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2008年 8月31日「蛇行の理由」

2008年8月31日 北支区夏期講壇交換説教・板橋大山教会にて 「蛇行の理由」

  説教者 山本 裕司
  箴言 14:12
  ヘブライ人への手紙 4:15



「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」  (箴言 14:12)

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」  (ヘブライ人への手紙 4:15)


 夏はとても楽しい季節です。かつて私の趣味はアウトドアでした。ある夏、息子の純と、カナダのユーコン川を9日間、370㎞下ったこともありました。川は大自然の中、ゆっくりと蛇行しながら穏やかに北極圏に向かって流れていきます。このユーコンのような大きさはありませんが、日本の川も実に味わいが深いものです。四国の四万十や北海道の釧路川は、日本の川の中でも、最も美しい最高の川でした。特に釧路川の源流部や、蛇行を繰り返しながら湿原をゆったりと流れる箇所など本当に素晴らしい。右に左に蛇行し、時には後戻りするんじゃないかと思うほどの紆余曲折を繰り返します。ところが、驚いたことにその釧路川でさえ、中流域で途方もない河川改修工事がなされているのです。ショートカットと言って、蛇行部分をカットして、川を真っ直ぐに付け替えてしまうのです。そこに差し掛かりますと、ゆっくり下っていた川が、突然早い流れとなり、急勾配のコンクリート護岸の間を、(つまりもはや川と言うよりは、水路と呼ぶべき所を)真っ直ぐに流れていくのです。そうやって川を直線化することによって、世界的な自然遺産である釧路湿原も年々歳々小さくなっており、乾燥化の道を辿っているといわれています。それは、その湿原に住む小さいが掛け替えのない貴重な動植物の命の滅亡を意味しているのです。

 日本では公共事業の名目で、その官僚、政治家、土建業者の利権のため、殆ど無意味と思われるような河川改修やダム建設、河口堰建設がいたる所で行われ、激しい環境破壊が引き起こされてきました。その企ては、心ある人々から糾弾されました。しかしなおその破壊は、さらに巧妙な仕方で、続いているのではないでしょうか。

 その釧路川を、作家・俵万智(たわら・まち)さんが何度か訪れ、短歌を作りました。その歌の一つを紹介します。

  蛇行する川には蛇行の理由(わけ)あり 
  急げばいいってもんじゃないよと

 宮城県気仙沼で牡蠣養殖業を営む畠山重篤さんというキリスト者がいます。彼は「森は海の恋人」というスローガンを掲げて、川の上流にブナの森を作り続けています。ブナという文字は、漢字で木偏に無と書きます。日本では長年役にたたない木として通ってきました。幹は屈曲し、水分は多く、薪にも柱にもならない、と。ブナの森は凄まじい勢いで切り倒されました。そこがスキー場となりゴルフ場となりました。あるいは、そこに役に立ちやすい真っ直ぐな杉檜が植樹されました。日本の山は、どこもかしこも杉檜林ばかりとなりました。そして何が起こったのか。花粉症であります。今、真っ直ぐを求めた日本人たちはこぞって、初夏のくしゃみに苦しめられています。さらに、安価な外材が輸入され、杉林を、誰も世話をしなくなった時、繁茂した杉の枝葉によって太陽の光が入らなくなった山に、下草雑木は生えない。山は保水力をなくしました。雨が降ると、その水は森に蓄えられることなく、まさに今夏、日本の至る所で起こったように、山を崩しながら、川を一気に流れ落ち海に出て行った。それにつれ海の生物資源は消滅していったのです。海から魚がいなくなり、牡蠣が育たなくなりました。

 畠山さんは、その時、山に木を植えに行ったのです。どうしてか。彼は説明します。木偏に無と書いてブナ。それは間違っている。イギリスでは「マザー・オブ・ウッズ」(森の母)と呼ばれている。スペインでも森は「ママ」と呼んでいる。日本でも昔はナラの木を「ははそ」と呼びました。母に関わる言葉です。日本も古来、森は母でした。樹齢百年のブナの木があったとします。この木には葉が三十万枚ついている。これが毎年落ちます。落ちた葉は、土の下で生きる虫のエサになる。さらにこれは何年も積もり積もって腐葉土になります。豊かな栄養分を含んだ腐葉土は少しずつ川に流れます。そこに含まれる多様な養分、鉄分は、植物プランクトンを育てます。そして、海に流れて行って、魚介類、海草のエサとなる。ブナの森が復活した時、二十年以上も姿を見なかった鰻が川に戻り始めた。海にはメバル、竜の落とし子などが見られるようになった。こうして気仙沼湾は甦ったのだ。そう言うのです。

 あるいは、一つの研究機関が、二本の実験河川を作りました。一本は蛇行して「瀬」や「ふち」のある川にしました。もう一本は、真っ直ぐの川にしたのです。これらの川に住む魚の数と大きさを比べる調査をしました。すると蛇行した川には、直線の川に比べ、7~8倍の魚が住んでいることが分かりました。また大きさも蛇行している川の方が目立って大きかったそうだ。蛇行している川は、豊かな生態系を育み、魚はえさを捕ったり、隠れたりするのに都合がよく住み易かったのです。

 ヘブライ4:15にはこうありました。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」この大祭司とはイエスキリストのことです。主イエスは、その地上の御生活の中で、私たち人間と同じ試練を受けられた。それは蛇行する経験をされたということではないでしょうか。だから人生に迷う私たち人間に同情できる救い主になられたのだ、と記されているのです。福音書を読みますと、弱い人たち、罪人、病人、孤独な人たちが、イエス様の周りに沢山集まっていたことが分かります。その場が生きやすかったのでしょう。しかし、これは主イエスのことだけではなくて、私たちにも当てはまることではないでしょうか。人間の中には、エリートコースを真っ直ぐに突き進んでいく人がいます。しかし、そういう人の隣にいても何か冷たい印象を受け直ぐ離れたくなる、ということはないでしょうか。川をみな真っ直ぐにしてしまう官僚、役人たちは、子どもの頃、勉強ばかりしていて、川で遊んだことが一度もなかったのではないでしょうか。確かに、その人の人生には少しも無駄がない。躓きがない。回り道がない。寄り道をして、土手に座り込み、いつまでも、蟻の行進を見つめてたり、寝転がって空の雲の流れを眺めていたり…そういう経験を知らないで、塾に急ぐ。そのような直線人生は能率的かもしれませんが、弱い小さなものへの優しさや、人の弱さに「同情」する心はそこに生まれなかったのではないでしょうか。

 思い出すのは長嶋茂雄です。言うまでもなく彼は選手時代「巨人」のサードであり4番でした。チャンスにめっぽう強い天才バッターでした。彼の活躍によって、私が若い頃、巨人は9年連続日本一という時代があったのです。長島は引退すると直ぐ巨人の監督になりました。ところがその1年目、巨人はまるで勝てなくなったのです。チャンスでことごとく凡退する選手を見て長島監督は悔しがりました。そしてある選手が三振した時、長島監督は、ダッグアウトで、首をかしげながら、腕を振って打つ仕草を何度もしました。それは、何故、あの程度の球が打てないのだろう、こうバットを振れば簡単に打てるのに、と本気で不思議がっているそぶりなのです。長島は天才です。誰も長島の真似はできない。しかしそれが長島には分からないのです。自分にとって何でもないことですので、どうして選手が出来ないのか分からない、だから指導もできない。それが、彼の監督1年目でした。巨人は最下位となりました。彼が後に優れた監督として成長し、優勝出来るようになったのは、そのようなおそらく人生最大の挫折と躓きを経験し、成績不振で殆ど解任という痛い目にあったからではないでしょうか。

 私たちが子どもを育てる時も、どうか躓かない育って欲しいと願います。だから子どもに真っ直ぐな一本のレールを用意してあげようと親は努力します。しかし本当に私たちは蛇行しないで生きることが出来るのでしょうか。ガウディというスペイン人の有名な建築家がいます。彼は「自然界には直線はない。直線は人間が作り出したものだ」と言いました。そして彼の建築は、あの有名なサグラダ・ファミリア聖堂を思い出しても、全て曲線で出来ているのです。生きてるということは、曲がっていることだ、と言われるのです。生きるということは曲がっているということだ、と。

 しかし、これだけ聞いても、私たちは時に自分の人生は何で道草ばかりなんだろうって悩みます。何で失敗ばかりしてしまうのだろう、何で躓いてしまうのだろうと苦しみます。特に問題は罪の問題です。先ほど、箴言の言葉を朗読頂きました。14:12「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」これは確かに今朝の礼拝の主題を指し示している御言葉です。しかし実は、同じ箴言には、逆の言葉の方が多いのです。同じ14:2「主を畏れる人はまっすぐ歩む。主を侮る者は道を曲げる。」と記されているのに気づいた方もおられるでしょう。あるいは、
2:13「彼らはまっすぐな道を捨て去り、闇の道を歩き14悪を働くことを楽しみとし」という言葉もあります。3:32「主は曲がった者をいとい/まっすぐな人と交わってくださる。」23:19「わが子よ、聞き従って知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ。」こう、圧倒的にまっすぐに生きることを勧めるのが聖書です。曲がることは罪の別名であり、邪な道を彷徨い歩くことであります。そうでなく、私たちは真っ直ぐに、主の道を逸れずに進むことが求められるのは当然でありますし、それは私たちの切実な祈りであります。

 しかし、にもかかわらず、私たちの願いに反して、どうしても私たちの人生は曲がるのです。ガウディは生きるとはそういうことだ、と言うのです。私たちは罪を犯さないで生きることは出来ません。そして、私たちの求道の道を思い出してもいいと思う。生まれた時から、迷いなく、真っ直ぐに、信仰の道をストレートに歩いてここまで来た人が、この中に何人いるでしょうか。右に左に蛇行しながら、ようやく私たちはここまで信仰の旅路を辿ってきたのではないでしょうか。

 主イエスは、そのような愚かな私たちのための救い主として来て下さったのです。主イエスは御受難の時、十字架を負って、ヴィア・ドロロサ(涙の道)という曲がりくねった石畳の細い坂道を、右に左に喘ぎながら進まれました。その行進は、真っ直ぐに神様と向き合うことが出来ない罪人の私たちのためだったのではないでしょうか。頑なな私たちの罪が、神様とのお付き合い、求道の旅を、この教会生活を、曲がりくねった複雑なものとしています。しかし、そのねじける私たちを、なお受け入れ救うために、御子イエスは、私たちの罪の道行きをなぞるように、ヴィア・ドドロサを蛇行しながらのぼられました。そうやって、罪ある私たちに同情して下さったのです。そうやって、私たちを生かして下さったのです。蛇行した川にこそ、魚は生きることが出来ることに似て。

 蛇行する川には蛇行の理由あり 急げばいいってもんじゃないよと
 人生に一つも無駄なことはありません。


 祈りましょう。  御子イエスは、私たちが味合う試みを全て経験して下さり、私たちの弱さを理解し思いやって下さいました。感謝します。どうか私たちも、彷徨う隣人に同情出来る者とならせて下さい。そのために、必要であるならば、人生の蛇行する経験、躓きのをも、受け入れることができますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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