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2006年10月09日 「1寸先は闇でなく光」

2005年10月9日 「1寸先は闇でなく光」

  (ヨハネ福音書連続講解説教 初日説教)

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記 1:1~3)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書 1:1)

 私は西片町教会に来まして、既に、マタイ、ルカ、マルコの連続講解説教を行いました。一つの福音書が終わりますと、他の文書を読んだ後、また福音書に帰ってくる、そうやって、この教会における説教者としての務めを果たしてまいりまして11年半が過ぎたところです。その間、幸い健康が与えられまして、私が責任を負う主日の説教や、水曜夕の聖書研究を病気で休んだことは、一度もなかったと記憶しています。しかしそれでもこのように連続講解を始めようとする時に思いますのは、この書をはたして何年か先に語り終えることが出来るであろうかという思いです。もしかしたら今度こそ病気になるのではないか、あるいは私がもうこの教会にいることが出来なくなって、途中で終わってしまう、そういうことがあるのではいかと思いながらの出発です。それは説教者だけのことではなくて、今ここにおられる兄弟姉妹の一人一人もまた同じ境遇にあると思います。これまで全ての講解に忠実に随伴して下さった兄弟姉妹たち、しかしその人たちが、今後も一緒に、長い旅の末に辿り着く、ヨハネ福音書21:25をここで聴く、その保証はありません。先のことは分からない。だから「一寸先は闇」とよく言われるのです。

 あんなに健康を誇り、光り輝いていたと思った人が、あっという間に消え二度と姿を現さない、そういう現実を私たちは何度目の当たりにしてきたでしょうか。「一寸先は闇である。」そう思う時、ヨハネ福音書はそれに対して「違う!」そう大声で叫ぶようにして、御言葉を語り始めるのです。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」1:5)。口語訳では「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と訳されました。闇に対する光の勝利が高らかに歌われているのです。

 鈴木正久牧師は「一寸先は闇ではない。一寸先は光なのだ。」と語られたそうです。

 「一寸先は闇」と諺になる程に、私たちを捕らえてきた闇の力、それに抗して、どうしてそんなことが言えるのか。それはその光の出所が「言」だからです。これは「言葉」でなく「言」であると訳されています。葉は取られている。「葉」を漢和辞典で調べてみますと、ぺらぺらした薄い物という意味もあると書いてあります。私たちは、薄っぺらな言葉、空虚な言葉に悩まされます。しかし「初めに言があった」(1:1)、それは葉っぱのような言葉ではない。これは神と共にあった言、神そのものである言、それが一度語られると、現実の光を必ず呼び起こす分厚い言なのです。

 創世記・天地創造の物語でも「神が光あれ」と言われた、すると「光があった」そう神が言葉を発すると、それがそのまま「現実」となっていくのです。

 ヨハネ福音書もこう言いました。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1:3)

 そしてこの厚い重い「言」とは、ヨハネ1:14で、直ぐ「言は肉をとった」というクリスマスのメッセージとなりまして「言」とは、イエスキリストご自身であることが明かとされるのです。

 福音書の中にこういう物語があったのが思い出されます。愛する部下が病気で苦しんだ時に、ローマの百人隊長が主イエスに求めたことは言だけでした。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(ルカ7:7)。そして主は部下を「言のみで」死の穴から引っ張り出して下さった。まさに言の内に命があった(ヨハネ1:4)。命を呼び覚ます言、光の言、それがイエスキリスト御自身であられるのです。

 私はかつて教会員のお見舞いに行きショックを受けたことがありました。あんなに元気だった人が、突然、衰弱しきって死に瀕する病人となっていたからです。苦しい息をつくご本人とそこで涙を流す家族に、やっとの思いで慰めの言葉を語って病室を出ました。そして私は帰り道、自分の語った慰めの言葉を思い出て、たまらなかった。本当にその軽い、薄い、言葉を思い出すと耐えることが出来なかった。駅で電車を待っている時、いっそうのこと線路に身を投げ出したいような衝動にかられたことがあった。自分の言葉は無意味である。その言葉の内に命がない、光がないのです。だから病室は、暗闇のままです。そういう時、永遠にもう沈黙していたい、そう思う。しかしそこに解決はない。伝道者は言葉を語らなければなりません。

 ではいったいどうしたらいいのか。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた」(1:12)。そうあります。どうしてそんな素晴らしい身分を得たのか、それは「血によってではなく」(1:13)ともある。ある外国の翻訳は「生まれつき(自然)の方法でなく」です。自前のものじゃない。超自然の方法です。「神によって生まれた」(1:13)とも書かれてあります。そこにだけ、罪人が神の子になる道が開ける。そこでだけ人は「厚い言」を持つことが許されるのです。

 やがて、その人が死んで、教会で葬儀がなされた後、ご遺族に、項垂れるようにして、本当に力になれませんでした、そう言いました。そうしたら、その家族が、若い伝道者を励まそうと思ったのかもしれない。いえ、本当に先生の言葉によって慰められました、そう言われたのです。もしそれが本当であれば、それは私の言葉ではない。神の言です。祈りの度に朗読した聖書の言です。自分自身の言葉の貧しさの前で、その言葉に絶望し切って、それだけに伝道者は、自分の言葉を捨てて、つまり人間の「生まれつき(自然)の言葉」を捨てて、ただひたすら「神の言」だけを語る。その時、言葉は思いがけず力を持つのだ、そう信じることがだんだん出来るようになりました。

 「初めに言があった」、言はあるのです。言は存在している!しかも、私たちの間に宿っている(1:14)。だから私たちの罪にまみれた薄い言葉を捨て、この既に存在する「言」にすがりつく時、ついに教会に、死と闇に勝つ命と光の言が与えられるのです。

 ヨハネ福音書の注解書の中に何度も出てきたのが「ヤムニア会議」という言葉です。西暦66年、ユダヤにおいて戦争が勃発しました。ローマ皇帝は3万人の大軍をユダヤに送り、5ヶ月の包囲の後、エルサレムを陥落させます。神殿は焼き払われ、百万を超えるユダヤ人が殺されました。その時、ファリサイ派の指導者のヨハンナは、ローマ軍のエルサレム包囲の中、棺に身を隠してエルサレムを脱出し、ヤムニアに至った。そして彼らはここで、律法、旧約聖書の研究に没頭する。会堂でそれを教え、先祖からの伝統と信仰を絶やすまいとした。そのような中で、彼らは、1世紀末のヤムニア会議でキリスト教の異端宣言をする。そしてイエスをキリストと告白する者を、会堂から追放することを決めました(9:22)。その追放されたユダヤ人たちが建てたのが、この福音書を生み出したヨハネ教会だと言われるのです。ユダヤ教から異端とされることは、教会がローマ帝国の公認宗教の枠から外されることを意味していました。それはローマ帝国から大迫害を受けることに繋がりました(16:2)。

 そのような中で「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)とあり、教会もまた内部分裂していく様子が分かります。ユダヤ教ナザレ派でいいではないか。律法でいいではないか。会堂で共に礼拝が出来るようにしてもらおう。そしてローマ帝国の迫害を免れようではないか、と。

 「暗闇は光を理解しなかった」(1:5)、この新共同訳の翻訳を生かして理解すれば、人は、光であるキリストを理解しなかったのです。ユダヤ教でよいではないか。その闇の心の中で、会堂でよいではないか、そう言って、ヨハネ教会の礼拝から途中で脱落していった、そういう光を理解しない闇の子が現れたのです。

 私たちが、今朝始めた連続講解を最後まで聞かないで終わる。それは病気になって来られなくなった、ということだけではない。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:11)ともある。そうやって、この光の言を受け入れることを途中で止めてしまうということもあり得ます。罪の闇です。ヤムニアで確立した律法でいいではないか。ということは「血による」(1:13)ということです。自然の方法です。律法は人間の力なのです。人間に絶望していません。自分の弱さと罪に絶望していません。自分の中にある闇を知らない、実は、そのことが最も大きな闇なのです。外から来る光を受け入れなければ命はない。私がそうです。自分の言葉、自分の力に頼って、瀕死の人を慰めようとして、それに失敗する。そうしたらもう全てはお仕舞いだと思う。余りにも脆い。光を理解し、受け入れるのだ。会堂から追放されても、帝国から迫害されても、このヨハネの教会に来るのを止めてはならない。最後までこのヨハネの語る福音の言を聴こう。この世の誘惑に負けて連続講解の途中で礼拝出席を中止してはならない。

 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21:25)。この素晴らしい御言を何年先になるか分からない。しかしこの言を共にここで聴くことを求めて歩もう。ここに光がある、ここに命がある、自分にどんなに絶望しても、なおそこで私たちを命と光で充たす「言」は残る。これを一人でも多くの人に知ってもらわなければならない。この日本で、年間3万人以上の人が自殺している。それはよそ事ではない。「言葉」でなく「言」を宣べ伝えねばならない。



 祈りましょう。  どうかヨハネ福音書の終わりの「言」を、一人も欠けることなく共にここで聴くことができますように。

(ヨハネ福音書連続講解説教を開始して、現在一年間が過ぎて11章に至りました。この時連続講解説教の「初心に帰る」ために、この説教を掲載します。)




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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