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2006年11月19日 「ヒイラギのように」

2006年11月19日 主日礼拝説教 「ヒイラギのように」

 「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。(ヨハネによる福音書12:36)

 ヨハネ福音書の前半の終わりの箇所、締めくくりの部分と指摘される、今朝の御言葉の一節にこうありました。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」(12:37)。「目の前で」とあります。主イエスは、こそこそ隠れて、御業をされたのではありません。目の前です。誰も見逃すはずがないというところで、主は「多くのしるし」をなさった。その「しるし」が、この福音書前半の2章~12章に多く記されているのです。ある人はそこに記された「しるし」の数々を、今、福音書は「走馬燈のように」読者に思い出させようとしていると、印象深く書いています。

 祭の時、主は都エルサレムに上られ、例えば、ベトザタの池で、38年、病気に苦しんでいる人を癒された。確かに癒しは素晴らしい、でもそれも「しるし」です。何か別のものを指し示す役割を、その奇跡は担っていました。福音書はベトザタの池の物語の終わりに「(イエス)は、御自身を神と等しいものとされた」(5:18)と書いています。ヨハネ教会が、誰よりも先んじて知った真理「イエスは神である」これを一人でも多くの人に信じてもらいたい、そのために、この福音書は書かれています。癒しの奇跡は、その「信仰」を指し示すところに、一番大きな意味がありました。

 やがて仮庵の祭もやってくる。この祭は水注ぎの祭であり、光の祭であった。その祭が最も最大に祝われる時、主は立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:37~38)

 その時、神殿に姦通の現場で捕らえられた女が男たちに連れてこられる。イエスよ、この女をどうしたらいいのか、と。しかし、主イエスの促しによって、男たちは自分も同じなのだ、罪を犯してきたのだ、と気付かせられ、皆去ってしまった時、主は言われた。無限の愛に充たされて。この女性がこれまでただ一度も聞いたことがない柔らかな男の声で。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。愛に渇ききっていたこの女性の砂漠のような心に、今主の愛が、春の雨、秋の雨のように降り注ぐ。女の干からびた魂を潤していく。それは女が愛に甦った瞬間だったと思う。

 さらに、主は言われる。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ。」(8:12)主は、生まれつきの盲人を、シロアムの池に行かせお癒しになられた。暗黒の中にいた人を光で照らして下さった。ラザロもまた墓の闇の中に置かれたのに「ラザロよ出てきなさい」との主の大声によって、光の中に、命の中に、呼び戻されました。みな、隠しようもない衆目の内に行われた「しるし」です。

 「にもかかわらず」であります。「 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」(12:37)これが福音書前半の「結論」となった。こんなことが、あってよいのでしょうか。神の恵みのしるしが、これだけ公にされたのに、信仰が生まれなかった。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

 しかしそれは神さまの見込み違いではなかった。その不信仰は、既に、神が預言者イザヤに伝えていたことが実現したことだった、という話になっていくのです。

 「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』」(12:39~40)

 目の前で神の恵みのしるしが行われても、それを見ることが出来ない。心は頑なで受け入れない。神に立ち帰らない。それは、神さまが元々したことなのだ、そう言われている。

 それは、イエスこそ救い主であると、私たちには、直ぐ、理解出来ない。そのようなお姿をもって御子を、父なる神は、この世に、お遣わしに
なられたという意味があるのではないでしょうか。
 
 クリスマスの祝いの日が近づいています。御子は飼い葉桶の中、真夜中、産声をあげられました。それは王の王・主の主の「誉れ」から、最も遠い誕生の姿でした。しかしそれは、神さまが、私たちのような罪人を救うことが出来るのは、そのような低きに降る救い主以外にはいない、と知っておられたからです。それが、もう一つの預言者イザヤの引用の言葉に込められています。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」(12:38)。これは、受難週の時、必ず読まれる、イザヤ書53章の御言葉です。

 「…乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。…彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:2~5)

 主イエスが雨のような潤いを私たちに与えて下さる、光を私たちに与えて下さる、その奇跡は、この見栄えなきお姿の中からのみ、生まれてくる。誰もこの飼い葉桶の赤子が光とは思えない。誰も十字架のイエスが渇かない水であるとは思えない。そうなることをよく知っておられた上で、なお父はそういうかたちでしか、御子をお遣わしにはならない。何故なら、私たちは「彼の受けた傷によって」しか、癒されない存在だからであります。

 さらに人間が、この御子を受け入れることの出来ない理由を、福音書はこうも書いている。イザヤの預言では、人はイエスを信じることが出来ないはずだ「とはいえ」(12:42)とあって、議員の中にもイエスを信じる者は多かった、という言葉になります。しかしそれは先の預言を、残念ながら覆すところまではいかない。「ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。」(12:42b)。イエスのしるしをこれまで、何度も目撃し、御言葉を聞いて、この男こそメシアではないか、と思った議員たちも多い。しかし追放されることを恐れた。彼らは持てる者でした。信仰を公にする時、失うものが余りにも多かった。その宝をイエスと引き替えに、棄てることはどうしても出来なかった。

 だから、福音書はこう指摘するのです。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(12:43)。この「誉れ」とは「栄光」と同じ言葉です。「好む」とは「愛する」という言葉です。ですから、43節は、本当に強い言葉だと思います。「神の栄光より、人の栄光を愛した。」そう訳すことが可能です。人からの誉め言葉、地位、富、つまりこの世の光、輝きです。それを愛した時、信仰を公に告白することは出来ないのです。人間はかくも目先の光に惑わされる者だった。だからこそです。もう一度言います。このような愚かな私たちだからこそです。主イエスは、飼い葉桶に生まれ、十字架につく他はなかった。そのようにして、人の不信仰の罪を、十字架の上から輝く神の栄光で、吹き飛ばす他はなかったのです。

 最近、教会の庭に出ますと、もう冬なのに、馥郁(ふくいく)たる花の香りが漂ってきて驚かされました。その香りは、ずっと昔から生えていた一本の木から流れてくる。これまで、その木は、ただやせ衰え、黒ずみ、勿論私たちがここに来てからというもの一度も花を咲かせたこともありません。それが今年、初めて白い花を一面につけたのです。調べてみますとそれはヒイラギです。クリスマスが近づいてくると「ヒイラギ飾ろう、ララ…」という歌がどこからともなく聞こえてくる、そのヒイラギです。アドヴェントになるとリースやクランツを作りますが、その時用いられます。それは今の季節赤い実をつける西洋ヒイラギが正しいのですが、日本のヒイラギは、この初冬に白い花をつけるのだそうです。

 ところで、どうして、この教会のヒイラギは、初めて花を咲かせたのでしょうか。それは、以前、教会の南側にあった建物によって、日の光が教会庭には入らなかったからです。ところが、それが、ご存知のように、今回それよりもっと高いマンションに建て替えられたのですが、そのマンションは奥行きがなく、さらに奥のマンションとの間に、数㍍の建造物のない空間が生まれました。そこから日の光が、一日の短い間ですが、庭に入るようになったのです。そのため、これまで死んだような黒ずんだ葉でしかなかったところに、今年春、本当に瑞々しい新緑の葉が茂るようになってきた。そして今冬の花です。

 ヒイラギは何故、クリスマスに用いられるのでしょうか。それは、葉のトゲがキリストの荊冠を思い起こさせ、赤い実はキリストの鮮血を思い出されたからかもしれません。

 このヒイラギを見ながら思う。神の栄光は存在する、と。既に御子イエスが飼い葉桶に生まれ、十字架について下さったからです。だから、救いの光はもうこの世界に充満しています。しかし高いビルが日の光を遮るように、人間が自らの誉れ・栄光を追い求める時、その高慢の壁によって、神の光は遮断されることでしょう。バベルの塔の神話のように、高い建物を建てるだけで、人は誇るようなところがあるのではないでしょうか。しかし、一番大事なものは何か。人を真に生かす光とは何か。それは、この世の誉れではない。神からの誉れ、神からの光です。一日数時間であっても、その光が射し込んだ時、ヒイラギが生き返ったように。私たちも同じです。一日の僅かな時間でも、神の光を浴びる時を、その人生の中に差し込む時、私たちは甦る。光を浴びて、光の子となるからです(12:35)。

 私は、この高いマンションを建てるために、一度以前のビルが凄まじい轟音とともに崩された日のことを思い出します。日の光が初めて何の妨げもなく、教会の庭に入ってきた。その輝き、明るさを、今でも忘れません。それはしかし一瞬のことで、直ぐに遮られました。そして改めて思います。光は輝いている。神の栄光は輝いている。 こんなところには決して神の光はないと思われるような、暗闇の中で貧困と差別の寒気に耐えていた羊飼いたちにこそ、真っ先にクリスマスの天使の大群が訪れ、讃美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ。」栄光とは、ラテン語で言えば、グロリア!です。私たち人間の高慢の高い壁によって、もうここには光は射さないと思われるその場所を、真っ先に栄光の輝きを照らすために、主は飼い葉桶に生まれ、十字架につかれました。その時、人間の罪の高い壁は崩れ始める。栄光はその御子の貧しいお姿を通ってだけ、私たちの目に見えてくるのです。



 祈りましょう。  神がそう定めたと思われるほどの私たちの不信仰です。しかしどのような堅固な建物もいつか崩される時を迎えるように、私たちの罪も主イエスの贖いによって、打ち崩されてしまう事実を知りました。その時初めて見えてくる、飼い葉桶の御子を、光の主、命の主と、迎え讃えるクリスマスを、一人も欠けることなく皆で、西片町教会で、迎えることが出来ますように。

(礼拝の終わりに、皆で声高らかに、頌栄26「グロリア、グロリア、グロリア」を歌った)




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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