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2008年 4月13日「朽ちぬ冠に向かって走れ」

2008年4月13日 主日礼拝説教 「朽ちぬ冠に向かって走れ」

  説教者 山本 裕司
  コリントの信徒への手紙一9:24~27


「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」 (9:27)

 今朝のコリント一の御言葉を聴いていて、多くの方がこの手紙を書いた使徒パウロがスポーツ好きであったと感じたのではないでしょうか。「競技場で走る」また「空を打つような拳闘はしない」とあり、彼は陸上競技やボクシングを知っていたことが分かります。今年は北京オリンピックがありますが、言うまでもなく、その聖火はオリンピック発祥の地のオリンピアで点されました。そこは、パウロが伝道したアテネ、コリントからそれ程離れていません。だからと言って、パウロがわざわざオリンピックを見にオリンピアに行く必要もなかったと思います。それは当時ギリシア諸都市において類似したスポーツの祭典が行われていたからです。パウロの時代のまさにコリントでオリンピアに匹敵するスポーツ大会が二年に一度開催されていたそうです。パウロのコリントの滞在期間は、1年6ヶ月ですので、よほど運が悪くない限り、この大会に伝道期間中に遭遇したと考えられます。 

 ネットで調べますと、古代オリンピックにおいては第1回大会(紀元前776年)から実施された競技の一つに「スタディオン走」(185メートル・新約聖書にも出て来る単位)が紹介されていました。選手たちは1スタディオンの直線コースを太ももを高く上げ、両腕を大きく振りながら全力で走り抜けたとあり、最後にこうありました。「聖パウロが書いているように、競技会で賞を手にすることができるのは優勝した選手のみであった」そう言って、今朝私たちに与えられている御言葉を引用するのです。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」(コリント一9:24)コリント大会でもやはり1スタディオン走が競われたでしょう。もしかしたら、足の速い教会青年の一人も選抜されたかもしれません。コリント教会の人たちと一緒に、パウロも観客席から懸命に声援を送ったのではないでしょうか。

 何故か、多くの牧師がスポーツ好きです。そして私は何度も牧師たちが所謂スポーツネタを説教で使うのを聞いてきました。スポーツには人生の縮図が現れる。人生がその一瞬に凝縮される。スポーツの感動は、あの映画『炎のランナー』を思い出しても、何か宗教的恍惚にさえ繋がる。そのスポーツ大会の感激を思い出しながら、パウロは、ここで信仰のレースを語っているのです。「賞を得るように走りなさい」この言葉はギリシア語原文では、「走れ」という命令形の言葉から始まります。「走り出せ、賞を得るために」そうパウロはコリント教会員に、この手紙をもって、あなたたちも信仰の疾走に飛び出せと、スタートガンを打ち鳴らしているのです。

 「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。」これは言う必要もないようなことですが、パウロはここで、自分一人が優勝することを目指して、他の者を追い落としてでも走れ、と言っているのでは決してありません。ここまでご一緒にこの手紙を読んできた方々は、よくお分かりになると思います。どれ程、パウロが、コリント教会員の高慢を戒めたか、弱い人々への配慮のためなら、自分は肉食を絶つと言ったのもパウロです。彼がここで「皆で一等を獲ろう」と言っているのです。「わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(9:23)福音の世界で競争する時に大事なことは、「共に」ということです。共に、一等のゴールを跨ごう、共に、ひたむきに走ろう、という思いです。

 目標がないと、ひたむきに走ることは出来ません。「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」(9:26)と言われています。ここで「拳闘」も登場しますから、パウロはボクシングも好きだったのではないでしょうか。こういう有名な言葉もあります。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(コリント二4:8~9)この「打ち倒されても滅びない」というのは、「ノックダウンされてもノックアウト(KO)はない」という意味だと誰かが言いました。ノックダウンはある。私たちの人生も失敗がある。躓きが来る。しかしそれでも、10カウントの内に立ち上がれば、勝てるかもしれない。ある人は言います。その時、ボクサーにとって、極めて重要なことは、そのボクサーに本当に勝つ目標があるかないかなのだ、と。高い目標がある時、倒れても人はもう一度立ち上がることが出来る、と言うのです。そう言って、その人は、ジョージ・フォアマンというボクサーの話を始めます。フォアマンは30数年前のヘビー級チャンピオンでしたが、モハメド・アリに思いがけずKOされタイトルを奪われてしまう。彼はその時のことを振り返り、敗因は自分がアリと違って、命を賭けて戦う理由を失っていたからだと言いました。そんな失意のある日、彼は、イエス・キリストとの出会い牧師になりました。彼は教会を建て、また子どもの教育施設も作りました。フォアマンはとうとう命を賭ける目標を見つけたのです。ところが奉仕活動の中で資金不足に陥った。そこで彼はリングに戻ろうと決心し、激しいトレーニングを再開する。1994年の11月、ついにチャンピオンに挑むチャンスがやってきます。45歳のフォアマンが勝てる可能性はないとの前評判でしたが、彼は、劇的な勝利を得ました。

 目標がある人間は強いと言われる。私たちの目標・ゴールとは何でしょうか。パウロは言います。「朽ちない冠」(9:25)と。オリンピアでは優勝した者には「月桂樹の冠」が、コリントでは「松のリース」が贈られました。どちらも常緑樹であり長寿がイメージされていることは確かですが、しかし、その冠をついに獲得して、大事に保存しておく。しかし暫く振りに見るとすっかり朽ち果てている、そういう経験を選手たちはしたことでしょう。パウロは、そのことをイメージしながら、はっきりと、それは朽ちる冠である、と言っているのです。オリンピックは朽ちる冠のために走る、しかし、我々は朽ちない冠のために走るのだ。朽ちない冠とは、永遠の命のことです。真の常緑の命はここにある。何のためにあなた方は洗礼を受けて教会員になったのか、何のために信仰のリングに上ったのか。永遠の命という冠を受けるために走り始めたのではなかったか。もうその目標は忘れたのか。そうパウロは迫っている。 朽ちる冠を得るためにすら、選手はどれ程の努力、禁欲、節制をしていることでしょうか(9:25)。そうであれば朽ちない冠という大目的のある私たちがどれ程、節制することが求められているか、分かるだろう、と言われている。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。」(9:27)自分の弱点をボクサーは知っているでしょう。敵もそこを狙ってくる。悪魔は、私たちの心の急所を狙って打ってくる。その弱点を前もって自分で打ち叩いて鍛えておく。そうしないと、世界最大の伝道者、多くの教会を創立にまで導き、またその後、永遠に変更されないであろう、キリスト教神学の基礎を一人で作ってしまったようなパウロでさえも、失格するかもしれない。「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(9:27)

 プロの試合は本当に厳しいものです。どんなに実績があっても、どれほど優れた記録をもっていても、試合では関係ない。負ければ一夜にしてその地位を追われる。私たちはどれ程見てきたでしょうか。栄光のボクサーや野球選手が、昨日今日出てきたような若い選手に圧倒され、ぼろぼろになり、隠退していく様を。リングやスタジアムの上では、輝かしい実績も記録も名誉も何も関係がない。スポーツの残酷さと魅力はここにある。信仰の世界も同じなのだ、とパウロは言っているのです。どれ程沢山の人を導いたか、どれ程多くの教会を建てたか、ということも、その人自身の救いには何の影響も与えません。ゴールする時、自分が「真の信仰」をもっているかどうかだけが決め手です。これまでの「業」が物を言う世界ではありません。もしそうであれば、それは律法主義なのです。ただ信仰を守り通してテープを切ること、これこそ私たちの生涯の大目標です。極端に言えば、それまで一度も教会に来ることがなくても、死ぬ一分前に信仰をもってゴールを切れば、朽ちない冠を頂戴することが出来る。それが「信仰のみによって」との意味です。

 律法ではない、行いではない。ただ主の恵みによってのみ人は生きる。この信仰を地上の生の終わる瞬間に持つ。そこで勝負が決まる。何だそれだけか、と思うでしょうか。実は、それが容易なことではない、とパウロは言っているのです。その信仰を奪い去ろうとする、誘惑・試練がいかに人生に多いかということです。信仰よりもっと力があり、頼りになりそうなものが人生の中で次々に現れてくる。しかしそれは実は「朽ちる冠」に過ぎません。

 「信徒の友」4月号巻頭言にこうありました。「もし『祈らないことの罰は何か』と問われたなら、どう答えるでしょう。答えは、『祈れなくなること』です。神様は私たちを罰しません。ただ私たちは祈らないことによって、祈れなくなるのです。」

 この「祈り」を「礼拝」とそのまま置き換えることが出来ます。「礼拝をしないことの罰は何ですか」「礼拝が出来なくなることです。」礼拝を怠ると益々礼拝が無意味に思えてくるのです。それで礼拝に来ようという気がなくなる。食事を拒否する人が、やがて食べようと思っても、食べることが出来なくなることと似て。

 そういう私たちに対してパウロは「節制」を求めます。それは、私たちもオリンピック選手のように、人間離れをした努力をしなければ救われない、などということではありません。救いは行いによってではないからです。ただ私たちは、毎日祈り、毎日聖書を読み、週一度必ず礼拝し、可能なら祈祷会に出席することが求められているだけのことです。そうやって、御言葉に親しみ、祈り、主だけを礼拝する生活を、今だけではない、死ぬまで続ける。この終わりの日まで、毎週の礼拝を守り続ける、それだけでいいのですが、これが意外と難しい。西片町教会会員431名の内、礼拝に来る者は約60名であることからも、その困難さが分かります。福音とは、何もしなくても救われることだから、安心して好きなようにやっておればいいのだ、というのは誤っています。他のものではない、本当に何もしなくても主が救って下さる、これを信じ続けることが、罪人の私たちにはとても難しい。だから、その福音信仰を守るために戦わなければ駄目です。しかしその戦いとは、ただ毎日一行でもいいから聖書を読み、一分でもいいから祈ることです。誰にでも出来る。毎日曜の朝か夕に礼拝を守るだけです。信仰があって、健康なら誰でも出来る。それが節制する、ということです。

 「日比谷鉄棒クラブ」の存在を知りました。日比谷公園で毎昼休み、鉄棒をしているサラリーマンがいるそうです。懸垂、逆上がり、大車輪・・・毎日、誰に褒められるでもなく、見ていてくれるでもなく、ただ鉄棒にぶら下がる。ある人はもう20年毎日続けていると言うのです。その人の肉体は見て驚愕しました。筋肉隆々ではち切れそうです。一日二日やって、おもしろいとか、おもしろくないとかいう話ではない。おもしろくてもおもしろくなくても、毎日、何年、何十年と続ける。その時、はっと気付くと、肉体がすっかり変わっているのです。そしてもう鉄棒を止めることは出来ない体になってしまったと言うのです。礼拝もそうです。おもしろいから礼拝に行く、などというのは、まだレベルが浅いかもしれない。礼拝も鉄棒と同じで、一見、旅行や映画ほどおもしろいものではないかもしれない。しかしこの節制こそが、自分をゴールに導くと信じ、それを毎週していると、私たちは変わる。心に筋肉がついてくる。思いもしないほど力が蓄えられる。そしてその頃には、心の深いところで、礼拝くらいおもしろいものはなくなってしまう。もう止めろと言われても止めることは出来ない程に。

 私は聖書を本気で読み始めて35年たちました。来る日も来る日も読んでいます。そして今、聖書の魅力に取り憑かれたと言ってよい。祈ることもそうです。毎日祈っている。そのうち、祈りを止めることが出来ない人間になる。そうやって、私たちは手を携えて、揃って神の国に至るゴールを「共に」切ろうではありませんか!



 祈りましょう。  主よ、あなたに向かって、神の国を目指して、共に、走る喜びを、ランニングハイを、私たち西片町教会に味わわせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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