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2006年 4月 2日 「四月、目指す地に向かって」

2006年4月2日 「四月、目指す地に向かって」

  (ヨハネによる福音書 6:16~21)

 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。(ヨハネによる福音書 6:21)

 今朝は4月2日の主日、新しい年度の始まりの日です。満開の桜の下で、入学式や入社式が至るところで開かれています。文字通り華やかな季節の到来ということですが、しかし一方、この季節は転機の時であり、挫折を思い知らされる時でもあります。望んではいなかった所へ、この4月から毎日通わなければならない。ずっと準備していた結果が、思ったようにはいかず、期待はずれの4月がこうして始まる。憂鬱な春です。あるいは愛していた場所から追い払われ、ついに4月となる。進むべき道がもう見えなくなってしまった。「目指す地」(6:21)という言葉があります。そこに着かない、どうしても手が届かない。そのような苦しみの春を迎えた人もいると思います。何よりも、私たちがこの「春の苦しみ」と聞いた時に、思い出すのは、今、レント40日間の季節を歩んでいるということです。主の御苦しみを思う40日、その主の苦しみに自らの苦しみを重ね合わせる春であるかもしれません。

 最近親しくなったある友人から昨日メールが来ました。「受難節・レントに起きた、この一連の出来事、それに対して、直接何もしなかった私自身の態度や、犯した罪を悔いつつ歩みます。」そのメールを受けた時、私は丁度、ヨハネ福音書6:16~17を読んでいました。夕方になって弟子たちは湖の向こう岸の町カファルナウムに船を漕ぎ出しました。不思議なことに、マルコの並行記事は、目的地を「ベトサイダ」と書いています。何故、ヨハネでは目的地が変わってしまったのか。ある注解者は「カファルナウムへの偏愛」と書いている。特別な愛です。偏るほどの愛です。カファルナウムはイエス様の主要な活動地だった、それがその理由でしょうか。いえ、理由より何よりも、愛が先にあるのです。ただ愛している、その理由だけで、偏愛の目指す地へ舟を進めたのです。私たちにも身に覚えがある感情です。

 夕方に漕ぎ出しました。「既に暗くなっていた」(6:17)と書かれてあります。航路が見えないのです。迷うのです。先ほどのこのような闇に捉えられる経験をした友に返事を書きました。「レントの40日間、しかしそこに主日が含まれていないように、受難の闇のただなかにも光の日は何度も訪れています。」そうやって私たちは励まし合って今朝を迎えました。

 ここで教会暦について説明しますと、今年のレントは3月1日の灰の水曜日から始まりました。そして4月15日まで続きます。すると46日間もある。「レント40日」と言われるので、常々おかしいと思っていた人もいるかもしれません。それは、レント中の6回の主日をその40日に加えないからです。日曜は常に復活記念日、小イースターだからです。長いレントの最中にあっても、光の朝・主日は繰り返し来る。目指す地が見えない長い夜も、しかしそのただ中に光は来る。その主の光を見るために、私たちは今この礼拝の席に座るのです。

 この福音書の物語は、目指す地を失う人間の絶望感の深さを描いています。それがどこに表れているか、直ぐにお分かりになると思います。先ず、今言いましたように6:17「既に暗く」とある。そして18「強い風が吹き、湖は荒れ始めていた」。19「25ないし30スタディオン」の沖での出来事とあります。これはだいたい5~6㎞で、それは丁度この湖の中間であると言おうとしているのかもしれません。これもまた私たちが4月に経験することではないでしょうか。飛躍しようと思う。新しい世界に飛び込む。しかしそこで溺れてしまうのです。帰りたい、出てきた場所の方がまだましだと気付いた時は、もう帰り道の扉は閉められている。そして17節に決定的とも言える言葉があります。「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」信仰者の絶望はここで極まると言わねばなりません。

 夜。湖のど真ん中。嵐の海。そしてイエスが来て下さるわけがない場所・人間は歩けない水の上。そこに自分たちはついに放置された。「舟板一枚の下は地獄」の頼りなさを弟子たちがひしひしと感じている、という意味です。その確信が、19節で、主イエスが湖の上を歩いて舟に近づかれた時、喜ぶどこではない、益々恐れた。イエスがこの場所に来て下さるなど全く信じていなかったからです。主の御力を信じていなかった。だから他の福音書にあるように幽霊だと思った。

 夜の荒れた湖の上を歩くイエス。これは単なる奇跡のことを言っているのではありません。ここにはだけは絶対に主は来ない。来ることが能力的にも出来ない。だから、ここには絶対に救いは来ない。そう私たちが思う所、何か来たら幽霊としか思えない。この絶望の岩の如き確信の場。にもかかわらず、キリストは来る。歩いて来る。闇の中も。水の上も。イエスは全能の神だからであります。

 ヨハネ福音書を生み出したヨハネ教会の人びとはこういう物語を書きながら、何を思ったのでしょうか。最初、後にヨハネ教会を創立するこの主イエスを信じるユダヤ人たちは、ユダヤ教の会堂で共に礼拝を守っていた。しかしその会堂で、イエスをキリストと信じる者は異端とされた。イエスを神とすることは、神を汚すことであった。そこで会堂を去り信仰の自由を求めて旅立ったと思う。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教で迫害されない。しかしキリスト教会は認められていません。激しい迫害の嵐に翻弄される。結局このローマ帝国による迫害は300年続いた。その歴史の中で、多くの信者たちが思ったと思う。会堂に戻りたいと、あそこなら、確かに大声で「イエスは神なり」とは言えない、でも預言者としては尊敬することは許されるかもしれない、よく考えたらそれでよかったではないか。それでもイエスの倫理、神学は語ることが出来る、それで十分だったではないか。そうやってユダヤ会堂の中で、イエスを重んじる道もあった、と。しかしそれを万が一でもしたら、教会は永遠に、目指す地を見失うのです。いえ、それは全人類が、福音、神の国という人類の到達点を失うことを意味していた。

 思想、観念ではない。生ける主御自身が、水(絶望)を超えて人間と共にいて下さる、その救いのリアリティーを人類は永遠に失う。これはサタンの誘惑です。戻ること許されません。だから「25ないし30スタディオン」なのです。教会は命の不安に怯えながら、地下に潜り、墳墓の奥に会堂を持ちました。まさに闇に捉えられる生活です。やがて、もうこんな所に主イエスは来て下さるわけがないと、多くの者たちが躓き教会を去った、その痛切な挫折の痕跡も、このヨハネ福音書から読み取ることが出来ると言われるのです。

 しかしそのような恐れる人びとに、主イエスは言われました。「わたしだ。恐れることはない」(6:20)。いずれの注解書を読んでも、この「わたしだ」、という言葉に注目しています。これは旧約聖書・出エジプト3:14において、モーセが始めてホレブ山で真の神と出会う。その時、神は、モーセの求めに答えて御自身の名を教えて下さる。それがこの言葉です。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」この言葉「わたしはある」、これは旧約聖書の言葉で書かれてありますが、これを、ギリシヤ語で翻訳した聖書があります。その時の翻訳のギリシャ語の「わたしはある」と全く同じ言葉が、この時、福音書で主イエスが使われた、6:20「わたしだ」(エゴー・エイミ)と同じだそうです。従ってここで言われていることは、主御自身が、このホレブ山で現れた神と等しいお方である、イエスが神であられることを明らかにする「わたしだ」という言葉なのです。

 御名は「わたしはある。わたしはあるという者だ」、その意味は「わたしは本当にいるのです。本当にあなたと共にいる神なのです」ということです。迫害の嵐の中で、常夜の闇の墳墓教会で、恐れの虜になる。疑いの黒雲がわき起こってくる。イエスはここにだけは絶対に来れない。しかしその誘惑のただ中に、主は入り込んで来て「わたしはある。わたしはいる。本当にいるのです。」そういう名の全能の神であるが故に、水をも超えて「わたしはあなたと共にいる」そう言って下さるのです。

 その主イエスの言葉によって、弟子たちの前から疑いの黒雲吹き飛ばされた。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(6:21)。主イエスを自らの魂に、思想ではなく、思い出でなく、「全能の神」「生ける神」「本当にいるお方」として迎え入れた時、目指す地に着いたのです。特別に愛する地についたのです。ついに愛を得たのであります。そういう物語です。
 
 宗教改革者カルヴァンが書いたジュネーブ教会信仰問答の問一はこうです。「人生の主の目的は何ですか」、答「神を知ることです」。これだけです。人生の目的、何故私たちが生まれてきたのか。何故私たちが人生という苦しい航海を続けているのか。その理由、目指す地は、神を知るためなのです。イエスが神であられる、それを受け入れることが真に出来る時、私たちが生まれてきた意味が全うされるのです。

 皆様もまた、この年度、それぞれに目指す地を求めて出発されたことと思います。しかし究極の人生の目的地である神を知ること、これを求めて礼拝を一週一週重ねていきたい。試練の夜、いつまで続くのかと呻くような長い夜にも、繰り返し日曜日の朝はやって来る。小イースター、常にその日は光の日、命の日です。レントではありません。そこで神である全能の主と出会う。それが暗い長い苦しみの季節を耐えさせる、唯一の力なのです。ただ今からこの年度最初の聖餐に与ります。思想、観念ではなく、生ける神・主御自身の御体と血潮を体一杯に受け入れ、それによって恐れを捨て、命甦る経験を致しましょう。



 祈りましょう。  2006年度の西片町教会の航海、何が起こるか分かりません。しかし主は来られる。どのような絶望の闇の海の上にも。この事実を信じ抜く一年として下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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