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2008年 1月 6日「「神は厳しすぎるか」

2008年1月6日 主日礼拝説教 「神は厳しすぎるか」

  説教者 山本 裕司
  コリントの信徒への手紙一5:9~13


 今朝、2008年最初の礼拝において私たちに与えられましたコリント一5:9以下の朗読を聴いておられて、皆さんはどう思われたでしょうか。大変厳しい言葉だと思われたのではないでしょうか。ある説教者はこの言葉の説教でこう書いています。

 「教会の交わりというものは、ただ親しかったらいい、ということではない。はっきりけじめをつけなければならない。…教会は、甘い、やさしい生活をするところではなくて、神のお喜びになるような生活に励まなければならないのです。パウロが望んでいることから見れば、(コリント教会だけでなくて、現在の)多くの教会が、何か大切なものを忘れているのではいか、と思います。教会の交わりというものが、どんなに厳しいものでなければならないかを忘れているのではないかと思う。」

 その通りです。使徒パウロは、コリント教会の人々の思い違いをここで修復しようとするのです。しかしそれはいずれの教会においても難しいことです。一度、教会が思い違いをしますと、それを正すためには、心ある伝道者、長老は、心血を注ぎ、時に寿命を縮めるほどの戦いをしなければなりません。そこには激しい反発や誤解が生じる。いえ、わざと誤解しているとしか思えないような形で、伝道者の真意を受け止めようとはしない、そういうことが起こる。そこまでやって、人はこれまでの甘い流儀を守ろうとするのです。

 「わたしは以前手紙で」(5:9)とありますように、もう既にパウロは教会宛てに、みだらな行為を咎める手紙を書き送っていました。そうしたら、コリント教会員が「…この世のみだらな者とか強欲な者…と一切つきあってはならない…。」(5:10)とパウロの言葉を拡大解釈して、異教徒であるが故に聖書の戒めを守れない一般の人たち全員と一切付き合ってはならないと、パウロ先生は言っている。我々は教会に来てない家族や友人と離縁、絶交して世捨て人になれとパウロ先生は命令する、そんなことが出来るはずはないではないかと、教会員がわいわい話し合った。それも直ぐパウロの耳に入る。

 このように、何故か人は自分に不都合なことを言われた時、勝手に曲解しその理不尽さを責めるということをします。ある人は言いました。「人は躓きたがっている」と。そうまでして人は神の戒めから自由になりたいと願うようなところがある。それは最初からそうだということが創世記3章から分かります。エバは誘惑者・蛇に言いました。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:2~3)。しかし、実際の神様の戒めとは、聖書の直ぐ上に書かれてありまして「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:16~17)ということでした。それをエバは微妙に曲解します。

 私は何回この堕落の物語を読んだか分かりませんが、その度に本当におもしろいのですが、実はエバの曲解、拡大解釈は、蛇の巧みな誘惑によって既に導かれているのです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(3:1)と蛇は、いつの間にか、神様のお言葉をひっくり返してエバに先ず言いいました。鎌を掛けているのです。エバは、それを聞いて、いくらなんでもそうではないんですよ「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです」(3:2a)、そうあたかも自分は公平であるという顔をしながら、実は神の「すべての木から食べなさい」と言われた、人に全き自由を与えようとする神のお気持ち、その「すべて」は、省いてしまう。その延長線上で「…触れてもいけない」(3:3)と神が言ってもいない禁止命令を挿入した。そうやって人間は何をせっせとしているかと言いますと「神は厳しすぎる!」と言いたいのです。実は、そんなに厳しくないのです。禁断の木は一本だけなのに、後は「すべて」自由なのに、人間には、そのたった一つの戒めがどうしても許せない。それ程の自由(我が儘)を人は求めているのです。自分が自分の王様(コリント一4:8)でいたいのです。従って、禁断の木の実とは「自己神格化」のことです。神様の戒めを五月蠅がり拒否することは、神御自身を棄て、人が自分自身を神とする道です。人は神になりたがっている。

 コリント教会の人々は、またしてもその蛇の誘惑にひっかかっているのです。使徒パウロが前の手紙で戒めたことは、外部の人々の問題ではない、教会内の問題です。「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」(5:12)

 教会は時に、外部の人々を裁くことを得意とします。私たちの教会でもこの社会がどんなに不正義に充ちているか語り合います。それは大切なことですが、そういうあり方だけでは、やがて教会の「高ぶり」(5:2)を生むことでしょう。パウロはここで先ず教会員こそが正しく生きねばならないと言っているのです。主の御体である教会が正しく立たなければ、この世の滅びに歯止めをかけることは出来ません。だからこそ先ず教会なのです。パウロは常に教会中心の考えをする。それ程、教会を愛しているということなのです。

 パウロが挙げる教会内悪徳表は以下です。「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」(5:11)。では、どうしてこの者たちと「一緒に食事も」(5:11)してはならないのでしょうか。罪人だからでしょうか。そうでありません。教会は元々罪人の群れだからです。私たちは全員罪人なのです。教会はその罪が赦されるために存在しているのです。しかしパウロの考えでは、上記の者は、自分が神によって罪赦されていることを忘れてしまっているのです。パウロはそれだけは決して許すことが出来ないのです。信仰をもっている兄弟がこんなことはするはずがないとパウロは言っているのです。

 先ず、この「みだらな者」とは、不倫の問題です。これは信仰の問題と密接に結びつきます。唯一の神を愛し唯一の神に献身することと、唯一の人を愛し唯一の人に献身することとは一つのことだからです。

 次ぎに「強欲な者」とあります。主イエスが「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」(ルカ12:15)と言われました。この話しはさらに続き、そこに登場する金持ちはこう言った。「たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ。」(12:19)この「安心」とは福音を知った時に人がもつ魂の平安に似ています。そして「食い飲み楽しむ」、これは主の食卓・聖餐に与る時の魂の喜びに似ています。福音を得て、主の食卓を囲む時の楽しみ、そこでだけ与えられる平安と喜びを、この男は「富」で得てしまった。それはこの男が富の偶像崇拝に陥っているということです。パウロはこうも言いました。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)だからパウロは、三つ目の悪徳として「偶像礼拝」をおきました。

 人が主の食卓に与る以上の平安を物質的な富に見出した時、そこにはもう信仰はありません。だからパウロは言ったのです。「そのような人と一緒に食事もするな」(5:11)と。一緒に食事をするな、と言うよりも、その人はもう、主の食卓・聖餐が不必要な人間に戻っているのです。そんなものなくても、富さえあれば、安心して生きていける人間に戻ったのです。それは自らの罪を忘れたということです。主が十字架について与えて下さった、罪の赦しの食卓より大事なものが出来てしまったのです。そうであれば、それは、パウロがそんな人とは教会で一緒に食事をするなと言う前から、本人がもう、主の食卓を必要としない人間になってしまっているということです。

 主イエスはむしろ、罪人や徴税人と共なる食事を好まれました。その中には、遊女(みだらな者)徴税人(人の物を奪う者)も含まれていたと思います。しかしそれ故に、本当に孤独だった者たちは、主イエスと一緒に食卓を囲むことを、この上なき恵み、喜び、平安と覚えた。これがなければ、自分は決して生きられないと思った。この感謝の思いこそ、教会に集う私たちの心なのです。

 次ぎに「人を悪く言う者」とあります。私たちは元々正しい人間だから教会に入れたのではありません。罪人なのです。しかし十字架の恩寵によって赦して頂いた者たちが「兄弟姉妹」となりました。そうであれば、どうして、私たちはあたかも元々義人であるかのように、人を悪く言うことが出来るでしょうか。主は言われました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7:3)と。自らが罪赦された者であることを知る時、私たちは無制限に人を悪く言うことは出来ません。

 次ぎに「酒におぼれる者」です。毎週土曜日、私たちの教会で、AA(アルコール依存者の会)が開かれています。それと同じ理念で行われているダルク(薬物依存者の会)の人がこう言いました。「かつての自分にとって、覚醒剤とは神そのもであった。何故なら、人生の全ての問題を、覚醒剤は解決してくれると信じていたからだ」と。まさに偶像礼拝がここに起こっているのです。だから、AAもダルクも、その依存状態からの解放のために、ハイヤーパワーを祈り求めます。その空虚な魂を満たす霊的存在が、アルコールやクスリという神から、ハイヤーパワーという神に入れ換わらない限り、自分たちは治らない、そう言った。ハイヤーパワーとは明らかに、私たちの言う神・イエスキリストのことです。

 コリント教会員は、この私たちを生かす唯一の存在である主イエスを忘れ、自分たちが罪人であることを忘れ、主の食卓などいらないと覚えるほどの高慢(自己神格化)に陥っていたのです。パウロはそのような悪い者は「除き去れ」(5:13)と申命記の言葉を引用しましたが、そんなことパウロが言うまでもなく、その者たちは、教会の中にいなかったのです。だからパウロは注意深く「兄弟と呼ばれる人」(5:11)と呼びました。ここでパウロは一言も「兄弟」を除き去れとは言っていない。私たちにとって、教会にとって、兄弟姉妹ほど掛け替えのない宝はありません。パウロが言ったのは、兄弟と呼ばれても、実はもう真の兄弟でなくなっている人、との意味です。パウロが追い出したのではありません。自分でもう神様もイエス様もいらなくなった者、主の食卓などなくても元気に生きられるようになった人のことです。それなら、そのようにしなさい、と、あなたが「今あるように、あれ」、パウロはそう言っているだけです。 ただ今からこの年最初の主の食卓に与ります。私たちはどうしてもこの罪の赦しの食卓・聖餐に与らねばなりません。本日は教会暦の定める「公現日」です。東方の学者たちが、真の救いを求めて旅をした末、ベツレヘムの御子を見出した日です。私たちの2008年も、その学者たちに倣って、共に喜び勇んで感謝し、主の食卓の前に馳せ参じるところから始めましょう。



 祈りましょう。  主よ、私たちが「兄弟と呼ばれる人」などと間違っても呼ばれないように、いつも私たちに聖霊を注いで下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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