日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2008年10月26日 主日礼拝説教 「オカルトからの自由」

2008年10月26日 主日礼拝説教 「オカルトからの自由」

説教者 山本 裕司

''創世記 1:16、19



 「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。…夕べがあり、朝があった。第四の日である。」(創世記 1:16、19)



 私たちは今朝「降誕前第9主日」を迎えました。この暦は、クリスマスを待ち望む季節が始まったことを告げています。この時期の一週一週を、創世記・天地創造物語を読みながら過ごしたいと計画しました。

 旧約の民は、異教の国バビロニアとの戦争に敗れました。都エルサレムは陥落し、神殿は炎上しました。そしてバビロン捕囚が起こる。イスラエルの民は、もはや故郷に住むことは許されず、異教の都バビロンに連行された。そのような民族的大崩壊の「危機」の時、イスラエルの中で強まった、救い主メシアを待ち望む祈りを、今、私たちも共に捧げつつ、やはり「(金融)危機」のただ中にある晩秋の季節を過ごしていきたいと願うのです。

 「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(創世記1:3)神の天地創造の第一声は「光あれ」です。しかしこれは私たちが予想するような、太陽の創造ではありません。天体の創造は、何故か、ずっと後、1章14~16節(4日目)でなされるのです。

 天地創造最初の決定的なる「光」とは「混沌」「闇」「深淵」(1:2)に対する言葉であり、歴史の混沌、ニヒリズムの闇を照らす救いの光のことです。自然の光ではない。宗教的、霊的意味での光、神から直接放射される凄まじき救いの光を意味するのです。

 今朝の創世記1:14~19においては、それとは別の物理的意味における光の創造が言われているのです。私たちは、この天体の創造が天地創造も半ばを過ぎた、4日目という非常に遅い時に位置づけられたことに、不可解さを感じるのではないでしょうか。草花や果樹が太陽光線によって生きることは、誰もが知っていることです。その植物の創造は第3の日であり、むしろ天体に先んじているのです。古代人はかくも非科学的だったなどということを、言うことは出来ません。何故なら、彼らの太陽や月、星々に対する感性の鋭さは、機械文明に犯された私たちの比ではないからです。天体の力を余すところなく知っている者が、しかしあえて、天体の創造を遅らせて描いた。そこに、バビロン捕囚を経験した創世記記者の精一杯の「プロテスト(異議申し立て)があった」と、ある学者は言いました。何故なら、彼らが、異教の国で生きる時、最も苦痛であったのは、天体を神として拝む盛大な祭を、目の当たりにせざるを得なかったからです。

 関田寛雄先生はこう書いています。「都バビロンでは、当時世界最大の壮大な祭りが行われていた。新年祭には創造神話が祭儀的に演出された。その主役は創造神・太陽神マルドゥクであった。巨大な神像の威風堂々たる行列を見て、イスラエルの民は圧倒された。」民は自分たちの都の荒廃を思わないわけにいかなかったでしょう。バビロンの勝利は、太陽神の勝利であると、イスラエルはあざ笑われたことでしょう。またメソポタミアでは「月神」も拝されてきました。その昔、アブラハムの前に、何故真の神が現れ、行き先を知らない旅に出ることを促したのか、それは、このメソポタミアを支配していた、月神からの解放を求めてのことだったのではないでしょうか。その地で、太陰暦が生まれたのです。星は占星術に用いられました。

 つまり、人間にとって、天体は余りに偉大でした。にもかかわらず、あえて創世記記者は「いや違う。天体は神ではない。それは偶像である。」と訴えたのです。


 そこで、創世記1:3の最初の光と、第4の日の天体との関係についてです。それは、神ご自身が放射された初日の光が、4日目の天体を媒介して、地にもたらせられる、という理解です。つまりあくまで、天体それ自体が光を放射するのではなくて、神の真の光をいわば通過させて、地球にもたらす窓、またはパイプのような役割である。あるいは反射する鏡のような存在である。今、私たちは、月はまさに、それ自体が光っているのではなくて、太陽光を反射して輝いていることを知っています。それに似て、実は、太陽、月、星々は、みな、それ自体は暗い空しい物体に過ぎない。しかし、神の光がそこを通過してくるのです。天体は、創造主の御業に奉仕する僕に過ぎない、との理解です。だから聖書はこう戒めます。「目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。」(申命記4:19)


 ところで、今朝の説教題は「オカルトからの自由」です。オカルトとは、科学的、合理的な方法によって捕らえることが出来ない、超自然、神秘主義的なものを指す言葉です。現代における具体的な「オカルト的現象」には、各種占い、心霊写真など霊にまつわる諸現象、スプーン曲げに代表される超能力や、虫の知らせなどの不思議体験など多数あります。特に占星術は、若い女性を中心に流行しています。それはマスコミの責任が大きいのです。毎朝、星占い見させられているうちに、このオカルトが、人々の心の内で、科学的根拠に基づく天気予報やニュースと同様の位置を得てしまうかもしれません。(西洋)占星術は、人間が生まれた瞬間と運命を決める星々がどこに位置していたかによって運命を占う方法です。私たちキリスト者はこれに対してどのような態度をとったら良いのでしょうか。

 使徒パウロは言いました。「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(ガラテヤ4:9)

 パウロは嘆いているのです。パウロが宣べ伝えた福音によって一度は真の神を知ったガラテヤ教会の人たちが、再び今、天体、諸霊に支配されていると、彼は心底悲しんでいます。ここでパウロは、神を知った者は、愛の神によって全ては成ると信じているはずではないか、それなのに、他の霊的存在・オカルト的なものによって、支配されていると、いささかでも考えるわけには、いかないではないかと言おうとしているのです。天体の動きは、極めて正確な機械的法則性に則っています。そのような、固く冷たい非人格的なものに、我々の人生が支配されることになるのか、ということです。創造主なる神は、機械的に人の運命を取り扱うようなお方ではありません。柔らかな愛の御心をもって、世界と私たちを導いていかれるのです。

 むしろ私たちが、自分は悪い「星」のもとに生まれたのだ、そう絶望した時、神様はその定めを打ち破って下さるお方です。神は、私たちがもうこれは変えられないと思う定めを、変えて下さるお方なのです。私たちはだから祈ることが可能なのです。神様はその祈りを聴いて下さる。私たちは訴えようのあるお方を持っているのです。そこで、どうして、なお天体の機械的運行に、いささかでも拘るのか、それは信仰者としてふさわしいことか、とパウロは言っているのです。


 あるいは、この天地創造物語と、科学的思考というものも、決して無関係ではありません。天体に神性、霊性が存在するとすると、恐れ多いために、冷静な研究は出来なくなるのではないでしょうか。自然は、天体も含めて、全て被造物であり、そこに神性は存在しないことを強調するのが、創世記記者です。そこから自然世界を醒めた目で、観察、分析、研究する客観的態度が可能となりました。それが科学的態度であって、そこから、一見、不思議な現象も、よく研究すれば、解明可能であるという理解が生まれました。ある人は「この天地創造物語こそ、科学的精神に生みの親」とはっきり書いています。

 そうであれば、占星術も、科学のメスを入れることが可能なのではないでしょうか。立命館大学の安斎育郎先生はこう書いています。「アメリカにサイコップ・超常現象科学調査委員会があります。そこで、いわゆる心霊現象や超能力を40年以上にわたって解明してきました。サイコップは、その研究の結果、超常現象の結果と称する多くの主張を論駁するのに貢献したと、物理学会から表彰されています。占星術に関しても、彼らは、膨大なデータとコンピューター分析によって研究しました。それによると、ホロスコープ(黄道一二宮図)と人間の命運とは無関係であることが実証されたのです。そして彼らは、星占いを掲載している新聞に科学的根拠がない旨を表示するように要請しました。」(『科学と非科学の間』)


 特に現在、カルトがオカルト的思考を利用しています。「手相占い」から入らされ、先祖が霊界で苦しんでいるから、壺を買いなさいと脅迫してくる。その時、テレビでオカルト的なものに染まってきた人は、信じ易いのではないでしょうか。死者からのメッセージを伝える自称・スピリチャルカウンセラー(つまりイタコ)も、テレビの人気者です。もしその時、科学的思考があれば、じゃあ、この人はどうやって、死者と対話したり、霊界を視ることが出来たのだろう、と立ち止まることが出来るかもしれません。そして誰かに相談に行くかもしません。それを尋ねている内に、実は、彼らは、霊能者ではなくて、マニュアル、シナリオ通りに言ったに過ぎない、つまりこれは「宗教的詐欺」だと気づくのではないでしょうか。小さな頃からスプーン曲げなど超能力番組に親しんできた者も、教祖の空中浮揚写真を見た時、受け入れ易いのではないでしょうか。しかし科学的思考に慣れていれば、それが本当に彼らが宣伝するように、超能力によってしか出現しない現象なのか、別の方法があるのではいかと考えることが出来ると思います。

 そしてそれが本当に、これまでの科学では解明されていない現象であると判明したなら、それを受け入れればいいのです。しかしそれがよく分からないからと言って、全部直ぐ、超能力だと、教祖が最終解脱者、神だから出来たのだ、と簡単に思うことは大変危険なことです。もし教祖が単なる詐欺師、あるいは手品師だったらどうなるかということです。実際、スプーン曲げも、空中浮揚も、死者の霊視も、超能力ではなく、子どもだましのトリックだったことが判明しています。

 使徒パウロは、あなたたちは、クリスマスの夜、来て下さったキリストの御支配の内を生きるのだから、諸霊から自由になったのだ、と訴えました。その自由になる道を、神様はもう天地創造の時から始めておられました。一切は神様の愛の光によって、生かされ、導かれているのだ。メシアと出会い、それを知った者は「もう他の霊的なものに支配されたりするはずはないね」と聖書は私たちに訴えているのです。



 祈りましょう。  主よ、あなたにこうして祈ることが出来るのは何と幸いなことでしょう。あなたは私たちが運命だと思うことも、定めだと諦めていることも、変えて下さるお方であることを、心より感謝します。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




a:604 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional