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2008年 4月29日 「公然と語る」

2007年4月29日 礼拝説教 「公然と語る」

  説教者 山本 裕司
  ヨハネによる福音書 18:12~27


イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。…」(ヨハネによる福音書 18:20)

 最近、私たちを震撼させたのは4月16日に起こったアメリカ・バージニア工科大学での乱射事件でした。チョ・スンヒ(23歳)は学生寮で2人を射殺した後、教室棟で銃を乱射し学生教授30人を殺害し、彼自身も自殺しました。銃乱射事件では過去最悪の結果となりました。動機が推測されています。チョ青年は、中学時代に英語が苦手だったためにいじめの対象になったこともあった。あるいは、チョ一家が米国に移民した翌年(1993年)、営んでいた洗濯屋に強盗が押し入り母は銃殺されました。チョは10歳でしたがそれ以後無口な子どもになりました。韓国人社会ではそれが事件の遠因ではないかと語られています。また彼の残したメモには、富裕層に対する強い憎しみが書かれていました。「お前たちはすべてをもっていた。メルセデスでも満足しなかった。ウオツカ、コニャックでも満足しなかった」と。

 彼は乱射事件直前に録画したビデオに「お前たちのため、私はイエス・キリストのように死ぬ。何世代もの弱く、救いのない人々を突き動かすために」、また「顔に唾を吐きかけられる気持ちがわかるか」と残しました。

 この事件の反応として、事件後のアメリカ国内での銃の売り上げが伸びたことでした。また学生たちに銃携帯の自由があったら被害はもっと減ったであろうと主張され、こうも言われました。「アメリカでは差別されている者、弱者が、一気に対等・平等になれる場、それこそ銃を取ることなのだ」と。

 今、私たちは、チョ青年が「私はイエス・キリストのように死ぬ」と言った、まさにその主が死なれる受難週の出来事を読んでいます。そして、私は言いたい。チョ青年は間違っている、と。本当に間違っている、どうして銃を乱射して死んで、イエスのように死ぬ、などという間違ったことが言えるのかと思う。「顔に唾を吐きかけられる気持ちがわかるか」と彼は言った。主イエスが、唾を吐きかけられる場面こそ、他の福音書では「下役の一人が…イエスを平手で打った」(ヨハネ18:22)、この時なのです。だから主は唾を吐きかけられた気持ちが、お分かりになったと思う。しかし唾を吐きかけられた後の生き方死に方は、全くこの両者は違う。チョは、銃を乱射し、主は、剣を捨てる道を歩かれました。

 弱い者が、唾を吐きかけられる者が、銃を取ることにより強者と対等となるのだ、と人は言う。つまり、人は、重んじられるために、勝つためには、力を持つ他はないのだ、そう言われるのです。

 この受難週の物語にも、まさにその道を歩いている者たちが多く登場します。それは例えば「門番の女中」(18:17)です。当時、女はまさに男たちから差別されていた。しかしこの女をペトロが大変恐れたのです。時々妙に勇ましいこの男が「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」(18:17b)という女の問いにひどく怯える。どうしか、この女中が、ただの女でなくて大祭司邸中庭の門番だったからです。その身分を得て女が強くなる。男と対等となる。その上に立つ。人はそうやって世の力に依りすがって、バカにされないよう、唾を吐きかけられいようにする。それだけにこの女中は門番の地位を自分の命を守る宝物のように思っていたかもしれません。

 また、18:25に、二度目のペトロの否認があります。「シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』と言うと、ペトロは打ち消して、『違う』と言った。」この「人々が」という箇所を複数の英語聖書が「the others」という代名詞で訳します。そうであれば、ここは「焚き火にあたっているペトロ以外の者全員が」という意味になります。何人、焚き火の周りにいたのでしょうか。ペトロ以外の「the others」全員が「お前もあの男の弟子ではないのか」と言い始めたのです。私たちは人数を恐れます。しかも「自分以外の全員」という状況におかれた時の身の置き所のない感覚、それだけで人は多数派につきたくなります。多数というものは、本当にこの世の力です。

 そして三度目の時として、18:26に現れるのは、ペトロに耳を切り落とされた「大祭司の僕の身内」です。「雅子さまのご学友の親戚」という感じでしょうか。大祭司という最高権力にかろうじてひっかかる者が言う。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」それもペトロは怖い。打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いたのです。

 ペトロは主イエスを愛していました。それは疑いようがありません。しかしペトロは世の力が怖かった。大祭司の権力、暴力です。主が連行されたのは、先ずアンナスのところです。彼は大祭司カイアファのしゅうとでした。だから注解者たちは、アンナスこそ影の大立者であって実質的な権力を持っていたのではないかとも言います。隠退し自分の婿を名目上の大祭司にして、なお権力を手放さない(せない)老人の姿が見えてくる。権力の魅力であります。その力を笠に着る門番、僕の身内、数の力、そこにこそ生きる場があると思う人々と、福音書ははっきり、ペトロは同じに所に立ったと記しました。「僕や下役たちは…そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。」(18:18)

 鈴木正久牧師が40年前(1968年2月25日)、ここで語られた、ヨハネ福音書18:15~27の説教が残されています。説教題は「公然と語る」です。主イエスがアンナスの尋問に答えられた言葉の中に「公然」(18:20)という言葉があります。そこで鈴木牧師は「公然とは大胆という意味だ、大胆であることは、自由であることだ、そういう強さこそ、公然と語ることだ」と言われこう続けられます。

 「主は確かに、ここで縛られ、叩かれ、無力に思える。大祭司は有力に見える。しかしそれは、世の力においては、という限定においてのことだ。世の力とは、人を縛り、殴り、また殺すことが出来るような力だ。警察や軍隊もそういう力だ。あるいは、札束で頬を張るとか、自分の地位によって相手の首を切るとか、そういう力だ。そういう力を人は欲する。そうやって、結局、世の力を持たなければやっていけないよ、権力を、両手に虎の子のように、握りしめている。そうでもしなければやっていないよ、そう思いこんでいる。しかし、キリストは、世の力のただ中で、全くそれによらず、立っておられる。キリストは、新しい国へ、境界線を越えていかれる、神の栄光のみが輝く国に境界を越えて進んで行かれる。…あのイエス・キリストの生きている姿を思う時、それは、単純に、あの水の上を歩いている人のように思われます。そんな生き方は出来るはずはないと頭から思いこんでいるような生き方。主イエスは、横面をたたかれ、やがて死刑も宣告されるが、そのような力に、主は御自分の側では全く頼られない。だから、大祭司の前で恐れず公然と語ることがおできになったのだ。」

 私はこういう説教を読みながら、同時にしたことは、やはりバッハの「ヨハネ受難曲」を聴くことでした。それを聞いていますと、直ぐ、18:5の福音書の言葉になる。そこで兵士たちが「ナザレのイエス」を捜し求めた時、主のお答え「わたしである」(「Ich bins」、英語では「I am」)が、計3度出てきます。これは直後発せられるペトロの「違う」(「Ich bins nicht」、英語では「I am not」)と強いコントラストを表しています。

 この両者の対照は信仰にかかっている、そう思います。公然と証しするためには、信仰が必要です。「世の力より神の力が強い」という信仰、「神の弱さはこの世の力に勝る」という信仰です。それを信じられるか、信じられないかに、この「公然」が生まれるか、生まれないかがかかっているのです。

 その神の力はどのような姿だったのでしょうか。それはこうユダヤ人たちに助言したカイアファの言葉に表れています。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」(18:14)。彼は自分の権力を維持するためにも、国民全体がローマ帝国に滅ぼされないで済むためにも、イエス一人に死んでもらうほうが好都合だ、と言った。しかしこの言葉こそ、カイアファの思いを遙かに高く越えて、主イエスが死ぬことによって全人類が生きる、その十字架の贖罪を指し示している言葉なのです。神の計り知れない救いの計画の内に、人間の思惑が、いつの間にか飲み込まれ利用されているのです。そのような形で、神の力は勝利するのです。

 使徒パウロは言いました。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが…召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリント一1:23~25)

 そしてヨハネ受難曲ではこの18:12~14を福音書記者が朗唱した後、アリアが痛恨の思いをもって歌い出すのです。「私が犯した罪の縄目から、私を解放しようとして、私の救いの君は縄目につかれた」と。ここでは2本のオーボエが交差しながら演奏されますが、解説者はそれは「私たちの身にからみつく罪」を表しているのだ、と書いています。本当に私たちは、この世の力と恐れに、がんじがらめに縛られています。しかしそこで、主が「縛られる」(18:12)ことによって、私たちは罪の縄目から解き放たれるのだ、と福音の大いなる逆説が朗々と歌い上げられるのです。

 チョ・スンヒ青年もまた、世の力・暴力に依り頼んで、世の力(差別)に対抗しようとしました。しかし暴力は暴力によって駆逐するとは出来ないのです。世の力に勝つのは、神の愛と赦し、つまり十字架の贖いしかありませんでした。

 バージニア工科大学では、4月20日、死亡した32人の追悼がなされ、死者を偲んで前日32個の石が半円状に於かれました。しかし当日は、33個になっていたと報道されています。そして23日は、何千人も学生、教職員が集まる中、銃撃のあった午前9時45分に合わせ追悼の鐘が33回鳴り、33の白い風船が空に放たれました。

 そして思う、33とは十字架の主イエスのお歳だと言う伝説を。33の鐘が鳴る、それは私たちもテネブラエ(受苦日礼拝)で闇の中、毎年その33の鐘の音を数えています。そうであれば、主イエスの愛の内に、十字架の赦しの内に、このチョ・スンヒも入れられているのではないか。私たちが例外なくそうであるように。そして、バージニア工科大学の学生教職員たちは、その信仰を受け入れているのです。誰もこの「数」に抗議しなかった。これがアメリカです。これこそキリスト教国アメリカなのです。

 主イエスがみな良いことをして下さったのだから、もうそれで完結したというのでもありません。私たちはどうせ罪人なのだから、いつも世の力に負けていればよいのだ、とういことではありません。

 鈴木牧師はその説教の終わりに公然と語られました。「あの十字架において、本当に自由であったイエスが、私たちも、このように生きることが出来ると、復活の光において私たちを照らし、招いていて下さる。…聖書は私たちをこの境界線に、今日の物語で引っ張って行きます。」



 祈りましょう。  私たちにからみつく不信仰と罪の縄目を、どうか御子イエスの縄目の免じて解き放って下さい。そこで自由にされて公然と証しする私たちとなりますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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