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2006年 2月26日 「作り替えられたベトザタの池」

2006年2月26日 「作り替えられたベトザタの池」

  (ヨハネによる福音書5:1~18)

 都エルサレムの羊の門の傍らにベトザタの池(口語訳「ベテスダの池」)がありました。そこは広く知られている癒しの奇跡の場でした。5:3b~4節が抜けていますが、そこには、この池の説明が書かれてありました。一番最初のオリジナルの福音書では、その当時、誰でも知っていることだったので、書かなかったのでしょう。しかし後の時代にこの福音書を読んだ人は、この池のいわれが分からなくなってしまったので、ある写本家が配慮しまして、その説明が福音書の中に挿入されてしまった。つまり元の福音書にはない言葉が聖書に入り込んでしまった、そのように学者たちが判断しましたのが以下の言葉です。

  「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」

 聖書の言葉を後の人が書き加えたり削ったりすることは厳禁です。しかしこの場合、私たちにはこの言葉があることで、本当に助かったわけです。病人がイエス様に以下のお答えをした意味がよく分かるのです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」(5:7)

 この池には五つの回廊があって、3節に記されているような、医者に見放された患者たちが、最後の手段として大勢横たわっていました。その池は不治の病を癒す力を持つ。でもいつもというのではない。時々天使が池に降りて来て水が動かす。その時一番に水に入る者は癒されると言うのです。しかしその信心は、一見希望のようであって、この病人たちを逆にひどく縛り付けることとなりました。何故なら、水はいつ動くか分からないのです。その時一番に入らなければならない。それは病人たちにどのような緊張、ストレスを日々与えることでしょうか。一刻も安んじることが出来ない。そして水が動く度に見られるのは、回廊の修羅場です。押しのけ合って、我先に水に向かう人びとの目を背けたくなるような姿でした。

 祭のために都に巡礼されたイエス様がその回廊で御覧になった人は「三十八年も病気で苦しんでいる人」(5:5)とありますが、この38年という言葉から注解者が連想するのは申命記2:14の言葉です。「カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで、三十八年かかった。」イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出して、約束の地カナンを目指して荒野の旅を致します。2年ほどで、カデシュ・バルネアに着く。その地からカナンに偵察隊を派遣した場所ですから、約束の地は近い。しかし、民は約束の地・カナンが目の前にありながら、国境「ゼレド川」を越えられなかった。その期間こそ「38年」です。それと似てこの病人が、救いの水は目の前にありながら、イスラエル同様にその水を越えられなかった。その思わせぶりで期待はずれの荒野の38年を過ごしたのが、このベトザタの池に横たわる男であった、そう暗示されるのです。

 それとの関連で、この時主が巡礼されたお祭とは、秋の仮庵の祭ではなかったかと言う人もあります。「 あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。…これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである」(レビ記23:42~43)。イスラエルの荒野放浪時代に、民は「仮庵」に住む他はなかった。この男もまさにこの回廊が荒野の仮庵になってしまった。

 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」(5:7a)。この人には、彼の病気を共に担い助けてくれる隣人がいませんでした。しかも「わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行く」(5:7b)という荒れ果てた世界でした。結局、人は皆敵でしかなかった。普段はそれなりに慰め合っていたかもしれません。しかしいざ水が動いた瞬間、本性が現れる。人間の隠されていた真の姿が露わになる。その本性を夏目漱石は「エゴイズム」と呼びました。「人間は誰でもいざという間際に悪人になる」(『こゝこ』より)。こうして、最も励まし合い、慰め合うことの必要な社会にも、先を争う競争原理が支配していたのです。

 競争とは「白い巨塔」に見られるような、トップエリートの間だけに見られる話ではありません。弱者の間にも全く同じように見られるのです。名もないような小さな組織の中ですら、人は小さな権力を奪い合って生きているのです。ホームレスの間ですら、決して仲間に漏らさない秘密の場所がある。自分だけが食物を得るためなのだそうです。人は上から下まで、誰もが競争とエゴイズムに支配されていることが分かる。それこそが荒野なのではないでしょうか。病気が荒野を作り出しているのではないのです。罪(エゴイズム)が荒野を作り出しているのです。

 ある説教者はこの「わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(5:7b)という痛切な言葉を読んだ後、ぽつんとサルトルの言葉を引用しています。「地獄とは、他人のことである。」人間関係こそ地獄なのです。人間関係こそ砂漠なのです。救いの場にすら、この競争原理は入り込む。「救済」とは最も良きものですが、それを根本から腐食してしまう「競争」という病原菌が、その「救済」のただ中に(こそ)侵入してくる。そして人を勝ち組から負け組までランク付けをする。それに連れて、足の引っ張り合いと妬みが起こる。救いの場、それは「宗教の場」です。最も人が優しくなるはずの場で、しかしそこでこの上なき激しい争いが起こる。まことに逆説的であります。しかし罪とはこのような逆説を生み出すのです。最も良きものを、最悪のものに反転する悪魔的力、それが
罪(エゴイズム)なのです。

 主イエスがこの病人をお癒し下さった後、5:9bからは、主とユダヤ人との間で安息日論争が起こっています。律法では安息日に仕事をしてはいけない。だから癒されて床を担いだ元病人も、癒したイエス様も安息日律法を破った違反者となった。では、どうして律法違反をしてはならいのか。それは救われないからです。神様は律法を守る人しか救わないというのが律法主義でした。この律法主義から起こることは、結局、競争です。律法主義で一番になった者が、神に最も近い最上層におり、その律法遵守の生活が緩むにつれて、神様から遠くなっていくのです。そして、罪人、徴税人などは、存在自体が律法違反であって、もはや救われることなき宗教的最下層が存在する。病人もまた因果応報の教理から、簡単には救われない存在でした。そのような序列の理解に倣って、このベトザタの回廊で、一発逆転の最後の競争が、しかも最も激しい競争が、残されていたのです。律法主義とはこういう世界を生み出すのです。そのような「五つの回廊」に主が入って行かれたとは、どういうことでしょうか。

 それはまさに、福音をもって、律法主義の競争を打ち壊すためではないでしょうか。この「五つの回廊」も暗示的でして、それは旧約聖書の「モーセ五書」(律法の書)を連想させると言われます。主はその「五つの回廊」を前に、挑戦しておられる。「律法ではない、福音によって」と。だから主イエスは、私が水を動かして、そこにあなたを一番に入れてあげようと、そのような癒しを行われたのではありません。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(5:8)と御言葉のみによる癒しを行われました。つまり池を無視されたのです。水が動こうと動くまいと、一番先に入ろうと入るまいと、そのようなことは、福音の前に、何の関係なかったのです。主が来て下さった。安息日に「もう競争はいらない」と真の安息を与えるために、病人の所に来て下さった。その時、律法主義の回廊が崩れ始めるのです。

 関谷定夫先生が『聖都エルサレム 5000年の歴史』という大著を出版されました。私はこの書を、水曜日の列王記下の研究でも、このヨハネ福音書の研究でも必読の書としていますが、このベトザタの池についても大変詳細に記されています。それによると、後の時代の古シリア語写本「クレトン写本」ではヨハネ5:2はこう書き換えられているそうです。「エルサレムにはアラム語で、ベート・ヘスダーと呼ばれるバプテストリ(洗礼槽)があった」。それを引用して関谷先生は、これは、初期キリスト教時代にこの池がバプテスマ用に使用されたことを意味している、そう書いています。使徒言行録2:41には、ペンテコステの日、聖霊に満たされて使徒ペトロが説教したところ、3000人が悔い改めて洗礼を受けたとあります。そのバプテスマとは、このベトザタの池でなされた可能性がある、とも書かれてある。その時はもう一番に入った一人のみが救われるんじゃない。

 3000人が今度は、押しのけ合うどころか、逆です。誘い合って、手と手を取り合って、助け合いながら池に入っていく。その情景を見た人は圧倒されたのではないでしょうか。これまでは怒号が飛び交う中、獣のように病人が、水に飛び込むシーンばかり見せられていた。しかし同じ池で、今人びとは穏やかに優雅にしずしずと水に入っていく。まさに安息と静けさがここを支配している。かくして、池の意味がすっかり変わってしまった。「他人は地獄である」から「他人は天国である」へ。「競争社会のストレス」から「安息」へ。関谷先生は、やがてこの池の上に教会が建った、それは、「足の不自由な男の教会」という名前だったと書いています。とうとうこの律法主義の池を福音の教会が覆い包んでしまったという事実の指摘です。

 現在日本のベトザタの池も、教会が覆い尽くす時、イザヤの預言が成就するのです。 「そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」(35:6)


 祈りましょう。  主よ、教会が現在のベトザタの池を覆い尽くし、変革し、そこから溢れ出る洗礼の水をもって、人びとを安息の中に招くことが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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