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2008年 7月27日「最後に愛は勝つ」

2008年7月27日 主日礼拝説教 「最後に愛は勝つ」

  説教者 山本 裕司
  コリントの信徒への手紙一 13:1~13


 使徒パウロの書きましたコリント一13章の言葉を読むのは、今朝の礼拝で3度目となりました。この言葉は、時に「愛の賛歌」と呼ばれます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」(13:4)
真実の愛がどれ程のものであるかが示されています。これを読みます時、最初、私たちは、あの人、この人の立ち振る舞いを思い出し、人を裁く思いが沸き立ってくるかもしれません。あの人は立派なことは言うが、このパウロの言う愛はない。そうであればあの人は「騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)に過ぎないのだ、と。しかしそう言った瞬間、その批判の剣は、自分自身にそのまま跳ね返って来ることでしょう。そのように、誰もが、この愛を自分が持っているか、と問われた時返答に窮する。従って、これは「愛の賛歌」と呼ばれるように、私たちを遥かに超えた至上の愛、つまりキリストの愛を賛美しているのだ、としか考えることは出来ない、とも言われる。この「愛」という言葉の箇所に、自分の名を入れて読み直すことに耐えられる人はいない。ただ「キリスト」という名を入れた時だけ、腑に落ちるのだ、と。しかし、同時に13:1でパウロは「わたしは」と言いました。「…愛がなければ、わたしは…」(13:1)と。私たちが決して生み出すことが出来ない愛、至高の愛が主張されながら、なお「わたし」が問われる。この愛の賜物を受けるように「熱心に努めなさい」(12:31)とも言われる。これを誤魔化すことは出来ないのです。では、どうしたらいいのか、そう呻くような思いが生じるのです。

 その時、思い出さなくてはならないのは、これは、元々「賜物」の話だったということです。自力で作り出すもことが出来るものではない。しかし、至高の愛・キリストの愛の光を賜物として受ける時、私たちは、その愛を反射することは出来る。何の光も発しないはずの月が、真の光である太陽の光を反射して夜空を照らすことは出来る。それに似て、死の星の如き私たちですが、キリストの愛の光を反射する「鏡」となることは出来る、そう言われているのです。

 今「鏡」と申したのは、それは、今朝与えられているコリント一13:12にまことに印象深い言葉があるからです。
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」
このパウロの言っている古代の「鏡」とは、金属板でした。コリントは当時鏡の生産でも有名でした。そこでパウロも買い求めエフェソまで携えてきたのかもしれません。その鏡を見ながら、パウロは「おぼろに映る」と言うのです。安価な金属鏡は、ぼんやり映る。歪んでいたかもしれません。私たちがキリストの愛を反射することが出来たとしても、この世ではどれ程歪むか、どれ程おぼろにしてしまうか、パウロは知っていたことでしょう。私たちも一人のキリスト者として、人を愛そうとして、しかし、その愛に応えがないと、どれ程苛立つか。そこで愛の賛歌と裏腹な自身の貧しさに悩む。これでキリストの光を受けていると言えるのだろかと、絶望的な気持ちになる。主の愛の光を、私たちの罪が変質させ、もう普通の人が見たら愛とも呼べないほどに霞んでしまう。歪んでいる。左右がひっくり返った像を結ぶ、しかしそのような欠け多き自分の愛に対しても、私たちは、ここでパウロが語るように、耐え忍ぶことが求められているのではないでしょうか。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(13:7)その私たちの貧しき愛もまた、いつの日か完成することを信じ、望み、そして耐えるのであります。

 そのように愛の望みを語る中で、パウロが最後に取り上げることこそ「終末」に関する希望の教えなのです。そこでパウロは愛に絶望する私たちに、終わりの日の希望を訴え、励まそうとしているのです。自他共に、愛などというものは最初から存在しないのだ、愛は終わった、廃れた、滅んだ、そう嘆く私たちに対して、パウロは断言する。「愛は決して滅びない」(13:8)と。

 続いてパウロは廃れるものに言及します。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」(13:8~9)

 「預言」とは神の言葉の説教のことです。「知識」は神学のようなものでしょうか。今の私たちの時代、それもまた愛に似て、一部分の真理しか明らかに出来ないのです。それもまた、金属鏡が映し出すようなおぼろな像しか結ばない。いつも何かもやもやしたところが残る。それが私たちの信仰生活ではないでしょうか。説教を聴いても、信仰の書物を読んでも、すっきり救いの方程式が解け、割り切れるということが少ない。では、永遠に私たちはおぼろで終わるのかと言うと、そうではない。パウロは「完全なものが来る」終末の日の希望を語って止みません。

 終わりの時に、何が起こるのでしょうか。パウロは預言します。「終わり時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。」(13:12)終末の時、私たちは、再臨主・イエスキリストと顔と顔を合わせてお会いすることが出来るのです。イエス様が私たちの目の前におられる。そうであれば、もう牧師を介して「間接的」に、神の言葉を聴く必要はありません。何故なら、主イエスが「直接的」に肉声で、私たちに神の言葉を語って下さるからです。その御言葉は完全です。信仰の全ての秘密を余すところなく明らかにして下さる。おぼろは風に吹き飛ばされ、真実の全てが一点の曇りもなく鮮やかに表れてくる。そこで説教者の役割は終わります。牧師は歓喜の中で失業していきます。それだけではない、祈りもいらなくなります。再臨主・イエスとの対話がもうそのまま祈りだからです。祈りの曖昧さは消え、打てば響くような神との対話が出現する。聖餐式も終わります。何故なら、再臨主と共なる食事が全て、聖餐の完成としての「神の盛大な晩餐会」の意味を獲得するからです。つまり、終わり時には、教会がなくなります。それだけではありません。病院もなくなります。何故なら再臨主が直接病を癒して下さるからです。国家もいりません。再臨主と共に来臨するのは「神の国」です。神が「直接的」に私たちを御支配されるのですから、もう日本という秩序維持のための機関も不必要です。葬儀屋も廃業となります。何故なら、死が終わるからです。

 つまり、ヨハネ黙示録21章1~4に記される新天新地が到来するのです。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。…そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」

 終末の日に与えられることは、神の創造の完成です。神様がどうしてこの世界を作られたのか、それはそのような永遠平和の理想郷を造られるためでした。その神の国の来臨と共に、私たちの愛も完成する。もうそこにあるのは、金属鏡に映ったおぼろな愛ではない。愛が新しい海として地球の全地を覆い尽くすことでしょう。だから、平和が来る。罪が終わる。悪魔が滅びる。13:4~6に記される愛なき世界で起こる悪徳リスト・妬み、自慢、高ぶり、無礼、自己中心、苛立ち、恨み、不義、それが全て過ぎ去る。

 私たちはこの終わりの日を目指す途上にある。しかしその途上の時を、神様はどうでも良いとほっておかれたのではありません。この途上の時にも、それは「間接的」かもしれない。おぼろかもしれない。しかし、救い、癒し、平和の機関を、主は与えて下さっています。それが教会、病院、国家の存在なのです。それらを通して、神は、間接的に、やがて来る神の国の業を代行させて下さる。しかしそれはあくまで神の国の代行であり、完成されたものではありません。だから「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」(13:9)という、知識真理の断片が表れるだけです。また何とも頼りない話になってきたと思われるかもしれません。そのような頼りなさに耐えることが出来ずに、我こそが再臨の主であると言って、人々を欺くカルトが存在します。あるいは、病院による治療も完璧ではありません。それに飽きたらず、独特な癒しの業をなすことによって、どんな難病も癒すというカリスマもおります。あるいは牧師の限界をもつ説教に飽きたらず、自分はキリストとの神秘的合一によって、真理の直接的啓示を得たと言い張る人もいます。しかし私たちはそうではなくて、今、途上を生きる、この頼りなさに耐えることが求められているのです。私たちの愛もまたおぼろなものです。それを正直に認めながら、しかし、それに絶望しない。そのおぼろなものも、教会や病院がそうであるように、御心に叶うことが出来れば国家もまたそうであるように、神に豊かに用いられることを忘れてはならないと思う。月光が太陽のように命を生み出すことは出来なくても、夜道を歩く人の助けになるように、その美しさが人の心を慰めるように、私たちの、神の愛のおぼろな反射もまた、この地上で、役に立つということを、決して忘れてはならない。愛に絶望しはならない。何故なら、かつてのヒット曲が歌ったように「最後に愛が勝つ!」からであります。

 祈りましょう。  他人の愛のなさに涙し、恨み、そのことによって同時に、しかし自分自身にも愛がないことに絶望する私たちです。しかし、そのような私たちに、あなたは、太陽のように惜しみなく、愛の光で照らして下さっている事実を覚え、終わりの日の愛の完成を望みつつ、今この時、鏡を少しでも磨く教会生活を送る者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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