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2007年 8月19日「「早速、建築に取りかかろう」

2007年8月19日 主日礼拝説教 「早速、建築に取りかかろう」

  説教者 山本 裕司
  コリントの信徒への手紙一1:1~3
  ネヘミヤ記 2:11~18


 新約聖書には使徒パウロの名によります手紙が13あります。そのうち、ローマの信徒への手紙、コリント一、二、そしてガラテヤの四つを、パウロの四大書簡と教会は呼んできました。聖書の文書はみな大事でしょうが、特に重んじなければならない、それが手紙としては、この四つである。そう昔から言われてきました。聖書の中でも特に重んじなければならいという言葉を、私は本当にそういうことがある、50歳を超えて、自分の人生、あるいは教会の主任牧師としの人生には限りがある、そのことにはっと気付きました時に、それが本当だと思うようになりました。特に連続講解というのは時間がかかります。このやり方では、私が在任中、聖書全巻をご一緒に読み切れないと思います。それくらい聖書とは膨大であるとも言えます。それだけに、特にこの主日礼拝において、何を先ず読むかというのは大切な祈りの課題になります。そして祈ったわりには、平凡だったということかもしれませんが、私はこの教会におきまして、一つの福音書を読了しますと、次ぎに福音書以外の新約の文書を読み、また福音書に戻るというやり方をしてきましたが、もう既にそのやり方で、ローマとガラテヤは、ここで一度読み終えているのです。使徒パウロの四大書簡で残されたのが、コリント一と二の手紙です。そういうこともありまして、教会形成、教会建築の課題に取り組んだこのコリントの信徒への手紙をここで開くことを決心しました。それはもう暫くすれば創立120年を迎える私たちの教会がさらに堅固な教会として、この地に建ち続けるためでもあります。

 コリントとはギリシアの町の名です。そこに建った教会に宛てたパウロの手紙です。パウロは、この手紙を書いている時に、これがやがて聖書の一文書になり、やがて〈執筆年代は紀元後54年〉1953年後、日本の東京の教会でこれが毎週読まれるようになるとは、考えもしなかったと思います。パウロは、本当に具体的な教会、自分が開拓伝道して建てた教会のことだけを思いながら、エーゲ海を隔てた今はトルコに属するエフェソからこれを書いています。人伝にコリントの教会の悪い噂が伝わってきます。心配でたまらなくなる。コリント教会には正当な牧師がいなかったようです。誰かが牧会しなければならない。そうでないと、せっかくのコリント教会が教会でなくなってしまうかもしれない。それがこの手紙を書いた動機です。しかしそれでいて、このパウロの言葉が決して、コリント教会だけに当てはまるのではないと、読者は皆気付く。全世界のいずれの教会にも当てはまり読まれるべき、大きな書簡の一つであるということに、教会は気付きまして、ついには、これがそのまま聖書になってしまった。聖書とは「神の言葉」のことです。具体的な一つの教会、コリントにある大昔の教会の問題を牧会をしようとして「使徒」としてこれを書いた時に、これは普遍的な言葉、いずれの教会でも読まれなければならない「神の言葉」になったのです。

 今、これは使徒として書いたから、個別的な手紙が、全ての教会共通のものとなった言いました。ここが大事なのです。1:1a「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ…」と、この手紙はパウロが自己紹介している言葉から始まります。コリントの信徒たちはパウロが使徒であることはよく知っていたはずなのに、どうしてパウロは、自分は使徒だと、ここで改めて書いたのでしょうか。それはそうでないと、どんなに書いても、この手紙が本当の意味で力を持たなくなると、パウロはそれを知っていたからです。

 ある牧師が巧みにこの意味を説明していましたので、それで申しますと、友達同士でも、友人に何か問題が起こった、何かのことで悩んでいる、その時、何とかして助けてあげたいと思いますが、その時はいつもの気が置けないおしゃべりとは異なり、改まって「いいですか、あなたの友人として申し上げたい」とそう言う時があるでしょう、そう牧師は言うのです。あるいは、いつもはざっくばらんな家族であっても、いざという時に、父親は子どもの前に座り直して、「父親として言いたいのだが」と切り出された時、息子ももういつのようにふざけていてはいけません。その時は、父子の関係ははっきりさせなければならない。そうでなくては大事な言葉が、子どもに正しく受け取られなくなってしまう。あなたの父として、あなたの母として私は今言う、そう私たちだって、一生の間一度は、そのように子に接する瞬間があると思います。それは子の命に関わる時です。生きるか死ぬかの時です。そういう時、親というのは、子どもと、ある意味で話し合うなどといことも超える。民主主義を超える。この言葉をただ素直に受け入れて欲しい、この言葉に無条件に従って欲しい。そういう言葉を言わなければならない瞬間があります。重みある言葉です。権威ある言葉です。

 パウロが自分は「使徒だ」と言ったのはそういう意味です。今、まさにパウロにとって子どものような教会、コリントの教会の死活問題が起こっている。まだコリントの教会は何とか生きている。しかしもう所々、その霊的な教会の城壁は崩れかけ始めているのです。今のうちに何とかしなければならない。

 先ほど、もう一箇所、旧約聖書、ネヘミヤ記を朗読頂きました。大国バビロニア軍の侵略によって、都エルサレムは徹底的に破壊されました。神殿も焼け落ちたのです。多くのユダの市民が敵国の都バビロンに連行された、捕囚という出来事があって、既に百数十年が経過した時の物語です。既にオリエントの覇者はペルシアに代わっている、そのペルシア王の僕として仕えて、ペルシアの首都にいるユダヤ人・ネヘミヤのもとを訪ねた兄弟が、1:3b「エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」と伝える。ネヘミヤはその神の都の窮状を聞いて深い悲しみに陥り、ついに王から許しを得て、エルサレムに帰還しました。夜、三日間に渡って城壁、城門をつぶさに調査します。2:13~14「夜中に谷の門を出て、竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。更に泉の門から王の池へと行ったが、わたしの乗っている動物が通る所もないほどであった。」その上で、エルサレムの責任者を集めてネヘミヤはこう言った。17「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」すると彼らは18「『早速、建築に取りかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った。」かくして瀕死の神の都は再び立ち上がる。

 海の向こうのコリントを思うパウロの気持ちもこのネヘミヤと似ていたと思います。教会は確かに建っている。しかし、その霊的壁は剥がれ落ちてきている。「改修しようではないか!」そうパウロは声の限りエフェソの海岸から西に向かって叫ぶような思いで、この手紙を書いています。そういう教会の死活問題の時「私は使徒としてあなた方の教会に語る」そう言う。これから具体的な教会の病んでいる姿を、私たちは読んでいきます。それを修復するということは、エルサレムの城壁復興同様の大事業です。厳しいことも言わなければなりません。古い城壁を一度壊して、それから建て直さなければならない箇所もあるかもしれない。痛みを伴う。そういう時、パウロも一所懸命語るけれども、聞くコリント教会の兄弟姉妹が、パウロの手紙を読んで「ああそういう意見もありますねえ、しかし自分には自分のやり方がある、参考意見として聞いておきましょう」などということに終わったら駄目です。それでは教会建築は成らない。パウロの言葉を、ただ学者の言葉、先輩の言葉、その程度に受け止めていても駄目です。それでは教会は立ち直らない。パウロは使徒としてこれを語ると言っている。使徒の言葉としてこれを教会は受け入れなければならない、教会が生きるためです。

 パウロは使徒の身分にとても拘った伝道者です。それは、自分が高い地位を得たい、などいう出世欲と無縁の話です。自分は使徒なんだから、どんなことでも自分の命令を教会員は聞かなくてはならない、そういうことではありません。そうではなくて、使徒という元のギリシャ語の言葉は「派遣された者」という意味です。その意味で、実は使徒というのは「尊称」ではない、その人自身が偉大なのではない。むしろ自分が大きくなることを断念した、それが使徒の意味です。どうしか、派遣される、使わされる、それは自分が主人を持ったというとです。だからパウロは、別の手紙では、先ず何よりも書いた自己紹介は「キリスト・イエスの僕」という言葉です。奴隷という言葉が使われています。キリストのお使いです。御言葉のお使いです。パウロはだから、人間の知識や人間の処世訓をここで語ろうというのではありません。最近、だんだん教会から青年がいなくなりまして、従って牧師になろう、そういう若者も減った、しかしそれに変わって、社会で長く働いてきた中年や定年退職した人が、神学校に入ってくる、そういう傾向が強まりました。素晴らしいことだと思います。しかし、時々、ただ噂ですけれども、長く営業に勤しみ、どうやって会社や商売を成功させるかを身をもって学んできたような人が牧師になりまして、同じやり方、会社で用いていた同じ言葉を使って、教会成長を図る、そういう話を聞いたことがあります。使徒、伝道者というのはそういう存在ではありません。勿論、その人の個性、経験が抹殺されるのではありません。しかしそれは二次的なものです。必要なのは、使徒、説教者が、先ず神の言葉を聴いて、それをそのまま人々に語り直す、それが説教です。伝道の言葉です。

 パウロの言葉にこうもあります。テサロニケ一2:13「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」人間パウロの説教ですから、人間の言葉としていくらでも受け取ることが出来たと思いますが、しかしテサロニケの教会の人が、それを神の言葉として聴いてくれる。本当にパウロは嬉しかった。感謝した。しかし、それはテサロニケの信徒が偉かったのではなくて、元々、使徒が語る説教は神の言葉なのです。使徒に先ず語られた神の言葉を、そのまま語ろうとする、それが出来る、それが使徒としての資格です。だから使徒になるってことは、本当に厳しいことです。神の言葉を聞いたまま語ることがどんなに難しいか。神の言葉が、キリストの言葉が難しいんじゃない。そうではなくて、使徒、伝道者といえども、罪があります。その罪が、人間の勝手気儘の気持が、悪魔の誘惑が、神の言葉を曲げてしまう、そうならいように備えなければならない、祈らねばならない、ここに命を賭ける、その覚悟があって初めて使徒は使徒となれる、説教者は説教者になれる。自分は商売で成功を納めた実績があるから小さな教会を成長させることなど何でもない、などと万が一でも思ったら失敗する。見かけはどんなに大きな教会を建てることが出来たとしても、実は建ったのは教会ではない、カルトが出来上がった、そういうことになる。教会は神の言葉によってしか建たないからです。教会は聖書以外で生きることはないからです。

 そうであれば、使徒となること、伝道者になることは本当に厳しいことです。誰がその任に耐えられるかということにもなります。よほど信仰深い誠実な人しかなれないのか、そうではありません。1:1a「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」。使徒となるということも、実は自分の意志ではないのです。「召される」、受け身です。召される、英語ではcallという訳が使われます。呼ばれる、自分はそんなことは出来ません。弱い人間です。罪人です。パウロは元々教会の迫害者であった。教会の敵であった。しかし復活の主からコールされる。いくら言い訳しても駄目です。神様から呼ばれてしまう。そして、神からあなたは私のもの、私の僕、私のお使い、そう他の人からより分けられてしまう、あなたは神のもの、キリストのもの、だから逃れられない、やはりここでも民主主義ではない。神の言葉に人は服従する。それ以外に命を得ることはないからです。そしてあなたをキリストが選んだのだから、その力もキリストが下さる、それを信じて、私たちは信仰を持つのです。洗礼を受ける。牧師になる。能動的に自分が決めたんじゃない、受動態で、呼ばれてしまったからです。その神が、私はあなたの神だと、自己紹介して迫ってこられる。

 もう一度、この「召される」という言葉がこの短い挨拶の中に出てきます。今度は、差出人使徒パウロに対してではなくて、この手紙の宛先に対してです。「召されて聖なる者とされた人々へ」、先ほどから申していますように、コリントの教会の問題、それをやがてここで学びますが、その時、私たちは、西片町教会も少々おかしいところはあるが、いくらなんでもこれほどひどくない、そう思うかもしれません。もしコリント教会のような状態になったら、私たちはどんなに悩むかと思う。そして、こんな教会は神の教会と呼べない、イエス様に恥ずかしい。そんな思いになるくらいです。しかしパウロは、これは神の教会と言っている。罪を犯しつつの教会です。しかし罪を犯してもう教会でなくなった、カルトになった、そういう教会ではありません。教会です。どうしてか、この人達を神が呼ばれた、召された、問題ある人たちを呼ばれて、神様が聖なる者とした、これは聖人という意味ではありません。そうではなくて、聖とは、分けるという意味です。主イエスキリストが、これは私のもの、そう他の人々から選んで分けて下さった、それを聖なる者と呼ぶのです。分けただけです。だから教会にいる人とは、特別に聖人に立派になったから洗礼を受けたのでない。弱い罪人だけども、神様から何故か呼ばれてしまった。選ばれてしまった。それが聖なる者という意味です。

 確かに人間の悪徳がコリントの教会には充満している。しかしもっと充満しているのは、分けられた者たちへのキリストの十字架の贖いと赦しです。だから直ぐにパウロは1:18「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と言います。十字架のことをパウロはこの手紙で一所懸命になって語ります。神に呼ばれてより分けられて、どうなるのか。私たちの罪がイエスキリストの十字架によって休みなしに赦されているのです。だから教会も、その中にいる私たちも、繰り返し罪を犯しますが、しかしやはりここは神の教会として維持される。壁は崩れているかもしれない。でも守られる。自分たちが立派であるからではありません。主が十字架の恵みをもって支えて下さっている。だから私たちも霊的城壁を命懸けで建て直す値打ちがあるのです。どんなに大変でもやり甲斐があり、それがまた可能となる。教会だからです。聖なる者だからです。ネヘミヤは使徒のようになって、荒廃の極みのエルサレムに立って呼び掛けた。17「エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」それに対して民は教会員のように答えた。18「『早速、建築に取りかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った。」私たちの今の思いは同じです。喜び勇んで、奮い立って、西片町教会を建て続けましょう。



 祈りましょう。  この罪多い僕を選び説教者としてお立て下さった御神、どうか今聖霊を注いで下さり、この説教者の言葉が、権威ある言葉、神の言葉となりますようにお助けて下さい。

(主日礼拝におけるコリント一の連続講解説教は現在6章に至りましたが、2008年の新年、その初心に帰るために、最初の説教を記しました。)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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