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2006年 1月29日 「渇かない水-依存症からの解放-」

2006年1月29日 「渇かない水-依存症からの解放-」

  (ヨハネによる福音書4:13~14)

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」(ヨハネ福音書4:13~14)

 私たちの教会では、2005年5月からAAのミーティング会場として、会堂を毎週お貸ししています。この会はアルコール依存症に病む人たちが、そこからの回復を求めて支え合う会です。また、私は薬物依存リハビリセンター「DARC」(ダルク)を取材をしたことがありました。私はこれらAAやダルクとの出会いによって、この「依存症」の問題は、私たちに極めて身近な問題だと教えられました。何百万人もの人々が依存症という病にかかっている。しかし、そのことだけで、この問題を身近な問題と呼んだのでもありません。「依存」とは、魂に渇きと寂しさを感じている人間が、その空虚を何かで埋めようとする行為なのだと私は学びました。そうであれば、私たち誰にでも思い当たるところがあるのではないでしょうか。依存とは「寂しさ病」とも呼ばれます。その魂の空虚さを埋めるものは、決してアルコールとクスリだけではありません。

 様々な依存症が存在します。ニコチン、仕事、競争、ギャンブル、異性依存症、そして過食も依存の一つですが、まさに魂の空洞を食べ物で充たそうとするあり方でしょう。その他、ショッピング、競争、金儲け、カルトへの入信など「依存者」は無数にいるのです。それでは、それらが依存症である「しるし」とは何でしょうか。それこそ、あるスナック菓子の宣伝のように「止められない、とまらない」ということにあるのです。

 ダルク設立者K氏の場合、絶え間ないトラブルで揺れる家庭で緊張を強いられた幼児体験がありました。両親の離婚後は、父がいない「寂しさ」を抱え込んだまま育ちました。幼児期からの不安、寂しさ、自分は必要とされていないという疎外感、劣等感を紛らわすために、彼は覚醒剤にのめり込んでいったのです。

 覚醒剤は、魂の渇きを一瞬、劇的に癒すかに見える。「吸った瞬間、頭と体に爆弾のようにドン!と来た。その瞬間のリアルな衝撃は忘れられない。暑くもなければ寒くもない。痛くもなければかゆくもない。無防備で無条件の気持ちよさだ。安堵感が全身に広がり、解放感で充たされる。生きることのややこしさは、雲の上にすっと消えていった。」しかし言うまでもないことです。その快感は数時間でジェットコースターのように急激に失速し、直ぐ次が欲しくなる。「やめられない、止まらない」無限地獄が始まります。金も仕事も家庭も人としての尊厳も、全てを失っても止められないのです。

 「注射する前に、必ず自分に言い聞かせる。これ一本だけだ。これ一本で終わりにしよう。もう絶対これ以上やることはしないぞ。これが最後の一本だって」。そう言い聞かせながら、一日に五度も六度も注射針を腕に刺した。

 主イエスが井戸端で出会って下さったサマリアの女は、おそらく男性依存症(あるいは性依存症)の女性だったのではないでしょうか。彼女は5人の夫がこれまでいて、今は夫ではない男と同棲しているのです。その女に主は言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」(ヨハネ福音書4:13)と。

 では、どうしたら、このまた渇く水・覚醒剤に代表される依存状態、「止められないとまらない」から私たちは救われるのでしょうか。多くの経験者は人間の意志力では難しい、と言います。人間の努力、頑張り、理性ではどうにも解決しないと言うのです。その理由を、ある依存者は、アルコールやクスリ依存を「霊的病気」だからと呼びました。これは宗教的病気なのだ、と。

 そこで私が思い出しますのは、聖書には人間を三つの部分として捕らえる人間理解があるということです。 パウロは「霊と魂(心)と体」(テサロニケの信徒への手紙一5:23)〈プニューマ、プシュケー、ソーマ〉と言いました。「心と体」以外にもう一つ人間を作っている部分がある。それは「霊」だと言われているのです。

 この「霊」の部分を言い換えて「宗教性」と言っても良いかもしれません。神を感じることの出来る部分です。あるいは、この人間の霊の部分に、神の霊、聖霊を迎入れることが出来る。そういう霊的器が、人間には、心と体とは別に存在するという考え方です。しかしこの三つの部分の内、私たちがその存在を一番忘れがちな「霊」が、聖書ではトップに出てくる、それは人生の決め手を握るものこそ、この「霊」の部分であると言われているのではないでしょうか。
 
 人間創造の神話にはこうもあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)。

 神様は人間に命の息を吹き入れられたのです。そうであれば、その息(聖霊)はどこへ入ったのでしょうか。人間の第三の部分、霊の器を充たしたのではないでしょうか。創世記によれば、神の霊(息)を納める霊的器が、人間には最初から神様によって造られているということです。霊に聖霊が充たされる時、私たちの霊的渇きは癒されるのです。そうであれば、その「霊」の器に入るべきものが入らなかったらどうなるでしょうか。神の愛や恵みが充たされないで、そこが空洞のままであったら、どうなるのでしょうか。寂しくて寂しくて仕方なくなるのです。生きている気がしないのです。そして何かそこを埋めるものを必死で探し始めるのです。そして、その空虚な部分に、隙があれば「はまり込もう」とする「悪霊」がこの世には余りにも多く跋扈しているのであります。
 
 そこで話を戻しますと、麻薬に何故人は取り付かれるかと言うと、それは脳に作用するからと言われています。脳の中では様々な化合物質が生産されています。それが互いに複雑に影響を及ぼしあいながら「脳」という複雑なシステムを動かしています。ドーパミンやアドレナリンといった物質もその中の一つです。これらが所定の脳内「レセプター」(鍵穴)にはまり込むことによって情報が伝えられ、神経が興奮したり血圧が上昇したりするそうです。

 これらと全く関わりがないのに、たまたま構造の似た分子が存在します。例えば、幻覚剤LSDはドーパミンに大変似た構造を持っているそうです。これらを人間が摂取すると、本来ドーパミンやアドレナリンが入るべき鍵穴(レセプター)にこれらの分子が入り込み情報伝達を混乱させると、人は強烈な幻覚を見ることになるそうです。また、麻薬、覚醒剤といった化合物も、こうした脳内レセプターと結合する化合物群です。モルヒネは、正常な「脳内麻薬」と呼ばれる生成物質が結合する場所にはまり込むのが特徴です。モルヒネは脳内のレセプターを騙して侵入し、かりそめの、しかし強烈な快感を与える化合物なのです。しかしそれは偽物であるために、禁断症状など激しい害悪をもたらすのです。

 この麻薬依存のメカニズムに似て、私たちの霊的レセプター(鍵穴・器)に、真の聖霊がはまらなければならない時に、形が類似しているが故に入り込んでしまう悪霊が存在するのです。それこそ、依存なのではないでしょうか。それは一時、宗教的、霊的、救済を劇的に与え、深い安堵感を人に与えるように見えて、しかし、やがて全てを滅ぼしてしまう、悪霊に他なりません。後にカトリック教会の信仰をもたれたK氏は振り返ります。「覚醒剤は当時の自分にとって神そのものでした。何故なら私は覚醒剤こそ、自分の全ての問題を解決してくれると信じていたのですから。」

 止められないとまらない、異性依存症のサマリアの女は、切実に主イエスに願いました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ福音書4:15)。これは祈りです。彼女は真の神の助けを、主イエスの救いを祈り求めたのです。この瞬間この女性に光が差すのです。「永遠に渇かない水をください」。彼女は全身全霊を傾けるようにして求めました。その人生の中で、飲んでも飲んでも、直ぐ渇く水によって、悩み抜いてきたからです。この渇きと寂しさを癒すのは主イエスが与えて下さる霊なる水以外にはありません。

 薬物依存症だったAさんは、ダルクの快復プログラムの中で、不意に胸の奥から、切ないものがこみ上げてくる経験をしたそうです。「ああ、もう何もいらない。失うものは何もないんだ。」万感を込めた吐息がその時吐き出されたと証しています。そして全てが吐き出され胸が空っぽになったと思われた瞬間、待ち構えたように何かが入り込んでくるのを彼は実感しました。そして「もう大丈夫」とはっきり感じたのでです。彼は、この経験を、魂の中の悪霊がハイヤー・パワー(AAやダルクは宗教的超越的存在をこう呼ぶ)に入れ替わった瞬間の出来事だと書いています。

 あるいは、カルトからようやく脱会した人が、その後ほっておかれて、心の健康を損ね、社会復帰出来ない現実が多く現れています。またカルト・サーフィンと呼んで、カルトを次から次へと乗り移っていくそういう問題行動を起こす人もいます。それは、カルトから脱会した人の霊の部分が未だ空洞のままだからではないでしょうか。

 主イエスはこうも教えて下さいました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(マタイ12:43~45)

 そうであれば、カルトを脱会した、それで万事解決ではなくて、その人の霊の部分を充たす、真実なる生きがいを一緒に探すことも大切なことだと思います。私の知っているある男性は、カルトを脱会した後、教会に導かれて洗礼を受けました。その男性は、余りに激しいカルト被害を受けたために、脱会後も回復しないのではないかと思われるような人でした。しかし彼は、関係者が目を見張るような回復を見せたのです。その理由を彼は、自分が脱会後、キリストと出会い洗礼を受けることが出来たことに尽きると述懐していました。

 主イエスの与えて下さる洗礼「生きた水」(4:10)が注がれる時、私たちの空虚な魂は充たされます。その時もう別の何かをうろうろ探し回らなくてよくなるのです。神の愛でいっぱいの魂には、他のものが入り込む余地はもはやありません。


 祈りましょう。  私たちの教会が「神の井戸」として、多くの人びとに命の水を分け与えることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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