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2008年 7月29日 「あなたは、神に従いなさい」

2007年7月29日 主日礼拝説教 「あなたは、神に従いなさい」

  説教者 山本 裕司
  ヨハネによる福音書 21:20~23


 ヨハネ福音書1章1節から読み始めて、2年弱が過ぎ、この連続講解説教の終わりが近づいています。ここから離れるのが名残惜しいような思いで読んでいますが、残されたのはもう僅か数節となりまして、どうしても次週で終えねばならくなりました。今、読んでいます21章の物語は、弟子ペトロの復権の物語です。ペトロは御受難の夜、大祭司邸で、あなたは弟子の一人ではないか、と問われた時、三度「違う」と否認しました。主が十字架の上で苦しまれている時も、そのそばに共にいようとしませんでした。主に対する愛の故に留まったのは4人の女性たちでした。男で留まったのは主の「愛する弟子」ヨハネただ一人でした。いずれの福音書でも一番弟子の名誉を欲しいままにしてきたペトロが、そうやって、この時こそ信仰告白を身をもって証しすべき時、十字架の主の元から遁走したのです。

 そのようにいつもは女の前で威張っていますが、いざとなると真にだらしがない男の弱さを代表するようなシモン・ペトロを、しかし復活の主は親しく訪ねて下さる。そして三度「シモン、わたしを愛しているか」と問うて下さる、そして「私はあなたを愛しています」という三度のペトロの愛の告白、信仰告白を聞く度に「わたしの羊を飼いなさい」と、他の弟子でない、ここでは愛弟子ヨハネでもなくて、ペトロをこそ教会全体の牧会者に任じられました。主からもう弟子として死んだ、と見捨てられても仕方がなかったはずのペトロは、主の十字架によって罪赦され、復活の主によって使徒として復活したのです。しかしこの復活の主の大いなる恵みは、直ぐ課題・使命になります。神学校にいました時、先生がドイツ語で教えてくれました。恵み(gabe)即課題(afugabe)である、と。恵みとはもらいっぱなしでは終わらない、それは即、恵みに応える「生き方」を与えるというのです。

 その使命としてペトロに迫ってくる具体的な言葉とは「『…はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(ヨハネ21:18)ということだったのです。それは明らかに殉教の死でした。生命の危険に晒される所に派遣されるのだ、そう求められたペトロの心は燃えたと思う。復活のイエス様によって伝道者に戻して頂いた。しかも初代教会の指導者に生き返らせて頂いた。その大いなる愛に全てを献げたい、そう誓ったと思う。ここに偉大な伝道者が生まれた。初代教会を導く大牧者が誕生した。ペトロは朝焼けに輝くティベリアス湖を背景に真っ直ぐに続く道を見つめている。その道を突き進む彼の脇目も振らない前進が暗示されて、この福音書は終えればよかった、、、のではないでしょうか。

 そうであれば格好良いところで、ペトロはつい振り向いてしまった(21:20)。私はこの礼拝において新約の御言葉に合った旧約を選びます。今朝は創世記4章の物語の朗読頂きました。しかし候補がもう二つありまして、どれにしようか最後まで迷った。その一つは、創世記19:17の物語ですが、神の怒りによって悪徳の町ソドムとゴモラが滅ばされようとする時、主がロトに言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。…さもないと、滅びることになる。」ところが ロトの妻は、残してきた富を思い出したのでしょうか。「後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」(19:26)ペトロもロトの妻と似ていると思いました。ペトロが振り向いて見たのはヨハネです。この瞬間、ペトロの記憶に甦ってきたのは、あの最後の晩餐のワンシーンだったようです。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。」(21:20)ヨハネは主の胸に女のように寄り添っていた、まさに愛弟子であった。女のように美しい青年であったかもしれません。そして「主よ、裏切る者は誰ですか」と尋ねた。ペトロは主を裏切ったのです。しかしこのヨハネは少なくてもペトロのように露骨に主を裏切ることはありませんでした。女たちと一緒に、十字架の元に最後までいることの出来た、女のような男であった。そして十字架の主イエスから直々に母マリアを委ねられた人でした。ペトロとヨハネの関係は微妙です。いつも同じ弟子として共に悩み苦しみを分かち合っているようであって、どこかずれる。それは復活の朝の競争、マグダラのマリアから、主が墓から取り去られたと聞いて、二人で墓に向かって走った。ところが、ペトロがどんなに一所懸命走っても、ヨハネはどんどん先に行ってしまった。その記憶も振り返ったその一瞬、ペトロの頭によぎったかもしれない。そして彼は主に問いました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」(21:21)

 私が行きたくないところへ行く、それは結構です。しかしこの人はどうなるのでしょうか。まさかずっとイエス様の胸元に抱かれているのではないでしょうね。勿論、この後、イエス様は昇天されますから、いくらイエス様の胸元が好きなヨハネでもそれは出来ませんが、それに似た境遇、平穏な日々を送るのではないでしょうね。ある牧師は、人は自分一人であれば、使命に案外忠実でいられる、真っ直ぐであることが出来る。しかし自分より得をしている人を見た瞬間迷い始める。そう言いました。これは私たちにも思い当たるのではないでしょうか。それは教会の世界、伝道者の世界でも全く同じように起こっているのだ、そうヨハネ福音書は、ここで最後に記したのではないでしょうか。教会とはそもそも共同体ですから、いろいろな人がいます。皆、信仰告白し主から課題を与えられた人たちばかりです。ところがそうやって始まる教会生活において現実に起こる、生々しいというか、生臭い話が、ここでペトロの姿をもってもう暗示されているのかもしれません。教会も比較し合うのです。振り返るどころじゃない、前後左右上下、全部見回して、自分が少しでも損をしていないか、割を食ってないか、調べる、そういう心があるのではないか。

 主はそこでペトロに言われるのです。「…あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(21:22)そこで、もう一つ今朝の旧約の候補とした箇所は以下です。「女たちは楽を奏し、歌い交わした。『サウルは千を討ち/ダビデは万を討った。』サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。『ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。』この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。」(サムエル記上18:7~9)イスラエル最初の王サウルは何に激怒したか。数の問題です。ダビデは万、わたしは千か、と。教会がどんなに数を気にするか。内外の教勢をどれほど気にしているか。しかし結局、今朝の礼拝のために選びましたのは、やはりカインとアベルの物語ですが、この兄弟に人類最初の殺人事件が起こる。カインとアベルは神様に供え物をした。ところがどういうわけかアベルの供え物だけを神様はお受け取りになられ、 カインとその供え物に目を留められなかったと書いてあります。えこひいきのようなことが起こった。カインはアベルに嫉妬します。その妬み憎しみによって彼は弟を殺してしまった。神様の自分の供え物、今で言えば献金でしょうか、奉仕でしょうか、それに対する評価が見えないのです。これは一所懸命神の使命のために生きた人にくる誘惑なのです。だからこそ主は何事も一所懸命のペトロに言われているのです。一所懸命、神様に仕え、教会に仕えた時、しかし自分の思うようにはならなかった。一方、他の人の姿を見ると、まさに神様に祝福されたように大きな成果をもたらした、それを見た時、「ペトロは彼(愛弟子)を見て」(21:21)とはっきり書いてある。主を見ていません。神のみを見ていません。そこに強力なサタンの誘惑が来る。やがてヨハネの名を持った教会が生まれる。ペトロの名を掲げた教会が生まれる。どちらが多くの人を救ったか、どちらが多くの良き業を成し遂げたか、比較することになる。福音書のこの問題は、もともと「殉教の死」を巡っての問いですから、これまでの話と逆のようですが、どちらの教会が多くの殉教者を出したかという競争もあったかもしれない。私たち日本のプロテスタントが切支丹迫害を耐えたカトリックにどこか劣等感をもっているように。

 かつてこの西片町教会が分かれてしまった時、この教会から出て行って、今の代々木上原教会を建てる時、ある兄弟が、どちらが「本物の教会」を建てるかと言ったのか、鈴木正久牧師の言葉を使って「げんこつのような教会」と言われたのか、とにかく、どちらが本物の教会になるか競争しようと言われたと聞いたことがあります。そのような競争心がいけないということはないと思います。教会を建てるとは、そういうことだからです。教会は趣味や遊びではありません。真理を求めて命懸けで教会を建てていくのです。むしろ私たちはこのような言葉にこそ学ばなければならないと思う。しかしそのような良き志の中に、強い意志の中に、最も激しいサタンの誘惑が来る。神を見ず、人を見る錯誤と妬みが募る、それも事実ではないでしょうか。私たちは本当に、教会に奉仕していて、この心から逃れられないところがあります。牧師がいかに他の牧師と自分を比べるか、自分の教会と他の教会の様子を比べているか、それでどんなに優越感に浸ったり劣等感を覚えたりしているか、その思いから逃れられない。だからこそ、主は教会を委ねるこのペトロに、どうしても最後に言わねばならなかったのは「…あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」という御言葉であったと思う。それは一所懸命奉仕する者ほど、気をつけなければならない誘惑がある、ということではないでしょうか。この服従を求める御言葉は、既に21:19でも語られていました。「わたしに従いなさい」、しかし実は違うところがありまして、ペトロが「振り向きの罪」を犯した後の22節の方は「あなたは…」となるのです。元々ギリシャ語は、動詞の語尾変化で人称を表すことが出来ますし、まして命令形です。ですから、当然「あなたは」という代名詞は不必要ですが、ここで主はあえて「あなたは」と「二人称単数」を使われました。いわゆる強調です。これは英語のyouでは、二人称単数複数は共通で区別はつきませんが、ギリシャ語は区別がありまして、二人称単数形で言われました。まさにペトロ一人に言われたのです。

 私たちは先ほど使徒信条を告白しました。この信仰告白は一人称単数「我信ず」という言葉から始まるのです。他の多くの信条は「我々は信ず」(複数)と告白されます。教会で告白されるのですから当然我々の告白として宣言される。しかし使徒信条だけは、信仰告白の中でまことに例外的に「我は」と始まります。まさにこれこそ復活の主が、ペトロに求めたことではないでしょうか。「他の誰も信じなくてもかまわない。私は信じる」という信仰告白なのです。この使徒信条の原型は迫害の嵐が吹き荒れる時代に生まれました。洗礼を受けるとは、まさに「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)ことを意味した。そんなことはごめん被ると、みなが雪崩を打って教会を去っても「私は残る、教会に留まる、一人でも残る」そのような神の前の単独者として立ち続ける志を持つ者たちが2人でも3人でいい、集まるところにこそ、先の兄弟の言った「本物の教会」、「げんこつのような教会」が生まれると思う。

 この使徒信条成立には有名な伝説があります(森本あんり著『使徒信条 エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』より)。12使徒は、使徒信条を生みだそうとした時、それぞれが一ヶ条ずつ持ち寄りました。12人の告白が全て終わってみると、それがまるで縫い目のない一枚の布のようにぴったりと繋がって、現在の形の使徒信条に仕上がったというのです。例えば、十字架の下にいた愛弟子ヨハネは「十字架につけられ」を告白しました。復活の主を疑ったトマスは「三日目に死人のうちより甦り」という信仰告白の一ヶ条を持ってきました。他の弟子たちを出し抜いて、神の国の右大臣、左大臣に自分を、と願ったヤコブは「全能の父なる神の右に座し給えり」を告白し、主イエスの御座にのみ拘る人間に変えられました。ところでペトロはどこを持ってきたのでしょうか。それこそ「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」、冒頭の一条だったのです。それは一番弟子であるから、使徒信条の口火を切るのが当然であった、それだけはなかったと思う。これはペトロがついに「我信ず」と「他の人は関係がない」と「一人称単数」の信仰告白を得たことを表しているのです。私たちも同じです。



 祈りましょう。  直ぐ振り向いてしまいます、周りを見回してしまいます。前を速く走って遠ざかっていく者を羨みます。この、人を見て神を見ない、愚かな私たちに「あなたは、わたしに従いなさい」との御言葉をもう一度聴かせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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