結果として残す仕事が空しい結果でしかなかった、そう悩むことがあるのではないでしょうか。人類最初の男アダムが罪を犯して堕落した瞬間、労働の虚無の問題が出現したと創世記は語ります。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:17~19)そう罪に堕ちた男への裁きの言葉として、労働にまつわる空しさが記されています。

 女への裁きはこうです。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」(3:16)女性は子どもを生みます。そして子どもを育てることに全てを捧げます。しかし、エバがついに二人の男の子を育て上げた時、その兄は殺人者となり、弟はその兄に殺されたいう「はらみの苦しみ」が結果でした。ここにも女の、母の、子どもを育ているという労苦の末の虚無の問題がある。懸命に働く、懸命に育てる、しかしその人生に罪がまとわりついて、その死に際して、自分はいったいこの一度だけの人生で汗水流して働いたのに、何を残せたのだろうと思う。死に際して私たちが一番悩むことはこれかもしれません。私たちは仕事や家庭で、それなりに何かを残したと思えても、よその人が「あなたも良くやったわよ」と慰めてくれても、しかし自分だけが覚えている悪いこと、自分が犯した罪、犯された罪、そのことが人生の記憶に付きまとって離れない。そしてやっと残せた小さな人生の成果をすら、その罪と悪が黒々とみな上から塗りつぶしてしまった、そう感じられる。自分は一体何のために生まれてきたのだろうか、全ては無駄だったのではないだろうか、その煩悶の中死を迎えた時の敗北感は深いと思う。そこで、この骨折りと無意味こそ人の一生であるならば、真面目に生きるのは空しい、最初から遊び回って終わりにしてしまえば良いのだ、という刹那的な人も現れます。パウロは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(コリント一15:32)と言っている者がいると書いています。

 死に際して「ああ、生きた、自分は生きた」と、主イエスが十字架の上で最期に「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言って息を引き取られた、あのような人生の充足が、満足した死が、私にはない。何故、労働に虚無が付きまとうのか、働いても働いても、金を稼いでも稼いでも、それらが、神と隣人の喜びのために用いられないからです。労働の果実がみな悪いものに変わってしまうのを見なければならない。新聞では連日、公務員の汚職や怠慢、食品や建築会社の不正や偽造問題が報道されています。それらが人々を苦しめています。社会のシステムが崩れていきます。その責任の一端を私たちの労働もまた担ってしまった、社会を暗くするお手伝いをしてしまった、そういう経験をすることもある。一生かけて何も神様と隣人に良いものを残すことが出来なかった、無駄な人生だった。そう思って死を迎えるのは、まさに呪いであって、棘に刺される痛みを伴うのではないでしょうか。

 しかし使徒パウロは、この死に係わる言葉の最後に言いました。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:58)と。あなた達の労苦は、空しくは終わらない、無駄にならない、人生を結実して、あなた達は死を迎えることが出来る。主イエスと同様に「成し遂げられた」と叫んで、満ち足りた中死ぬことが出来る、それはどうしてか、「主に結ばれているならば」と言ったのです。ここで全てが変わる!

 最初の人間アダムとエバは、神様に造られたままの汚れ無き人であった時、裸であったと書かれてあります。それは裸であっても、そこは柔らかな草花しか生えていないエデンの園であって、棘によって傷つけられることは一つもなかったからでしょう。神様と仲睦まじく、神に守護されているが故の無防備な人間の安心した姿が、その裸に暗示されているのです。ところが、彼らは禁断の木の実を食べて堕落し、神と断絶しました。私はこの堕落物語を読む度に思い出すのはミルトンの書きました壮大な物語『失楽園』です。それによりますと、禁断の木の実を人間が食べた瞬間、地獄から楽園に喜び勇んで飛び込んでくるのがある。それが罪と死なのです。同時に土は呪われ「茨とあざみ」(創世記3:18)も生えた。まさに死の棘が出現した。それが最初の夫妻の無防備な裸を傷つけるようになった。ミルトンの物語では、その瞬間、もう一人、宇宙の彼方の天の御座からものすごい勢いで地上に下って来る者がある。御子イエス・キリストです。そして「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(3:21)、裸に震えて立つ二人に皮の着物を作って着せて下さるのはこのキリスト御自身なのです。キリストはかくして、罪による死の棘から彼らを覆った、そう言われるのです。その着物とはパウロにおいてはもはや獣の皮でもない。「主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ローマ13:14)キリスト御自身が裸の我々を覆う。そのために御子イエスの方は、茨の冠を被さられ、その棘に刺されて血を流されたのではないでしょうか。その御受難の時、キリストを打ったのは、あの壮絶な受難映画「パッション」によれば、棘のついた鞭であった。御子はまさに、私たちが受けねばならない罪の故の死の棘を一身にあびられ、私たちの裸を覆い守る衣自体になって下さった。その時、私たちの一切は変わる。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。…この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。』」(コリント一15:51~54)私は昨日、ヘンデルの「メサイア」その終曲近くこのパウロの言葉が高らかに歌われる箇所を何度も聞きました。そして心躍りました。メサイアでは「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(15:52)と歌われた後、本当にトランペットの余りも美しいファンファーレが響き始める。何度もそのメロディーが歓喜の中でリフレインされる。もう皆さんの耳の奥で、そのトランペットの音が鳴り響いてこられたのではないでしょうか。一度、メサイアを聞いた者は、あの「ザ・ラスト・トランペット」という声の直後「全てはチェンジした!」と、その「新しい時」の幕開けを知らせるトランペットの音楽を忘れることは出来ないでしょう。

 加賀乙彦さんがその事実を見つめよと言った、死の呪い、死の棘、そのことを、ここにおられるご遺族の方々は特に記憶しておられるかもしれません。私たちもまた死を誤魔化さないで、凝視しなければなりません。しかし今、私たちは等しく平安の中にいます。平安の中で、故人を思い出すことが出来ます。どうしてそんなことが可能となったのか。パウロが言う通りです。故人が「主イエスキリストと結びついて」おられたからです。残された私たちもまた主御自身である命の衣に覆われたからです。しかし、そのために主の頭は棘に刺され、その裸の御体は棘のついた鞭で打たれました。しかしそれが故に、私たちの罪は贖われ赦され、私たちの死からは、棘が取り去られたのです。だから死に際して、私たちは、必要以上に恐れる必要はなくなりました。罪が贖われたが故に、私たちの人生の労苦もまた決して「無駄にならない」(15:58)。だから、刹那的にならず、動かされずしっかり立ち、主の業に常に励む(15:58)生き方をすることが出来るのです。御子が体をはって私たちの裸を守って下さる。死の棘から覆って下さる。そこで私たちの最後の敵、死は骨抜きにされる。死は敗北する。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15:55)もはや死は死でないほどに死は敗北し、私たちは命の勝利を頂戴する。このようなことをして下さった、十字架と復活の主に感謝を捧げるのが今日、聖徒の日であります。



 祈りましょう。  突然の死の襲撃に合い、死の棘に打たれ、望みを失いがちになる時、御子の命の衣に覆われる平安を思い出させて下さい。既にその試練に信仰をもって勝った先達と御遺族をここに私たちは迎えています。どうか私たちもその信仰を受け継ぎ、ラッパの命の音楽に励まされ、あなたにある勝利を信じることが出来ますように。そこであなたが約束して下さった、消して無駄にならない労苦を生き、やがて、深い安堵の息をついて、あなたのもとに帰ることが出来ますように、私たちの人生を祝福して下さい。

(この後、讃美歌21-474「わが身の望みは」を声高らかに歌った。) 




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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