日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2006年 5月28日 「神の言葉を聴く」

2006年5月28日 「神の言葉を聴く」

  (ヨハネによる福音書 7:40~52)

 ヨハネ福音書7:40~52には、主イエスは登場されていません。「この言葉を聞いて…」(ヨハネによる福音書 7:40)とあって、仮庵祭の中で主イエスの御言葉・説教を聞いた人々の態度が記されている箇所です。

 私はこの物語を読んでいて、いつの間にか二枚の絵画を思い出していました。その一枚は、ビュルナンの作品「復活の朝、墓へ急ぐペトロとヨハネ」(オルセー美術館所蔵)です。高久眞一氏がその著「キリスト教名画の楽しみ方」でも紹介している、忘れがたい作品です。そこにも復活の主は描かれていません。二人の弟子たちだけが描かれています。復活の朝、マリアから「墓に主のお身体が見当たりません」と聞いた瞬間、弾かれたように走り出した二人の弟子の姿です。脳裏にはかつて言われた主の御言葉が響き始める。「私は死んで、そして三日目に復活する。」弟子たちは走る。深い恐れと激しい期待の中で。繰り返し申します。ここに復活した主は描かれていません。しかしこの二人が朝焼けに照らされて、全身を傾けて走る姿、まさに「命に向かって走る」姿の向こう側に、既に一人の人の姿が見えるのです。そうです。朝日に輝いて両手を大きく広げて二人を迎えようとしている復活の主のお姿が、私たちにはもう額縁の外に見えてくる、そういう絵です。

 同様に、ヨハネ7:40以下も、御言葉を聞きその光に照らされた群衆の姿だけを記したのに、主イエスの朝日のように輝くお姿が行間にやはり浮かび上がってくる。ある意味で主が登場しないだけに、益々鮮やかに主イエスのお姿が印象付けられると言ってよいかもしれません。そして思いました。伝道とはそういうことではないでしょうか。私たちが主の言葉をここで聞き、生活の場でその御言葉に向かって身を傾けて生きる時、周辺の人々にも主イエスの姿がいつの間にか見えてくるのではないでしょうか。私たちが毎日曜日・小イースターを覚えて、どんなに雨が降っても、この教会に走ってくる。前傾姿勢で走ってくる。通行人は、その私たちが「命に向かって走る」姿の向こう側に、復活の主の姿をもう見ることが出来るのではないでしょうか。

 もう一枚思い出したのは名画は、レンブラントの「病人たちを癒すキリスト」(国立西洋美術館所蔵)と呼ばれる銅版画です。これは宮田光雄先生が丁寧に紹介しています。ここには光を放つイエスのお姿が描かれています。その主を大勢の群衆が取り囲んでいる、そのような絵です。群衆たちの反応は様々です。その様々な主に対する態度によって、イエスとは誰か、本当は誰なのか、ということがやはり浮かび上がってくるのです。

 この銅版画の内で、世の光イエスは、生き生きとした光を放ちます。そしてイエスを求める群衆たちもその暖かい光に照らされて浮かび上がります。しかしその左側に主を冷たく拒絶しているファリサイ派たちも同時に描かれています。この銅版画は、今朝私たちに与えられている福音書の出来事をそのまま絵にしたのではないかと思われるほどです。主の御言葉の光に照らされて「この人は、本当にあの預言者だ」(40)、「メシアだ」(41)と、もう主の真実に接近している者たちが現れている。預言者とは解放者のことです。イエスとは狭い暗いところに押し込められている私たちを光に向けて解放して下さるお方だと告白しているのです。メシアとはキリスト・救い主の意味です。この人々は、そうやって信仰告白の第一歩を踏み出している。ところが、祭司長、ファリサイ派の人々という宗教の専門家たちは、主を決して受け入れようとしませんでした。

 どうしてこのような違いが起こったのでしょうか。信じた者たちは、何かイエス様の神々しさに打たれたとか、奇跡を見たというのではありません。今朝の聖書箇所で大変強調されているのは何よりも「言葉」です。福音書はそれは御言葉を聞いたか、聞かなかったかにあると言っているのです。それによって、人はあのレンブラントの銅版画のように、二つのグループにはっきり峻別されてしまうのです。

 そして私たちもまた、毎週ここで神の言葉を聞いているのです。先週は主が大声を出してまでお語り下さった素晴らしい御言葉を聞きました。「「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(7:37)。この言葉を聞いて時、人は、どういう決断をすべきなのか、それはこの福音書の登場人物の問題だけではなくて、やはりここで神の言葉を聞いた、私たち一人一人に向かって迫ってくる問いとなるのです。あなたは御言葉を受け入れるか、それとも拒絶するのか、という問いです。それは先ほど歌いました讃美歌21-448の歌詞で言えば4節です。「世に生きるその現場で右左決める時に御心にかなう道を選ばせて下さい、主よ」。日本に住む者たち、その多くは、イエスに興味を持っています。それはいろいろな文化現象となって現れてきています。それぞれにイエスについての知識をもって、夥しい人たちが、教会の前を通り、説教題や掲示板の御言葉を見ながら通り過ぎていると思います。しかし殆どの人はここに入って来ません。それが前を通る99%の通行人の選びです。そういう中から一人でも、神の光に向かって走り出して欲しい。「御心にかなう道を選」んで欲しい、それが教会の願いです。その道とは「イエスを主と告白」(448-3節)することです。そのためにどうしたら良いのか、だんだん遡っていく。「たかぶりの心を捨て」(448-2節)ることです。人はたかぶると主の御言葉を正しく聞きとることが出来ないからです。

 レンブラントの銅版画の左端には、イエスの暖かい光をかき消すような、全く別の光、冷たいネオンサインのようは強い光があります。それは、自らを義とするファリサイ派の人たちを包んでいる自己義認の光なのです。その一人は頭をイエスから背け、顔は悪意と皮肉で満ちています。彼はもう自分で光を持っていると思っています。全てに満ち足りていて、もはや新しく神の言葉を聞く耳を持たないのです。あるいは、彼らの一人ですが、背をこちらに向けて威圧するかのように立つ、がっしりした人物が後ろ手の不動の姿勢で立っている。自己充足した永遠の傍観者だと呼ばれます。宮田先生は図像学的にも、レンブラントは周到に表現していると書いていますが、説教者イエスは中央から人々を救いに招くように、右手を差し出していますが、その主の右手から流れ出る線は、あの不動の傍観者と交差して、ぷつりと断ち切られているのです。自分にはもう十分な光があると思っている傲慢こそ、一歩も主に向かって動かないで御言葉の光を断ち切ってしまう理由なのだ、そう福音書に従ってレンブラントは描いているのです。

 しかし、御言葉を本当に聞いた者たちは変わる。ユダヤの最高権力者、祭司長とファリサイ派は、下役(神殿警備兵)にイエスを逮捕するように命じました。ところが、下役たちはイエスを連行しなかったのです。祭司長たちは怒って言いました。「どうして、あの男を連れて来なかったのか」(7:45)と。すると下役たちは答えます。「今まで、あの人のように話した人はいません」(7:46)。ここでもやはり「話=言葉」であります。摩訶不思議な奇跡を見たからというのではありません。ただ御言葉を聞いた、説教を聞いた、それが命令違反の理由です。

 ユダヤの最高権力者の命令に従わない神殿警備兵、そんなことが本当に出来るのでしょうか。かつて日本の軍隊でも、上官の命令は天皇の命令であるとして、無抵抗な敵兵や民間人の殺害を命令されても、服従しないわけにはいかなかったのです。しかしこの下役たちは、主の話を聞いた時、どうしても逮捕することが出来なかったのです。それは主を殺すことが出来なかったということです。権力者たちは殺すために連行を命じのですから。それでは彼らは、どのような御言葉を、聞いたのでしょうか。それは想像ですが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5;44)という言葉に類似した、およそ暴力や殺人、さらに言えば戦争や軍隊を否定するお教えだったのではないでしょうか。

 当時、ユダヤの民は、ローマ帝国の支配からの解放を求めて、武力をもってクーデターを起こすことをいつも狙っていました。ユダヤを救う来るべきメシアとは、だから、イスラエル黄金時代を築いた戦争に強い王・ダビデの子孫でなかればならなかったのです。それがイエスはメシアでないという判断の根拠とすらなりました(7:41b~42)。

 この下役たちは、兵士として、これまで「平和のためだ」と教えられ、残酷な命令にも従ってきたことでしょう。しかしそれが返ってどんなにこの世を悪くしてきたかを悩んでいたかもしれない。その時、主の言葉、殺してはならない、むしろ敵を愛しなさい、との言葉を聞いて、本当にこのような話は今まで聞いたことがないと心を打たれたのではないでしょうか。ある人は、そうやって兵士の務めを放棄した下役たち、その姿に「良心的兵役拒否」の先駆を見ると書いています。そのような読み方も可能かもしれません。

 事実、古代教会において、兵役拒否は主イエスに服従する者として当然であったと、宮田先生は言っています。洗礼を受けた者は、王の王の兵士となるのだから、その命令に絶対服従する者こそキリスト者である。従って、古代教会教父テルトゥリアヌス(150-220)は、軍人の子として生まれながら、軍国主義を徹底的に拒否しました。「主が剣をさやに納めよと命じられた、そこで、どうしてキリスト者が兵士であることが許されるだろうか。兵士が洗礼を受けてキリスト者となるなら、直ちに軍籍を離れなければならない」と言いました。その弟子キプリアヌス(200-258)も同様でした。「殺人は個人が行うときは犯罪となるのに、国家が命じる時には勇敢とされる。キリスト者は人を殺すことは許されない。むしろ、自ら殺されねばならない」と。何と現代的なメッセージでしょうか。
 
 ファリサイ派の人々は、そのように、主イエスに従う者は「律法を知らない」(7:49)からだ、その者は呪われると、言いました。しかしそこに「知の無知」が生じるのです。光をもっていると思うから、真の光を求めないのです。その時、かつて主を密かに訪ねたことがある、同じファリサイ派のニコデモがこう言いました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(7:51)。ニコデモは、ここで、あなたは律法を知っていると言う、しかし我々が律法を本当に知っていると言うのならこのことも分かるだろう。右左の判断をする時、大切なことは、本人から「聞くこと」だと言われているのです。ニコデモはここで、主を信じる者を軽蔑し否定する同僚に対してもっと「イエスの言葉を聞こう」、それから判断しよう、それこそ律法ではないか、とたしなめているのです。

 こうして、今朝の福音書の箇所は、繰り返し三度、御言葉に聞くか聞かないかが、全ての決定的分岐点なのだ、と訴えているのです。個々人の人生のことだけでなく、今私たちの教会は九条の会を作って、まさに初代古代教会の系譜に連なる兵役拒否の道を探しています。やがて国民投票で、国家が右に行くか左へ行くかを定める時が来るかもしれません。しかしその時こそ、私たちは御言葉の光に照らされる場所に立ちたいと願う。



 祈りましょう。  自己充足の光の中で御言葉の光を求めようとしない私たちを、聖霊によって、悔い改めへと導いて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




a:1096 t:2 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional