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2008年 6月10日 「新しい墓」

2007年6月10日 主日礼拝説教 「新しい墓」

  説教者 山本 裕司
  ヨハネによる福音書 19:38~42


イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。…そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。(ヨハネによる福音書 19:38~39)

 アリマタヤのヨセフは総督ピラトの許可を得て、葬りのために十字架の主イエスのお身体の取り下ろしました。それをしなければ、イエス様のご遺体は、この処刑場に放置されるのです。そして獣に食い荒らされたり腐敗して見るも無惨になってしまうのです。一刻も早くお身体を十字架から降ろして、丁寧に葬って差し上げたい、そう思うのは当然です。しかしそれは決して容易なことではありませんでした。勇気が必要でした。元々ヨセフは「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」人だったのです。またこのヨセフと共に主を埋葬するために、久しぶりに登場するニコデモも、教えを求めてイエス様の所にやって来たことのある人でした(3:2)。しかしその時は「夜」だったのです。その暗闇の中に自分の信仰の芽生えを隠した。そのイエスに傾いた心を仲間たちに知られることを恐れた。この二人の内、ヨセフはおそらく、ニコデモは確実にファリサイ派に属し、また共に最高法院サンヒドリン議員というユダヤでの最高の身分を持っていました。しかしこのサンヒドリンこそ、主イエスを死刑にしたのです。その裁判において「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとして…」(マタイ26:59)とはっきり書かれています。そうであれば、定数71名の議会の中でヨセフとニコデモも死刑に賛成したということになるのではないでしょうか。しかし賛成したと言っても、本気でないということは会議の席で幾らでもあります。会議では、誰が賛成したか反対したか、皆じっと見ています。そのような中で、意に添わない賛同をしてしまう、そういう人間の弱さが会議においてよく現れます。あるいは、この二人はあえてその日会議を欠席したのかもしれません。いずれにせよ二人とも、主の裁判において、なお「夜の人」でした。闇の中に自らの信仰を隠している人たちでした。誰にでも身に覚えのある弱さです。そして、弱いのだから仕方がないじゃないか、と私たちは言うのです。しかしこの大変平凡な弱さが、主を十字架につける、主を殺す、恐るべき「結果責任」を持つということを、私たちは忘れることは出来ない。

 このヨハネ福音書の成立は長く濃い霧に包まれていました。しかし1970年頃あるアメリカの聖書学者の学説が発表されて、それを多くの研究者たちが認めるに至りました。その学説は既に申し上げてきたことですが、主イエスが昇天されてから既に50年、半世紀が経過している頃、エルサレムの西方、地中海沿岸の小さな村ヤムニアで、ユダヤ教最高会議が開かれました。そこでキリスト教の異端宣言がなされる。そしてイエスをキリストと告白する者を、会堂から追放することを決めました。さらに会堂礼拝の成文祈祷「18の祈願」の中に、キリスト教徒に対する呪いの言葉を含めた。その時キリスト者たちは会堂を去って、自分たちの教会を建てました。それがヨハネ福音書を生み出したヨハネ教会であったという学者の指摘です。

 会堂追放、それはユダヤ共同体から村八分になることを意味しました。非合法組織となったヨハネ教会に属するということは、ローマ帝国からの迫害も受け、明日の生命も保障されない、行き先を知らない旅に出ることを意味したのです。そのような戦いを避けて、イエスを信じる者たちの中に、その信仰を隠して会堂に留まる者が現れたと考えられる。ユダヤ社会の市民権と富を手放すことが出来ない。しかしその選択は、会堂礼拝における祈願に耐え続けることを意味しました。1896年にその18の祈祷の最初期の形が発見されていますが、その12番目の祈願はこうです。「ナザレ人たち(キリスト教徒たち)は瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。」この時、隠れクリスチャンは、どうしたでしょうか。その時だけ、口をつぐんだのでしょうか。しかし人が見ている。沈黙すらもまた危険である時、彼らはどうしたのでしょうか。

 かつてパンの会で『蝶の舌』という名作を観ました。1936年のスペイン、その美しい自然の中で、ドン・グレゴリオ先生と8歳の少年モンチョとの心の交流が描かれています。その森の中で先生は、大きな蝶を捕まえて、モンチョに「蝶の舌」のことを教えてくれます。モンチョの目は輝きました。しかしその光輝くモンチョの夏は終わり、先生との余りにも辛い別れの時がやってきます。総選挙で人民戦線派が勝利したことによって、これまでの価値観は崩れ、一斉に「共和派」に対する取り締まりが始まりました。広場に集まった群衆の前に、両手を縛られた「共和派」の人々(昨日までの友人!)が一人づつ姿を現します。「アテオ! (不信心者)アカ!( 犯罪者)」彼らを罵る声が飛び交う。その中にグレゴリオ先生の姿もありました。「お前も叫ぶのよ」モンチョに母が囁く。一緒に叫ばなければ共和派と疑われる。先生を見つめるモンチョ。先生もモンチョから目を離さない。「アテオ! アカ!」モンチョが口を開いた。車が走り出すとモンチョも駆け出す。遠ざかって行く先生に、石を投げながらモンチョは叫びます。「ティロノリンコ! 蝶の舌!」と。何度も、何度も、石を投げながら、先生に向かって。 ヨセフとニコデモとは、会堂でモンチョのようであった者の代表ではないでしょうか。12番目の祈願の時、口では「滅びよ、抹殺されよ」と唱和しながら、心の中でだけ「それでも、イエスは主なり、イエスは神なり」と懺悔していたのではないでしょうか。ここにも正直な私たちの姿があるのではないでしょうか。若い頃、自分は正義漢だと思っているようなところが誰にでもある。根拠のない自信です。自分の力、その道徳心、誠実さというものを信じているとこがある。しかしその輝ける夏の日が終わる頃、老いて、自分の弱さを皆知るのではないでしょうか。

 実はここまでが、今日の説教の「前置き」です。人間の弱さを語ることに、余りにも多くの時間を割いてしまいました。実は、本当に語りたかったことは「にもかかわらず」という言葉であります。にもかかわらず、この恐れの虜であったヨセフが、主の死後、ピラトのもとに走り始める。その時、おそらく自分はイエスの弟子だから、遺体に対するに権利を持つのだ、と主張したはずです。そうでなくて、どうしてピラトが許可するでしょうか。ローマ帝国総督に対して「公然」私はイエスの弟子です、とどうして彼は言えるようになったのでしょうか。そして、まさに衆人環視のもとイエス様のお身体を一所懸命になって、イエス様の脇腹から流れ出た水と血にまみれながら、降ろした。そして「夜の人」ニコデモも、日が出ている明るい時刻に、没薬と沈香を混ぜた香料百リトラ(32.6㎏)を丘へ運んできた。この多量の香料を、皆がじっと見つめる間を通って、ゴルゴダの丘に運ぶニコデモの気持ちが、皆さんには分かりますか。そして香料に浸した亜麻布で、主イエスのお身体を包んだ。32.6㎏!の重さに、私はニコデモの主に対する懺悔の重さ、愛の重さが込められていると思う。つまり、この二人は変わった。ゴルゴタの丘で変わった。この32.6㎏の香料、余りにも多量で余りにも高価な香料を主にみな献げてしまう、その心は、もう富もいらない、地位もいらない、村八分になることも恐れない、死ぬことも恐れない、彼らはそういう人間に変わった。人は強くなれるということです。そして、それから50年後に、こう二人の男に起こった魂の革命を福音書に書き記すヨハネ教会は、この物語を通して訴えている。薄暗い会堂に隠れている同胞に対して、そこから出てこないか、自分は駄目だ、弱い、そう思わないで欲しい、ヨセフもニコデモも、アブラハムのように行き先を知らないで、光の中に出てくることが出来たではないか、あなた達も出来る「イエスこそ神である」と大声で一緒に、教会で告白しよう、と。

 どうしてそんなことが出来るのでしょうか。どうして、ヨセフとニコデモは光の中に出てくることが出来たのでしょうか。宗教改革者カルヴァンは「天の霊感によってである」と注解しました。神の霊が、この男たちを導いておられるのです。聖霊降臨節を迎えた私たちもまた、この言葉に深い勇気が与えられます。自力では無理でも聖霊の注ぎを受ければ、私たちは新しくなれる。「舌」である聖霊によって、信仰を告白する者になれる。 ある牧師は、主イエスの十字架上の最期の御言葉「成し遂げられた」(19:30)を口語訳が採用している「すべては終わった」の翻訳で説き明かしています。「全てが終わった。何が終わったのか、それは人間の言葉が全て終わったのだ。人間の誠実さや道徳が全て終わったのだ。しかし終わりは新しい始まりである。人間の言葉が終わった時、神の言葉が始まる。人間の富や知恵や道徳、つまり人間の力の延長線上に、神の救いが出現するのではない。そうではなくて、その人間の力の一切が限界付けられ、断念され、神の力にのみ頼る時、神の救いは始まる」という意味のことを書いています。このニコデモが夜訪ねてきた時、主イエスは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(3:3)と言われました。それに対してニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることが出来ましょう」(3:4)と言い返しています。しかし、古い自分に死に、新しい自分に甦る唯一の道があるのです。それは、自分が主を十字架につけるような、とんでもない罪人であることを認め、その弱さを認め、それだからこそ、「十字架のみによって」と「行いではない信仰のみによって」と告白すること、そこから「真の新」が始まるのです。

 「新しい墓」(19:41)という暗示的な言葉があります。「イエスが十字架につけられた所には…新しい墓があった」(19:41)。十字架のもとにだけ新しい墓が生まれる。これまで人間が持ったことがない新しい墓が。これまでの人間の墓の「すべては終わった」のです。新しい墓、それは、そこから新しい命が、復活の命が噴き出してくる墓です。主イエスだけがそこから復活するのではない。私たちもまた主イエスの十字架だけが、私たちの救いの唯一の可能性であると信じて死ぬ時、その信仰告白だけを携えて墓に入る時、その墓は命へ至る門となる。だからバッハは『ヨハネ受難曲』において、この音楽の終わりに真に美しい合唱をおきました。「この墓がわたしに天の扉を開き、地獄への道をふさいでくれるのです」と。地獄への門と覚えられてきた墓を、主イエスが天の扉へと変えて下さった。十字架によって。その罪の贖いによって。そのことを本当に知って死ぬ時、私たちは天の扉を通る、これを信じる時、私たちはこの世の力を初めて恐れなくなります。迫害を恐れなくなります。墓に入ることを恐れなくなるのです。

 『蝶の舌』で何故ラスト、モンチョ少年は「蝶の舌」と叫んだのでしょうか。この映画の解説者はこう言っています。先生はモンチョに教える「今は隠れていて見えないけど、蜜を吸う時に巻いていた舌を伸ばすんだ…」。それは希望の教えなのです。あなたたちが「イエスは神なり」と告白し、そのために捕らえられ殺されても、あなたたちがそのように墓に隠されてしまったとしても、しかし、やがて復活の朝が来れば、蝶の舌のように、命は光の中に現れるであろう。例え、あなたたちが、今は人を恐れ信仰を夜の闇の中に隠し口ごもっていても、やがて聖霊が降れば、恐れを超えて、蝶の「舌」を伸ばす(信仰告白!)、勇気ある時を迎えることであろう。あのヨセフとニコデモのように。だから自分に絶望してはいけない。

 創立120周年事業において、納骨堂建設が許されるようにと祈っている者たちがいます。もし実現すれば、その私たちの納骨堂は「新しい墓」です。納骨堂にその名をつけてもよいとすら思う。「新しい墓」と。主イエスが命を棄てて造って下さった新しい墓。そこに私たちは入る。だから死を恐れない。今、勇気をもって生きることが出来る!



 祈りましょう。  等しく迎えねばならない終わりの時に、しかし私たちは皆、新しい墓に入る、そのことを覚え、恐れを取り去り、希望を忘れることがありませんように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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