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2008年 2月18日「私はあなたを友と呼ぶ」

2007年2月18日 主日礼拝説教 「私はあなたを友と呼ぶ」

  説教者 山本 裕司
  ヨハネによる福音書 15:11~17


 「これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)とあります。私たち主の弟子とは、この掟を守ることが求められているのです。その主の掟とは「互いに愛し合う」ことです。しかもそれは、「主イエスが私たちを愛して下さったように」愛し合うことなのです。主が愛して下さったように、それは、この最後の食事会が始まった時に主がして下さったこと、人の汚れた足を洗うことです。そしてこの最後の食事会が終わった時に、主がして下さることです。それは人の汚れた心を洗うために、十字架について死んで下さることです。

 その愛に生きる、すると、この西片町教会会堂のギャラリーに掲げられるステンドグラスのように、この前にある主の食卓側面の彫刻のように、豊かなこぼれるほどのぶどうの実、愛の実が結ぶ。主の教会のイメージ、それは、主を信じる兄弟姉妹たちが、互いに愛し合うことによって、豊かな実を結ぶ姿なのです。

 しかしそれは、教会の内だけのことではないでしょう。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと…あなたがたを任命したのである。」(15:16b)とありますが、ある注解者はこの「出かけて行って」という小さな言葉に注目しています。教会の外に出るのです。教会の中に閉じこもって、互いに傷をなめ合うようなことではなくて、もっと積極的です。

 出かけて行く、その場はどこか、「世」(15:18)です。世とは、大変厳しい場です。「憎む」という言葉がある。世につきまとうのは憎しみです。憎しみという名の果実をたわわに実らすのが「世」です。私たちも日々、悲惨な報道で、あっちの家も憎しみで破壊された、こっちの国も憎しみで血を流している、それを目の当たりにしています。世とは、憎しみが溢れている闇の世界のこと。しかし「さあ、立て。ここから出かけよう。」(14:31b)と主は既に言われました。それは主が真っ先に世に出て行かれたということでもあります。だからその憎しみを一身に浴びて、主は十字架で死なれました。しかしそれは世の罪の闇を洗う、十字架の贖いだったのです。そのことによって、世に光が輝くのです。憎しみの果実が落ち、愛の果実が膨らみ始める。そこで世は変わる。

 主の掟を守ることが命じられた私たちもまた、憎しみの世に出て行って、洗足と十字架の主に従って、愛のために生きる、それが強く求められているのです。

 しかし、ここまで説教を聴いた私たちは、当惑するのではないでしょうか。何という厳しい掟かと、言うは易く行うは難しのギャップ甚だしき説教である、と。しかし心ある説教者、注解者たちは、そのことを決して忘れません。

 私がこの説教準備の時、必ず読むのは、井上良雄先生の講解『ヨハネ福音書を読む』です。

 やはり先生はここで、この愛の掟を聞いた時、私たちから出る言葉とは「一体そういうことが人間に出来るのだろうか」ということだと言われています。しかし、先生は、そこで、先ず私たちが、出て行って始めなければならないことは、その通り出来るか出来ないか、ということでない、先ず、始めることは、主が世を愛された、世の人々を愛された、そのことをしかと覚えることだ、そういう意味を言われる。それは、私たちが日常生活で出会う人々を見る時、あるいは、私たちにとって、敵としか言うことの出来ない人を見る時、そういう一人一人に対して、主の愛が注がれたのだ、そのことを私たちは忘れてはならないと言われる。彼ら一人一人のためにもイエスは死なれたということを、あるいは彼ら一人一人の額には、あのカインの額に神の守護の印がつけられたように、主イエスの十字架の印がついているのだ、ということを忘れてはならない、そう言われます。

 勿論、私たちが、私の敵のためにも主が死なれたのだということを知っても、そこで根本的な変化は起きないかもしれない。それだけで、この主の掟を実行出来ていることには、まだならないでしょう。憎しみの炎とは消えないものです。もう消えたと思っていても。

 先日の火災の時もそうです、隣家の火事によって会堂も一部類焼しましたが、消防士は、こげた軒を覆うブリキまで引きはがしまして、その中を、赤外線鏡で覗いて、温度が高くないかを点検します。本当に念には念を入れる、どうしてかと言うと、夜になって、また燃え始めるかもしれない、いや、それどころか、2~3日たって燃えだすこともあるのだ、だから注意していて欲しい、そう私は何度も言われました。

 私たちの憎しみもそうです。だからその嫌いな人のためにもイエスは死んだのだ、と思っても、直ぐその人と平和が成り立つわけではないかもしれない、そこで起こることは、ほんの小さなこと、よその人から見れば、何も変わっていないじゃないないか、そんな程度なら普通の人と同じなのだ、と揶揄されるようなことかもしれません。しかし井上先生は、しかしそれがどんなに小さなことであっても、それは決して無意味なことでない、と言われる。そういう50歩100歩の違いを通しても、私たちは全ての者の上に注がれているイエスの愛を、指し示すことが出来る。それは小さなことではない!この先生の言葉を、神の言葉として、襟を正して私は聴きました。

 そしてキング牧師の言葉をも再び思い出しました。「何故、我々は自分の敵を愛するべきなのか、その第一の理由とは明白である。憎しみに対して憎しみをもって報いることは、憎しみを増すのみであり、既に星のない夜になお深い暗黒を加えるからである。暗黒は暗黒を駆逐することは出来ず、ただ光だけは出来るのだ。憎しみは憎しみを駆逐することは出来ないのであって、ただ愛だけが出来る。…」
 
 「世」(15:18)とは原語では「コスモス」です。かつてカール・セーガンという天文学者が『コスモス』という本を書きました。それによると、私たちの住む太陽系は銀河に属しますが、そのどの辺りにあるかと言いますと、銀河の端のほう、銀河系中心部から3万光年離れた、銀河から伸びているうず状の腕の先近くにあるそうです。そこは銀河の辺境であり、星密度が少ない場所です。それでは、もし銀河の中心部に一つの惑星があって、そこに知的生物が住んでいたら、その生命体は、私たちのことを可哀想だと思うだろう、そうセーガンは言う。何故なら、私たち人類が肉眼で見ることの出来る星はわずかしかないからだ。彼らの空は、数多くの星で燃え立つようだろう。私たちは、どんなに晴れ渡った夜も、数千個の小さな星しか肉眼で見ることは出来ない。しかし、銀河系の中心に近いところでは、10億個の何百万倍もの星が肉眼で見えるのだ。そこでは、太陽が沈んでも、夜は決してやって来ない。星の光で満ち溢れるからだ、そう言うのです。

 そして私は思いました。コスモスの暗黒は余りにも濃い、それに対して、私たちの発する光は小さいと思われるかもしれない。しかし小さくてもいい、星となるなら、そしてその数が増えていけば、コスモスに夜が来なくなる。銀河の中心が今、現にそうであるように。小さな星も集まれば、いつか世の闇を駆逐する光となる。憎しみをねじ伏せる愛の塊となる、そう思う。だから、その小さな星の一粒であることに絶望する必要はない。

 作家・山本周五郎には『さぶ』という友情を描いた作品があります。江戸下町でふすまの張り替を専門職とする、芳古堂に住み込みで働く二人がいました。一人は男前で器用な英二、もう一人は愚鈍だが誠実なさぶです。さぶは何をやってもうまくいかず、いつまでたっても糊の仕込みしかやらせてもらえません。それに対して英二はどんどん腕を磨き、やがて優秀な職人として独立出来るだろうと思われていました。いつもめそめそしているさぶを英二は励ましました。俺はお前と一緒に将来独立しようと思っている、お前は日本一の糊作りになればいいじゃないか、その糊を使って俺は襖を張るから、と。

 ところが、この英二に予想もしない災難が襲う。ある時、両替屋・綿文に出入りの仕事をしている時、高価な古金襴の切が紛失した。何とその切が英二の道具箱から出てきた。英二には全く身に覚えのないことでした。しかし出入りは差し止めとなり、芳古堂も辞めさせられてしまう。誰かにはめられたのだ、英二は自棄になって、飲んだくれ、どうしても疑いを晴らそうと、綿分に乗り込んでいくが、返って袋だたきにされてしまう。そして人足寄場の島送りとなる。英二の心の中に火がつきました。復讐の炎です。いつかここを出たら綿文の屋敷に火をつけてやる、いつか芳古堂を潰してやる、精一杯、正直に真面目に生きてきたのに、報いはこうか、馬鹿らしい。江戸中の人間が敵なのだ、誰ももう信じない、憎しみの殻の中に閉じこもりました。

 しかしその行方を必死に捜し当て、何かと訪ねて来たのが、さぶでした。しかし憎しみで目がくらんでいる英二は受け入れない。余りにもさぶが親切なので、英二には疑いの心さえ生まれる。さぶが、英二を貶めたのではないだろうか、と。そしてさぶの書き置きが出てくる。「おらが悪かった、英ちゃんが島送りになったのは、おらの罪だ」、これを見て、英二はやっぱり、あいつだったのか、と思うのです。さぶこそ真犯人だったのだ、その埋め合わせをするために、あんなにしげしげと島に通って来たのか、再び怒りの炎をめらめらと燃やす。 

 しかし真相はそうではかったのです。さぶはあの事件の時、綿文で英二と一緒だった、親友の災難を側にいながら防ぐことが出来なかった、これは自分の罪だ、と思った。どんなにしてもこの罪を償わなければならないと、さぶはその余りにも美しい心の故に思った。この二人の友情は更に深まることが予想されてこの物語は終わります。

 憎しみの闇の中に落ち込んだ英二に、再び光を与えたのはさぶの変わらない友情です。主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(5:13)。主イエスは私たちの罪を十字架で負って下さり、みな自分の責任だと言って下さった。そして言われるのです。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(15:14)

 年を取るに連れ、私たちは友だちの有り難さが身にしみて分かってきます。打算や利害だけで結びついているような関係の「世」です。英二の心の中に起こった疑いのように、この者たちは今はにこにこして寄ってくるが、いざとなったら、さっさと自分を捨てるのだろう、そういうことが感じられる、それが世です。誰も実は信じることが出来ない、そういう中で、友だちとは、自分が損しても助けてくれる人のことです。誰も信じられなくなった英二に、しかし親友さぶが残ったように、それだけが、彼の暗黒の心の中の小さな星となったように、私たちには、主イエスキリストがいます。友としていて下さる。どんなに手がつけられないような人間になっても、掟を守らず、暗黒に暗黒を塗りたくるような復讐の心に生きても、そうやって、全ての者から見捨てられても、主イエスは私たちを捨てない。友だからです。そして私たちの罪を全部御自身で背負ってでも、救おうとして下さる。その友・イエスが、私たちに、だから、あなた達も愛に生きなさい、復讐と憎しみに生きることが、実はどんなに辛く苦しいことか、主は「これらのことを話したのは…あなたがたの喜びが満たされるためである。」(15:11)と言われました。これが主が一所懸命語る理由です。それは私たちが喜びで充たされるためです。私たちを喜びで充たすのは、友情です。愛です。憎しみではない。怒りではない。闇ではない。光です。小さくてもいい、星のような光です。それをあなたも私に倣って輝かせなさい、そこにやがて喜びが満ち溢れるようになるだろう。銀河の中心の夜空のように、もはやそこに夜が来ても夜ではない、愛の光で満たされる時が来るだろう、そう主は約束して下さる。50歩100歩でもいい、しかしその歩みを止めなければ、いつか3万光年だって、進むだろう、主が進ませて下さる、そう主は約束して下さる。



 祈りましょう。  主よ、友がいない孤独に悩む時、しかしあなたは、私が友だと、声をかけて下さる、その友情に心から感謝します。どうかその喜びを知った者として、ここを出て、主にある友情の輪を広げ、銀河の中心のような光で満ち溢れる地球を祈り求めていくことが出来ますように。

(説教後、喜びの中、皆で、讃美歌21-493「いつくしみ深い友なるイェスは」を歌った)




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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