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2006年10月22日 「全てを注ぎだしイエスを愛す」

2006年10月22日 主日礼拝説教 「全てを注ぎだしイエスを愛す」

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネによる福音書12:3)

 主イエスが再びベタニア村に行かれた時、夕食が用意されました(ヨハネ12:1~2)。この晩餐会を多くの注解者たちは、イエス様に対する「感謝会」であったと推測しています。何を感謝したのだろうか。それはイエス様がラザロを復活させて下さったからに他なりません。その晩餐会で大変印象的な出来事が起きました。ラザロの姉妹マリアがナルドの香油を主イエスの御足に塗り自分の髪で拭ったのです。その香油は大変高価なものでした。それを見てユダが、何故、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか、と咎めました。300デナリオンとは、一人の人が一年十分生活することが出来る金額であったと注解書にあります。それが惜しげもなく全て注がれたのです。

 香りとは今の私たちの間でも贅沢品ではないでしょうか。女性が高価な香水を得た時、大切に一滴一滴、使っていくものではないでしょうか。一滴一滴であってさえも、衣食足りて、その次ぎに、ようやく香りがくるのではないでしょうか。香りは少しも腹の足しにならないからです。香りは目に見えるものとして、何も残らないからです。やがて風が吹くと、その香りはどこかに飛ばされしまいます。本当にあんな麗しい香りがこの世に存在していたのであろうか、そう疑わざるを得ないほど、はかなく消滅してしまうものです。そう思うと、ユダが「もっと確かなものを」と、香油を売って貧しい人に施せば、それはどんなに実質的・現実的意味を持ったであろうか、そう言った気持ちが分かると思います。

 しかしその香油を御足に受けている主は言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(12:7)

 私はこのナルドの香油の物語を、特別に愛してきた者の一人です。それは今から30年前、北森嘉蔵先生の『神の痛みの神学』を読んだことに係わります。それによると、この物語の並行記事では、このベタニアの物語の直前に主は貧しい者への施しに生きることこそ、主を愛する道であるという意味の教えがある(マタイ25:34~40)。だからこの時、弟子たちが言った「…高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マタイ26:8~9)とは、先の御言葉を応用したことに他ならない。だから弟子たちは当然イエス様よりお褒めの言葉を頂けるものと思った。しかしそうではなかった。イエス様はマリアの方を誉め、その理由を「わたしを葬る準備をしてくれたから」と言われた、そう指摘して北森先生はこう続けられるのです。
 「我々はこの御言葉に至って、始めてこの出来事の真相を示される。この真相を知って我々は、あたかも電気に撃たれた如く根底より震撼させられるのである。注意せよ、今イエスは葬られんとしている。神の独子が、つまり神御自身が、今葬られようとしている!この真相を示された我々は、もはや一切のことを忘れるであろう。我々はもはや他のいかなる事柄にも関心をもち得なくなるであろう。神が痛んでおられる。この事実の前では他のいかなる現実の痛みも色あせるであろう。現実の痛みを一切忘却するほどに神の痛みに関心をもつ者のみが、真に神の痛みを見た者である。…福音に仕える者はこの女の如くならざるを得ない。」

 この北森先生の言葉は、教会にとって、福音も社会問題も両方大切だ、などと言う当たり前のような話ではありません。御子イエスの十字架の死の前に、つまり「神の痛み」の前に、人間の一切の痛みは色あせる、とまで言ってのけるのです。これほどの人間の痛みが渦巻く世において、どうしてこんなことが言えるのか、と思うほどです。やがて北森先生は1970年の所謂、万博問題に端を発する、教会の社会的責任を問う戦いの中で、徹底的に社会派から攻撃されるようになりました。その時代、日本基督教団は、神の痛みではなく人間の痛みの方に大きく舵をきったような気もします。

 しかし主ははっきり言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(ヨハネ12:7)と。何故、主はこう言われたのか。その理由の一つを、ヨハネ福音書自身が記しました。「彼(ユダ)がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(12:6)。その金を何に使っていたのでしょうか。皆から信頼を受けて会計係を任されるほどの人であったのですから、その金を遊びに使ったとは思われないのです。

 これは推測ですが、ユダはイエス様を政治的メシアとして理解し、ローマ帝国に支配されているユダヤを解放する革命家としてのイエスを期待していたのではないでしょうか。主の群れ(教会)の金とは、全て献金によるものです。全て神に献げられたお金です。それをユダは御心に反して、別の革命集団に渡していたのかもしれません。あるいは剣を買い集めていたかもしれない。そういう「神のもの」を「人間の業」に流用したことを「盗み」とヨハネは書いているのではないでしょうか。ユダは将来の革命の日に備え、良かれと思ってしたのでしょう。しかし主のものである「献金流用」こそ「イエス・キリストのみ」に、全人類の救済の一切をお委ねする献身の心を失っている証拠なのです。つまり彼は人間の力に頼った。そして、目に見える力しか信じなかった。そのような中で、目に見えないものを軽んじたのです。
 
 主イエスの愛、慰め、癒し、何よりも罪の赦しです。それは美しい。しかしそれは一瞬の香りのようなもので、霞のように消えていく。それで社会が変わるわけではない。武器と革命と民族団結のリアリズムこそ、この世を救済するのだ。ユダは何度も意見したかもしれない。教会会計で武器を購入しよう、と。(日本基督教団は1943年「愛国機献納運動」を行い72万円を集め国家に献げた。)そういうユダの心においては、マリアの「香油」の献げ物は浪費でしかない。そして、この世で一番現実的なものは何か、それは金です。

 ある神学者は言いました。ユダはマリアに、この香油を300デナリオンで売れば良いと言った。そのユダの道はやがて主イエスを銀貨30枚で売り渡すことに続いていく、と。 ユダも、それなりに、イエスを愛し、感謝していたかもしれない。しかし北森先生は言った。「他の全てのものが色あせてしまうほどに」と。主に集中する愛です。これがないと、最後に神を金に取り替えるようなことをするのです。神が、御子が、頼りなく思えるのです。金こそ頼りがいがあると思うようになるのです。

 イエス様に対する感謝会であったベタニアでの晩餐会、そこにユダと正反対の人たちがいました。ラザロと姉妹マリアとマルタです。マリアは、ラザロを復活させて下さった感謝の故に、全てを注ぎ出して主を愛しました。

 その時、どうして、マリアは主の御足に油を注ぎ自分の髪でぬぐったのでしょうか。ある人は、当時、女性の黒髪は女の命であった、それは誰にも触らせないものであった、そう書いています。その髪で、主の御足を拭った。そこにあるのは愛です。主の御足に対する全てを忘れ去ってしまうほどの愛です。主はその御足を用いて、エルサレム近隣のベタニアに来られました。それがそもそも主イエスの命懸けの行為だったのです。どうして、主は、都エルサレムからヨルダン川向こう側へ行かれていたかというと、それは、ユダヤ人が主を石で打ち殺そうとしたからです。避難していた。ベタニアに戻るということは、弟子たちが言ったように死を覚悟しなければ出来ないことでした(11:8、11:16)。しかし主の御足は砂漠を越えてベタニアに向かう。そこでラザロを復活させたことで、益々ユダヤ人の主イエスに対する殺意は決定的となった。主は公然とユダヤ人の間を歩くことも出来ないような状態になり、感謝をろくに受ける暇なく、急いで辺境のエフライムに逃れていかれる(11:54)。にもかかわらず、彼は過越祭が近づいた時、再びベタニアに来られたのです。そしてラザロたちにとって、念願であったと思う感謝会が開かれたのです。それは荒野を越える長い旅でした。主の御足は砂埃でひどく汚れていたことでしょう。その御足の汚れとは、人の殺意・罪の汚れのことだったのではないでしょうか。この感謝会の後主は都に向かう。やがて主はこの御足を引きずりながら、十字架を背負いゴルゴタの丘に上られる。そしてこの御足に釘を刺されるのです。そこから御血潮が全て注ぎ出されたことでしょう。その主の私たちに対する献身を示す御足に、マリアもまた、自分の持っている最高のものの全てを注ぎ出す他はなかったのです。

 ある人は言います。マリアの行為が浪費であるなら、主イエスの行為も、どうして浪費ではないであろうか、と。私たちは、主の命に、御血潮に本当に値する存在なのでしょうか。主の十字架の贖いを信じ受洗した時、感謝感激を口にした人がやがて同じ口で不平不満を訴え教会を去っていく。一吹きの風で消えていく香りのように。どんなに多くそういう人々の後ろ姿を私たちは見送ったことでしょうか。ここに残っている私たちが、しかし、その人たちの気持ちが良く分かる、などと平気で言う。それほどに私たちの神と教会に対する愛ははかない。

 しかし主はそのような私たちに全て注ぎ出す。それが例え浪費であっても。何故か、理由は一つです。私たちに対する愛の故に。この愛にマリアは全人類を代表するかのように、全身全霊をもって、応えようとしているのです。そしてそれはマリアだけではありません。マルタもそうです。「給仕をしていた」(12:2a)とあります。これは「奉仕していた」と訳せる言葉です。マルタはここで主の弟子・献身者となっているのではないでしょうか。そして肝心のラザロは「イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」(12:2b)。彼は何も言いません。しかし主イエスと共なる食事の席に座っています。それが実はラザロの大いなる証しなのではないでしょうか。主の晩餐に共に座るということは命懸けのことだからです。実際「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」(12:10~11)と記されています。イエスが神御自身であることの生き証人を抹殺したいのです。この時から、既に、主の食卓(聖餐)に共に座ることは、命を主に献げる殉教の覚悟なくして出来ることではなかったのです。

 この兄弟姉妹はそうやって身も心も主に献げました。どうしてそんなことが出来たのか。繰り返し申します。主イエスが先ずお命を捨てる痛みをもって、この家族を愛して下さったからです。御自分の命と引き替えにこの家族を甦らせて下さったからです。神の御子が命を差し出す恐るべき浪費、それに応える私たちの浪費、それが私たちの献身なのです。愛と感謝こそ人間から損得を超えさせる力です。この無償の愛なしに、どんなに社会を改革しても、はっと気付いたら、革命前と何も変わらなかったということになる。ただ支配者が交代しただけで、やはりそこにあるのは、ただ人と人は利用し合うだけの関係でしかない。盗み合う関係でしかない。真に社会派が求めた、利害損得を超えて隣人を愛し、隣人に献げきる、そのようなことは、そこに起きはしない。

 ある人は言いました。「神に献げきることを知らない人間は、隣人に献げることなどこれぽっちも出来はしない」と。

 主は御自身の犠牲の血潮を、私たちの魂に注ぎ込むことによって、新しい人間を、神と隣人に宝を献げることの出来る人間を造ろうとしておられる。それ以外に、真の革命など、どこにもありはしないのです。



 祈りましょう。  御子が私たちのために、命を献げて下さった、その神の痛みに応える私たちの痛みをもって、今、献げ物をすることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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