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2008年 2月24日「時は縮まっている」

2008年2月24日 主日礼拝説教 「時は縮まっている」

  説教者 山本 裕司
  コリントの信徒への手紙一7:25~40

 
 使徒パウロが書きました7:25「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、…意見を述べます。」(コリント一 7:25)この中の「~について」と訳されている言葉は、コリント教会からの質問状に答える形式であると注解者は言います。それは、教会員で「未婚の人たち」(口語訳「おとめ」)は独身のままでいた方がいいでしょうか、という問いであったと思われます。また「独身の女や未婚の女」(7:34)と、今は結婚していない両者を、パウロは二種類に分けています。これも注解書によると、性経験の有無の区別を言っているのかもしれないと書かれてありました。つまりこの25節で問われていることは、処女童貞の教会員はどうしたらいいのですか、という問いである可能性があります。もしかしたら、それらには特別の値打ちがあると考えられていたかもしれません。主イエスも処女(おとめ)マリアからお生まれになりました。カトリック教会では、母マリアは永遠の処女であり、御子イエスの兄弟とは従兄弟たちであると解釈されるほどなのです。おとめたち、あるいは青年のあり方は特にコリント教会の厳格派にとって重大であると思われたのかもしれません。パウロ先生から、これははっきり主の命令だとお墨付きをもらい、その一点の汚れのない肉体をもって、神に生涯おお仕えするのだ。それがイエスの花嫁、教会の花婿としての若者たちの聖なる生き方なのだ、そういう回答を得ようと願っていたのかもしれません。

 しかし、そのような期待に反して、パウロは「それには主の指示はない、私の意見としてなら述べてみよう」とだけようやく答えた。つまり絶対的なことと思わないでもらいたい、そう言うのです。パウロには、童貞処女性を至高のものとするという理解はなかったと思います。「正しい者はいない、一人もいない」(ローマ 3:10)と、人の生まれながらの原罪、汚れを知っていたパウロにとって、そのような肉体の純潔というものが価値を持つと言う理解は薄かったでしょう。特に処女性ということが、古今東西、どんなに女性差別の元凶になったかを考えてみるべきでしょう。だから彼は「未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。」(7:28)とも言いました。

 しかしそのパウロが「人は現状にとどまっているのがよいのです。」(7:26b)そして「結婚しない人の方がもっとよいのです」(7:38b)とも言う。パウロは結婚がいけないとは思っていませんが、出来たなら自分のように独身でいて欲しいというのが彼の「意見」(7:25)なのです。

 この理由こそ、今朝の御言葉の真の主題と言って良い「今危機が迫っている状態にある」(7:26a)という「時」に対する洞察から生まれているのです。「定められた時は迫っています」(7:29)、ここは口語訳では「時は縮まっている」という印象深い言葉で多くの人に記憶されました。「時は縮れり」(文語訳)、終わりの時が迫っている。その終末的な危機意識がパウロに独身の方が良いと言わせているのです。主イエスが今にも再臨されて善悪の決着が着く、その瞬間、古い時代の一切が音を立てて崩れ去る。「この世の有様は過ぎ去る」(7:31)、そして神の国・新天新地が出現する、そのような宇宙的規模の終末意識です。ところがやがて教会が気付くのは、このような初代の信徒たちが信じた再臨は大変遅れるらしいということでした。再臨遅延と呼びます。その間、何度も教会の中で、再臨待望運動が起きまして、いよいよ来年終末が来るのだと預言しまして、家財道具をみな売り払ってしまい、次の年になってもやはり終末が来なかったために大変困ったという話もあります。そうやって、私たちはとうとう二千年、主が再び来られる日を待っている。そうであれば、パウロのような切迫感を持つことが間違いだったのだ、再臨はもっと遅れる、いやもうもしかしたらもう主は来ないかもしれない、と思い始めまして気が緩む。そこでもうしたい放題にやりましょう、人生を楽しめるだけ楽しみましょう、と言ったら、それは実は信仰生活の一番大事なことがまだ何も分かっていないと言われても仕方がないと思います。主イエス御自身が、まさに再臨遅延を予想されるようにして言われました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。…あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。…しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」(ルカ 12:35~46)
 
 私は先週井上良雄先生が書かれた『神の国の証人ブルームハルト父子』を開きました。この19世紀のドイツを生きたブルームハルトは、パウロ同様、終末切迫を感じ取った牧師です。主の再臨の時直ぐ御前に駆けつけることが出来るように、馬車を常に用意していた。今で言えば、車にガソリンを満タンにし、冬であってもバッテリーが上がらないように整備を怠りなくしていたということでしょうか。つまり信仰の灯火が消えないように、その霊的エネルギーが切れないように、聖霊を魂に充填することを怠らない、その緊張に生きる。父ブルームハルトは「待つこと、急ぐこと」という彼の終末論的感覚を表す説教を書きました。「終わりの日を思う者は(しかも、その日に向かって急ぐかのように、終わりの日を身近なものとして思う者は)無気力な霊的怠惰や無関心や呑気さから守られる。われわれは急ぐ者として生きるのだ。われわれは、この世における全ての偉大なもの、生起するすべての力強いものに、無際限の価値を与えることはできない。われわれは、一切を、一層平静にまた気楽に眺める。」そう言って、ブルームハルトは、今朝のパウロの言葉を引用します。「泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(7:30~31)そして続ける。「その結果、われわれは、(地上のどんなに魅力的なものであっても)何事にも過度に巻き込まれることはなく、無我夢中になることがない。過度の感激や悲しみに我を忘れることはない。何事にも、過度の興奮や偶像崇拝的な態度で没頭することがない。…心は、主が来たり給うということだけに固着する。彼が速やかに来たり給うことを渇望しつつ。」そして井上先生はこうコメントされます。「ブルームハルトは、この世におけるあらゆるものを暫定的なものとして見、相対化せざるを得ない。彼にとって地上の全ての現実は、やがて始まる大いなる朝の光の前に消えてゆく夜の闇に過ぎない。」

 この感覚であります!その終末論的感覚を最初にもった使徒パウロは、こうも訴えるのです。「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。」(7:32~34)これはもう解説不必要でしょう。パウロが何度も語ってきたことは「私たちはキリストの奴隷、主の僕である」ということです。ところが私たちが結婚生活の中で世の事に心を遣い始めると、僕としてあるべき主への心遣いが疎かになる。そこで心が二つに分かれてしまう。そこでパウロが特に例えとして挙げたのが「独身の女や、未婚のおとめ」のことです。この人たちは、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣います。主のことに集中する。心が一つになるのです。禁欲とは、禁欲自体に何か価値があるのではなくて、大切なのは「一つ」への集中です。未婚であることが正しい、結婚生活が間違っている、ということではありません。結婚でも独身でも、何よりも私たちが主の僕であることの最大の奉仕は、この主日の礼拝です。ここに時間を使う、ここに力を尽くす、ここに献身する、ここで主への私たちの愛を明らかにする。そのためには、日曜日の朝か夕、何か別のしたいことがあったとしても、私たちは禁欲する外はないではありませんか。結婚をしていても、そのような主の僕としてのひたすらなる礼拝生活を送った兄弟姉妹は西片町教会に夥しくおられます。また独身であれば、自動的に、主イエスに献身するということもありません。結婚しているか、独身であるかが問題でなく、どちらにしても主イエスへの「集中」に生きるということです。それが終末を知っている人の生き方であります。

 いや、二千年待ってもいらっしゃらなかったお方を緊張して待つことは難しいと言う人もいるかもしれません。しかし多くの人がこのパウロの終末に関する言葉を読んでいて思い出したのは、私たち個々人の終末のことです。先ほど詩編90編のご一緒に交読しました。「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(90:9)全宇宙的規模の終末はまだでも、その終末に匹敵する、御心の内でも実質的に何も変わらないと言ってよい、小さな終末、それは私たちが、70歳、80歳となって死ぬ、その時のことです。その時が迫っている、「時は縮まっている」、まさにこの事実を、ここにいる私たちは日々感じているのではないでしょうか。いえ、本当にそれに気付けば、時は縮れり、そのことを真に私たちが洞察するなら、生き方が根本的に変わる、変わらざるを得ないと思う。やめろ、と言われても集中せざるを得ない。ここに終末の力がある。

 黒澤明監督には『生きる』という作品があります。これが少し前にテレビドラマ化されて、改めて観る機会を得まして、本当に感動しました。いつかパンの会で是非、上映して欲しいと思います。

 主人公・53歳の渡辺勘治は市役所の市民課課長。30年間無遅刻無欠勤を続けてきましたが、仕事に対して情熱はなく、あだ名なミイラ。ところが、ある時、勘治は病院で末期の膵臓癌と宣告される。驚愕した彼は、初めて役所を無断欠勤し遊び歩きますが、それで空しさが取り去られるわけもなく、とぼとぼ歩いていると、ちょっと前まで市民課に勤務していたサチと再会します。勘治は、彼女に、その空しさを訴えると、サチは言いました。「今、ゼンマイ仕掛けのおもちゃを作っている。それだけでとても楽しいよ。あの役所にいたら死んだ方がましだと思えるほど退屈だったのよ、課長さんも何か作ってみれば。」

 その瞬間、勘治の心に初めて光が射す。そして彼は以前、自分がたらい回しにした、地域の危険な一画を公園にして欲しい、という陳情を思い出しました。かくして、勘治は鬼気迫る面持ちで、その公園作りに奔走する。しかし、自分がしたように、たらい回しにされ、馬鹿にされ、脅された時、部下は言いました。「課長は腹が立たないんですか…こんなに踏みつけにされて」、勘治は答えます。「いや、私には人を憎んでなんかいられない…私にはそんな時間はない」と。私は映画の中で、この言葉に一番心揺り動かされました。これこそまさに終末論的言葉です。

 やがて、完成した公園で勘治は雪の降る中、ブランコを揺すりながら歌います。「いのち短し恋せよ乙女…心の炎消えぬ間に、今日はふたたび来ぬものを…」これもまた終末論的歌と言って良い。この渡辺勘治にとっての公園とは、私たちにとって、キリストの御体である教会のことです。確かに私たちの人生は多様です。皆が牧師となるわけではありません。しかし先週申しましたように、世俗的仕事も「コーリング」(召命)であり、渡辺課長のように命懸けで公園一つを作ることも、それが主イエスに献げられる時、それはどんなことでも、神への奉仕であり、教会を建てることに繋がるのです。

 ある牧師は詩人ミルトンの言葉を引用しています。「ある人が石を切り出している建築家たちに尋ねました。何をしているのですか。一人が答えます。私は石を切っている。他の一人が答えます。私たちは礼拝堂を建てている。」この石を切り出している二人はしていることは同じです。私たちの人生は、独身であろうと、既婚であろうと、やはり、それぞれの石を切り出す仕事している。表面的には同じです。しかしそれをただ石を刻んだだけの生活とするのか、「聖霊が宿ってくださる神殿」(6:19)建設の業とするのか、そこに決定的な相違がある。人は何のために結婚するのか、人は何のために独身で生きるのか、それはどちらにしても、ただ石を切り出すためではない。表面的には、この人は生涯、ただ石を切っていただけだった、と見えても、本人は違う、いえ誰よりも主イエスが「違う!」と言って下さる。「この者は、私の住まいを建てるために生きたのだ!」そう終わりの日にお誉めくださる。この時の主イエスの笑顔一つで私たちの人生の全ては報われるのであります。

 佐藤敏夫先生は貿易会社に勤めていた、ある若い女性の話しを紹介しておられます。「自分の会社で男性の社員を見ていると、この今の仕事を一生続けてやって行かなければならないと思った途端に、うんざりして仕事に対してやる気を失うようだ。しかし自分は近い将来に結婚する可能性がある。そうすれば、今の職場にサヨナラする。そう思うと返って今の仕事に対して、もりもりとやる気が起こってくる。」この会社での生活も終わるのだからいいかげんに過ごそうとこの女性は考えなかった。逆です。終わりを知るが故に、その限られた時間を大切に充実して生きたいと思いました。それと似て私たちの人生も、終わりの時が来る。どんなに願っても、私たちはいつの日か例外なく、この美しい礼拝堂を去る時が来ます。私も今あの渡辺課長と同じ53歳となりました。まさに時は縮まっている。だから今日のこの礼拝の一日がどれ程貴重で掛け替えのない時であるか感じます。この一瞬が永遠と思われる程に。終わりを知るとは、私たちに、それ程の生命の燃焼を与えるものなのです。



 祈りましょう。  時は縮まり、キリストの日が迫っています。今こそ、二度と帰らないこの一瞬を用いて、あなたのみに集中することが出来ますように。兄弟姉妹たちが等しく、キリストの日に「私は生きた、本当に生きました!」と命の詩を歌うことが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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