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2006年 4月16日 「イースター-命の祭-」

2006年4月16日 「イースター - 命の祭 - 」

  (ヨハネによる福音書 6:41~59)

 今朝はイースター・復活際です。昨年の10月9日よりヨハネ福音書を最初から読み始めて、今朝、6:41以下にさしかかりました。この連続講解説教の欠点は、時に教会暦と合わなくなってしまうことです。そのためお祭りの日には連続講解をお休みするというやり方がとられます。しかし今回はそんなことをする必要は少しもありませんでした。むしろ神様が最初から計算されて、今朝、ヨハネ6:41に至るようにして下さったと思えるほどです。真にイースターにふさわしい御言葉が与えられました。

 どこがふさわしいのか、今朗読を聴いた全ての人がお分かりになったと思います。イースターとは「命の祭」です。主イエスが死に打ち勝たられて復活されたことを祝う祭です。死が勝つのではない。命が勝つ。その命の勝利をお祝いするのです。そしてそれはイエス様の身の上に起こったことに止まりません。その主の御復活は、今ここにいる私たちをも、その永遠の命の中に「引き寄せて」下さる力なのです。

 「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)。主イエスを信じる者です。しかしそれはただ頭だけで信じるのではありません。永遠の命のためには、それだけでは足りない、という話に続く。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)。主イエスという「パンを食べるならば」と言われています。信じるとは、パンを食べることと一つのことだと言われるのです。

 どうして、この日の礼拝にこの御言葉はまことにふさわしいと呼んだのか、そのもう一つの理由は、今朝は主の食卓、まさにパンを食べる聖餐がこの前に用意されているからです。しかしまことに残念ですが、まだ洗礼を受けておられないために、この食卓の前に来ることがお出来にならない方がおられます。日本基督教団の教会法で「聖餐にはバプテスマ(洗礼)を受けた信徒があずかる」と定められています。しかしそれは一種の差別だと、フリーと呼びますが、洗礼を受けていない人も、この聖餐を受けることが出来る、そういう教会が増えてきました。しかし私たちの教会はそうは思いません。そのフリーを主張する人たちが、よく取り上げます聖書的根拠が、多くの者がパン五つと魚二匹で満腹した、その奇跡物語です(6:1)。この人たちが皆洗礼を受けていたとは考えられません。少なくても、主イエスに献身した弟子たちだけが、この食事に与ったというのではありません。全員食べたのですから、これは所謂フリー聖餐ではないかということです。主イエスこそフリー聖餐の創始者である、との主張です。

 しかしこの食事の奇跡の物語はハッピーエンドではありません。この後の話では、この奇跡を見た者たちが、主を王とするために夢中になって追いかけ回した。ところがいよいよ、主が、この奇跡が指し示す、本当にお語りになりたかったことを明かされる。それこそ今朝私たちに与えられた6:53以下の御言葉なのです。どうして「本当に」主がお語りになりたかった言葉と分かるかと申しますと、それはとても簡単なことです。主が「はっきり言っておく」(6:53)と言われたからです。これは、原語では「アーメン、アーメン」です。「本当に、本当に」「真実です。真実です」と直訳されます。私たちが祈りの最後に唱える言葉ですが、主はそれをとても大切なことを言われる時、一番先に言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:53~54)

 この最も大切な主のお言葉が語られました直後、多くの者はこれを聞いて言いました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(6:60)「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(6:66)という事態が起こった。まるで潮が引くように、満腹の奇跡に与った夥しい者たちが、イエスの回りから雪崩のように流れ去って行った。そしてはっと気付いて見回した時、もうそこには12人の弟子しか残っていなかったのであります(6:67)。何ということでしょうか。教会にもこういうことが起こるのです。フリー聖餐によって、その深い意味を知らないままそれを受けた未信者も、やがてその真実を知る時が来ます。その時、私たちが食べているのは、ただのパンとジュースではない。主イエスの肉を食べ、血を飲むとことだったと知った時結局「実にひどい話だ」(6:50)と去っていくのではないでしょうか。ですから、教会は、主の御言葉にアーメンと応え、聖餐によって、自分に永遠の命が与えられるのだと信じ、洗礼を受けてから、聖餐に与るべきだと考えるのです。

 今朝、報告しなければならないのは、私たちとずっとこの命のパンに与る生活をしてきた五味好枝姉が、この朝、死去されたことです。そうであれば、イースターの朝早く、命ではなく死が来たのでしょうか。そうではありません。主イエスははっきり言われた。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:54)。そうであれば、五味好枝姉は永遠に生きる。どうしてか。この人はイースター(1980年3月30日)に受洗されました。それ以来、この教会でパンを食べてきたからです。主イエスというパンを食べてきた。だから永遠に生き、そして終わりの日に復活するのです。どうしてそんなことが言えるのか。私たちはよく説明できません。私たちも悪魔の誘惑を受けると、主の食卓の前に立ち、小さな食パンのかけらを見ながら、これがいったい何の役にたつのか、と疑うのです。そのパンの小ささに躓くのです。その誘惑に耐えさせるのは主への信頼です。主イエスが「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)と言われたが故に信じるのです。

 主は言われました。「わたしは天から降って来たパンである。」(6:41a)それを聞いた時、ユダヤ人たちは「つぶやき始め」(41b)と書いてあります。主が言われた「アーメン、アーメン」に対して「アーメン」と唱和出来ない。主の「アーメン」に対してつぶやきをもって答えてしまった。あんなどこにでもいる父と母をもつイエスを食べ飲んで、どうして我々に永遠の命が与えられるのか。どうして復活出来るのか。人の目に見えるイエスの小ささの故に疑ったのです。その疑いを振り払う力こそ信頼の心です。まだ良く理解出来ないことはある、主イエスの謎も全て今解けてはいないけれども、主を信頼し、もうつぶやくのを止めて、主の「永遠の命はここにある」との言葉を信じて洗礼を受ける。その時、神は御手をもって、私たちを主の食卓の前に「引き寄せてくださる」(6:44)のであります。
 
 洗礼を受け、聖餐に与ることが出来る、そのためには、確かに学ぶことも必要でしょう。教会もそのような受洗前教育を大切にしています。しかしよく学んだから洗礼、聖餐を受ける資格を得たなどということではありません。あるいは、キリスト者として徳が高いとか、誤解を恐れず言えば信仰深いから、聖餐の前に出る資格があるなどということはありません。むしろ話は逆です。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(6:53)と主は言われたのです。聖餐を受けるとは、私たちが御体と血潮なしに生きることが出来ないということを認めたということです。自分が余りにも弱い罪人であることを知り、だからこの命のパンであるキリストを食べなければ、死ぬ他はないと覚えたからです。その意味で、主イエスを食べなくても元気な人たちの方がより強い、強靱であると言わなければならない。私たちは罪の故に自分は死んでいると気付いた者たちです。そこから甦りたいと願ったのです。イースターの朝復活して下さった主イエスにしがみついて甦らせて欲しい、ただそう願ったのです。旧メソジストの伝統では、聖餐の時、人は主の食卓の前に歩み寄ります。それはまさに、この主の食卓の前に「引き寄せ」(6:44)られた姿を表しているのではないでしょうか。

 どうして、このような小さなパン、小さな杯を飲んで復活が起こるのか。主が言われたからです。神学的に教会は出来るだけ説明しようとします。しかし最後にはこの主に信頼するしかないのです。信仰とは信頼です。主イエスに対する信頼です。このお方についていけば大丈夫なのだ、このお方の言葉だから受け入れる、という信頼です。

 井上良雄先生はこうドストエフスキーの言葉を引用しています。「私は、たとえイエスのもとに真理がなくても、イエスを愛するだろう。」イエスが私たちに真理を与えたり、真理を教えてくれなくても、私はイエスを愛する、と言うのです。極端な言い方です。主は真理を与えて下さるお方です。しかしドストエフスキーは、この極端な言い方を通して、信仰の神髄がどこにあるかを語っているのです。イエス・キリストなしに生きられない、その思いが、他の何を失っても、例え真理さえも失っても、主イエスがおられれば命を得る、この確信が揺るがぬ信頼のこの言葉を生んでいるのです。

 ただ今から洗礼式、聖餐が挙行されます。つぶやきを捨てて、主の言葉にアーメンと心から唱和しつつこの恵みの座に引き寄せれる喜びを味わいましょう。



 祈りましょう。  五味好枝姉の死の知らせの中のイースター礼拝であります。しかし五味姉は滅んだのではなくて、主のパンを食べたが故に、永遠の命を得られたことを信じることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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