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2006年 6月11日 「愛の渇きを癒す主」

2006年6月11日 「愛の渇きを癒す主」

  (ヨハネによる福音書 7:53~8:11)

 「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(ヨハネによる福音書 8:7~8)

 今朝与えられました福音書の物語、姦通の女を主イエスがお赦しになられる物語、これは一度読みましたら忘れることが出来ない、美しいと褒め称える物語です。私も確かにその絶賛に値する物語だと思います。しかし教会二千年の歴史の中で、これを読んだ多くの人たちが、この物語の前で、いつも手放しで喜んできたのではありません。むしろ教会はこの物語の前で躊躇逡巡してきた、そのような歴史を作ってきたと言ってよいのです。その証拠こそ、お気づきになられたと思います、この物語が〔 〕で括られていることにあるのです。

 教会やキリスト者は、古くから沢山の文書を残しました。その中から教会は厳選しまして、これこそが教会の基準、キリスト者の規範となるべき神の言葉である、と選びました文書だけを「正典」と呼びました。その正典こそ、今私たちが手にしているこの「聖書」のことです。そうやって選ばれた正典であるヨハネ福音書の中に、この物語が初めて採用されたのはようやく4世紀となってからのことでした。従ってオリジナルのヨハネ福音書の中には、この文書はなかったということが研究ではっきりしていますので、これは正典とは扱えないと〔 〕に入っているのです。

 では、この物語は、4世紀頃の作り話だったのでしょうか。そうではありません。最新の研究でも、この物語は最初期の教会文書(2世紀後半)に既に存在していたとが分かっています。主イエスがこのような行いをなさった、それは事実だったと思います。そしてそれを目撃した人々に、忘れがたい印象を残した。誰よりもここで、罪を赦して頂いた女性自身が、この出来事を集会で証し続け、やがて伝承となる。しかしそれが正典にはついにならなかった。確かに良い話だと思いながら、福音書にはなかなか入れようとしなかった。ようやく入れても〔 〕で括って、いわば距離をおいた扱いをしてきた。どうしてでしょうか。

 正典とは「信仰と生活との誤りなき規範」です。教会は常に秩序ある生き方を大切にしてきました。結婚の秩序・一夫一婦を厳格に守ることは主の御心と信じてきました。旧約・ホセア書においても、死に至るまで「唯一の人」を伴侶として愛し抜くことと「唯一の神」を信じ抜くことは一つのことと理解されました。預言者ホセアは北イスラエルが、唯一の神を棄て他の偶像に行ってしまったことと、妻が不倫をして他の男のもとに行ってしまったことを重ね合わせて慟哭しています。

 真面目な生き方を追求していくことこそ教会である。その教会の力によって、社会を健康にすることが出来る、不必要な混乱、無秩序を避けて平和を造り出すことが出来ると考えられました。明治初期、日本に宣教されたピューリタンの伝統は、そのようなものであり、特に当時の日本に蔓延していた三悪・飲酒、賭博、姦淫に厳しく、当時の長老会記録を見ますと、それを理由に教会籍から除名処分になった者が多くいることが分かります。そうやって教会は、新しい近代国家日本の基礎となろうとしました。

 古代社会において、そのような新しい倫理を築こうとする時、この赦しの物語の存在が邪魔になったと推測されるのです。「これでは罪を犯した者を裁くことは出来なくなるではないか」という思いです。示しがつかない、ということです。この主の赦しに教会が従う、そうなるとこれは個人のことで直ぐ済まなくなる。その教会の判断は社会全体に深い影響を及ぼすようになる。不倫した者、セクハラした者を、教会の長老が咎める。キリスト者としてあるまじき行為ではないか、罰する他はないのだ」と。すると罪を犯した者の方が「逆ギレ」して、この物語を手に取って、イエスの振る舞いを良く読んでみろ。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とある。「イエスの見るところ、お前と俺の違いは紙一重もないのだ。同罪なのだ、長老に俺を裁く資格などないのだ」そう言った時、教会はどうしたらいいのかということです。無秩序を是認するのか、ということです。その時、教会は、この物語を聖書正典に入れることがとうとう出来なくなったということです。

 しかし、今逆ギレした人の言い草を申しましたが、では、この物語をその男は真に読んだのであろうかということです。そしてこの物語をもし正典に収めたら、このような逆ギレ人間を、あるいはそこまでいかなくても、不倫くらい何でもないのだ、イエス様もお許しなのだ、などと軽く考える者を、本当に世の中に増やすことになるのであろうか。教会はちょっと心配しすぎた、と言うよりも、教会もまたこの聖書の言葉をどこかで読み損なったのではないか、私はこの物語を何度も読み、そう思うようになりました。
 
 この姦通の現行犯として捕らえられた女性を、主はいきなり赦されたのではありません。律法学者やファリサイ派の「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(8:5)との問いに、主は「そんなことは何でもないことだよ、誰でもしているのだ」と物わかりの良い現代人のように、直ぐ許してしまわれたなどということはありません。沈黙しておられるのです。

 実は、このファリサイ派の主への問いは罠であって、主を陥れるためであった、イエスが赦しなさいと言えば、律法違反者としてイエスを糾弾することが出来る。律法に従って刑に処せ、と答えれば、余りにも普通でイメージダウンを避けられない。この沈黙とその後のファリサイ派の問いをはぐらかすイエスの言葉は、そういう罠に陥らない「何と深い知恵であることよ」などとこれまで説教されることもありました。しかし私は思います。主はここはどうしたら罠に陥らないで済むだろうかと、逃げ道はどこにあるかと、つまり自分の安全だけのことを、必死で頭の中で計算していた、本当にそういう意味の「沈黙」なのでしょうか。私にはとうていそうは思えません。主にとって、そんなことはどうでもよかったと思います。それよりも、大切なのは、ここに倒れている一人の女性です。この女の絶望です。深い悲しみです。そこに主はひたすら集中しておられるのです。確かにこの女性は罪を犯した。それをごまかすわけにはいかない。罪を曖昧にする時、人は決して立ち直ることはありません。そしてやがて、また同じ愛における過ちを犯し、前以上に無秩序の混沌人生の海で溺れてしまうのです。やがて社会全体の愛の秩序は失われ、それは、最後には国を滅ぼすに至るのでしょう。だから裁かねば駄目です。罰さなければ駄目です。しかしそれなら、さっさと裁けば良いのか。石打の刑にすればこの問題は解決するのか。では、どうしてこの女性はその残酷な刑罰を知っていながら、命がけで姦通をしたのか、ここにまで至る彼女の虚無、孤独、何よりも魂の渇きです、そのことを考えないで、実は愛の問題は永遠に解決することはないでしょう。

 相手の男性はここにいません。さっさと逃げたのかもしれない。逃亡したというより、男性優位の社会の中で工作し「自分はあの女に誘惑されただけです」と言って、起訴を免れたのかもしれません。いつの時代でも法は強者に甘く弱者に厳しい。男を何としてもかばってきたその女性は、しかし最後に「男はこう言っていたぞ」と聞かされた時、世界が音を立てて足許から崩れていくのを感じた。「あの人が私を棄てた?自分を守るために…」、その愛の余りに激しい渇き、この女性はもう石に当たる前に死んでいたと言っても良い。主イエスにとっての問題は、この女がこの渇きから救われることです。つまり生かすということです。復活させると言って良い。一人の人を生かすということは裁きだけでは出来ない。どうしたらよいのか、この泥まみれの女が、少女のような美しさを取り戻すためには、どうしたらよいのか、その問いから生まれる主の沈黙です。そこに主は集中している。それは愛です。愛は深まる時、言葉を失う。

 その沈黙の中で「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」(8:6b)そして、主は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8:7)とだけ言われてから、また同じことをされました。「そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(8:8)地面に主は何か書いておられた。これは多くの人たちが想像力を巡らすところです。そこで多くの人が思い出したのは、旧約・エレミヤ書の言葉です。「またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、あなたを離れる者は土に名をしるされます。それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(17:13/口語訳)

 真に私たちの渇きを癒して下さる唯一の主を棄てた。その主を捨てる時、人は、土に名を記される、罪人として、渇ける者としての名が土に記される。主がしておられたことはそのことなのではないか、と言われるのです。

 そうであれば、最初に主が名を記したのは、その女の名です。次に記したのは、やはり罪を犯してきたことが暴露された律法学者、ファリサイ派の男たちの名であったのではないか。そうやって、等しく、実は唯一の神の愛を見失っているから渇いてしまっている者なのだ。そうであれば、今この礼拝堂に座る私たち一人一人の名も主は土の上に書いておられるのではないか。そうやって、主は結局全人類の名を、沈黙の中で記してしまわれるのではないか。糾弾のために名を記しているのではありません。憐れみの内に名を覚えて下さるためです。○○さん、あなたもまた寂しいのだね。△△さん、あなたもまた渇いているのだね、と。そして主は、その上にかがみこんで下さるのです。身を屈めて下さるのであります。「イエスはかがみ込み、指で地面に…」(8:6)。

 この主の姿から思い出されるのはホセア11:4です。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。」ここにも「かがむ」という言葉がある。北イスラエルは不貞を働いてまるで娼婦のように身を落としました。それがどんなに惨めな場所か。低き場所か神は知っておられる。しかしそこで、神は何と哀れな者よと、天の高みから見下されただけではない。そうではなくて、ご自身が、その低みに降られ、かがみ込まれる。そして養って下さると言われるのであります。御自身がそういう罪人の場所にまで、身を落とされて救おうとされる、ひたむきな神の愛、一途な愛、それをホセアも体験するのです。

 主は、私たちの土に記された名の上にかがみ込んで下さる。かがみ込んで覆って下さる。泥まみれの私たちの名を包んで下さる。罪は裁かれなければならない。それは神に対する裏切りだからです。あってはならないことです。ファリサイ派の人たちも、律法学者も、そして酒を一滴も飲まなかったピューリタンも、石を投げる資格はなかった(ホーソーン『緋文字』)。性における過ちを犯さない者はただ一人もいなかった。若い頃はそんなことはないと思っている。しかし長く生きた者は、皆、自分がその誘惑の前に、どんなに弱い者であったかを知っている。だから「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」(ヨハネ8:9)ました。どうして誘惑に負けたか。寂しいからです。渇いているからです。そうやって罪に堕ちいくのです。石を投げる資格ある者はいない。主は人は皆愛の劣等生であることを知っておられる。だから益々身を屈めておられる。全人類の名の上に身を屈めておられる。私たちの名の上に身を屈めておれる。それが主の十字架です。神の怒りの石つぶてが私たちの名の上に及ぼうとする時、主は私たちを身をもってかばって下さる。そのために主は血だらけになられました。私たちが受けなければならない罪の裁きを、神を棄て隣人を棄てた、私たちの罰を、全て主は代わって十字架で負って下さった。そのことを本当に知った者は、ついに魂の渇きが癒されるのです。私たちは、自分のために愛の故に死んでくれる人を、心の深みでいつも求めている。その一人の人を見出すまでは、私たちの根源的渇きは決して癒されません。何人男を代えても、女を代えても、その者たちはみな同じことであった。「醜い」これに尽きる。自分の身が危なくなればさっさと裏切ったのです。交われば交わる程孤独と渇きは深まる。ただイエス・キリストだけが「私に免じてこの人を赦して下さい」と執り成して下さった。私に代わって鞭打たれ死んで下さった。この醜い私を助けるために、全ての罪を一人で負う男がここにいる。これを知る時、もう私たちは別の愛をうろうろ探し求めなくてもよくなる。愛を得たからです。ついに愛を得たのです。

 主は大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:37~38)

 本当に主にあって渇き癒された者は、隣人を潤すための川が内から流れ出るようになる、ほんの少しかも知れません、しかし愛の水が流れ始める。主のようには出来ません。しかし、もう前の自分とは違うのです。主は最後に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。どうせ許されるのだから、これからもじゃんじゃん罪を犯しなさい、と言われたのではない。教会はそのようになることを恐れてこの物語を〔 〕に入れたと申しました。しかしそんなことは本当はする必要がなかった。主ははっきり言っておられる。「もう罪を犯してはならない!」これが結論です。主は罪を犯さない歩みを踏み出す力をこの女性に与えられた、何も潤いの水も与えずに、やれ渇くな、罪を犯すな、というのではありません。「もうあなたは罪を犯す必要なないね、生ける命の水、愛の水を飲んだのだから。」この時、私たちは変わる。

 ドストエフスキーは言いました。「我々は、どんなことをしても赦される。一人の少女を犯して殺しても赦される。しかし、本当に赦されることを知った者は、そういうことはしないであろう」と。これは本当のことです。



 祈りましょう。  私たちが罪の裁きをうけようとする時、私たちの上にかがみ込んで下さってかばって下さる主イエスキリストの父なる神。もう誰も信じることが出来ないと嘆く夜も、この主の思い起こして渇きを癒すことが出来ますように。そして朝になったら、私たちも愛の水を携えて、孤独な友を訪ねるために立つことが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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