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2005年 7月31日 「人間の混乱、神の摂理」

2005年7月31日 「人間の混乱、神の摂理」

  (使徒言行録23:11~35)

 異邦人のための伝道者・使徒パウロは、その存在そのものが、ユダヤ民族主義者たちの激しい憎悪の対象でした。神の御前に誰もが平等であるとする、パウロの宣べ伝える福音が、ユダヤ民族主義者の自負と誇りを刺激し、いたく傷つけたからです。

 その怒りは、神殿前でのパウロの逮捕の時も、また翌日のユダヤ最高法院における裁判においても、パウロを処刑することが出来なかった苛立ちと相まって、爆発寸前に膨れあがっていました。そのユダヤ人たちの激しい怒りは、暗殺の陰謀となったと、使徒言行録23:12に記されています。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。」パウロ暗殺が成るまで、飲食を断つと誓いを立てた者たちが40人以上がいたのです。不退転の決意の表明です。

 そこで彼らは、ユダヤ最高法院を構成する祭司長、長老たちと陰謀を巡らします。暗殺のためには、ローマ帝国・エルサレム治安部隊によって保護されているパウロを、取り調べを口実に外に出させる。その護送の途中、彼を拉致し殺害する。そういう周到な計画を練った。人間がその熱意と知恵と根回しとを尽くしての計画です。「絶対に暗殺せねばならな!」彼らは、大声を上げたことでしょう。

 しかしこの人間の「ねばならない」に対して、神の「ねばならない」が立ち上がってくる、これがこの使徒言行録の物語です。「ローマでも証ししなければならない」(23:11)。パウロは都ローマで伝道しなければならない。その神の「ねばならない」との救いの計画が、人間の「ねばならない」との悪しき計画の上で動いているのであります。

 創世記1:2の天地創造物語にこういう言葉がありました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」ここには世界の秩序を阻む、否定的な力が漲っています。その言葉は、「混沌」、「闇」、「淵」、そして「水」(海)と表現されています。水はここでは混沌と同義の人を滅ぼす力・溺れさす力、混乱状態を表しています。しかし創世記記者は、そこで世界の闇を語りながら、見えるものはそれだけではなかった。混沌の海、それだけではなかった。その水の面を神の霊が動いていた、と語るのです。海の上には風が吹く。それと似て、原始の混沌の海の上に、神の霊が吹いている。この世界は、混乱と無秩序と殺意だけの世界ではない。その上を神の風が、神の秩序の風が吹いている世界なのだ、と。

 そこで自分でも知らない内に、聖霊の風に押し出され動き始めた者がいたと使徒言行録は書くのです。「しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた」(23:16)。パウロの親族について聖書が初めて口を開く箇所です。パウロの姉妹の子、つまり甥です。この若者が、この陰謀を聞き込み、兵営のパウロに伝えたのです。この甥とは誰か分かりません。またどうやってこの極秘の陰謀を彼が知ることになったかも分かりません。

 作家ウォルター・ワンゲリンが『小説「聖書」』を書いています。それによれば、そもそも話は、22:6以下に記されるパウロ、まだ教会の迫害者であったサウルの回心の出来事にまで遡ります。その時、サウルはダマスコのキリスト者を迫害、処刑するために突き進んでいました。しかしその彼の闇の計画の上に、既に、霊の風は吹いていた。そこに、創世記1:3の「光あれ」との言葉を連想させる、復活の主の光が照らしまして、彼は打ち倒されます。その遠征は、サウル一人でなされたわけではなくて「一緒にいた人々」(22:9)とありまして、仲間がいた。その仲間は光を見たけれでも「サウル、サウル」と名を呼ばれる主の声は聞きませんでした。だから何が起こっているか分からない。その『小説聖書』によると、この時、一緒にいた男こそ、後にパウロの妹と結婚することとなる美しい若者マティティアであった。教会の迫害者サウルを深く尊敬し、サウルもまた彼を息子のように愛していた。マティティアはその影響から熱心党に入党した民族主義者でした。やがて、エルサレムに帰ったマティティアにサウルがキリスト教に入信し伝道者となったとの知らせが入る。近親憎悪と申します、彼は転向した義兄を一族の恥と、この上なく激しく憎むようになりました。それから20年が過ぎ、再び都エルサレムに帰ってきたパウロに対する迫害の首謀者、群衆の扇動者は、この義兄への殺意に荒れ狂うマティティアだと『小説聖書』は想像の翼を自由に広げて述べています。使徒言行録22:1で、神殿前の踊り場で、敵意で睨むユダヤ人群衆を前にパウロが語りかける。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください」と。愛する同胞、血族にこそ救い主イエスを知って欲しい、その熱意を込めて。この時「兄弟であり」と呼び掛けた瞬間、『小説聖書』では、丁度目の前に現れた義弟と目があって、パウロは、人々に静寂を求めてあげた両手を、マティティアの方へ差し出し「マティティアよ」呼び掛ける描写に代わっています。そして自分の回心の物語を語る演説の中で、繰り返し、パウロは「マティティアよ、わが子マティティアよ、マティティアは今でも私の息子です」と呼んだ時、マティティアは叫びました。「この男を殺せ!!」と。

 「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます
愛されなくなるのでしょうか。」(コリント二12:15)、ここでも
このパウロの言葉を思い出さざるを得ません。
 
 「この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。」(使徒言行録23:16)、この陰謀を知ったパウロの姉妹の子とは、そうです、『小説聖書』では、その父こそ、このマティティアであり、この兵営に来た者も、その血を受け継いだ美しい若者であった。家で、彼の父が40人ほどの男達に、飲食を断つ誓いを立てることを呼び掛けているのを偶然陰で聞いてしまった、常日頃父の激しさに悩み、若者らしい反抗心が、父を裏切る道を選ばせたのかもしれない。そのような物語であります。
 
 聖書に戻りますと、パウロは甥っ子の言葉を聞くと、百人隊長の一人呼んで、この若者を千人隊長の所へ連れて行かせる、そして陰謀は千人隊長に知られるところとなりました。この若者から情報を得た千人隊長は、迅速に行動します。その夜直ぐ、パウロをカイサリアの総督のもとに送ることにしたのです。この千人隊長はパウロの語る福音に共感して、パウロを助けたかったのではありません。ただローマの市民権をもつパウロが、ユダヤ人暴徒に殺されることが、自分の管轄地域・エルサレムで起これば、それは治安部隊の長としては責任問題となる。だからいわばやっかい払いをしたかった。この決定は自己保身以外の何ものでもなかったでしょう。それが証拠に、千人隊長はこの時、総督に宛てに持たせた手紙で、エルサレムで起こった騒動を自分がいかにして収めたかを報告しました。それに間違いはありませんが、彼にとって都合の悪いことをこの手紙では記していないのです。ローマの市民権を持つパウロを過酷に扱ったという事実には触れていません。彼の関心は、真理問題でもなく、まして福音宣教の問題ではなく、とにかくこのエルサレムの治安を自分がどう守ったか、ローマ市民をどうやってその権利に相応しく自分は扱ってたかを、上役にアッピール出来ればそれでよかった、ただそれだけでした。

 そして思いがけない旅が始まります。千人隊長はその夜の内に、武装した護衛をつけて、カイサリアに駐屯していたその総督フェリクスのもとへパウロを送り届けるのです。

 かくして、エルサレムで逮捕されたパウロは、結局、アンティパトリスを経て、カイサリアまで移されることになりました。この後、パウロはこのカイサリアにおいて、取調べを受けることになります。しかし、やがて、カイサリアから船出して、シドンを経てイタリアへと向かう、物語はそう続いています。「聖書巻末地図9・ローマへの旅」で見れば一目瞭然であります。エルサレムからカイサリアへと移されたということは、パウロが一歩、ローマに近づいたということを意味しているのです。「ローマでも証しをしなければならない」(23:11)、この「せねばならない」、この神の必然が、はっきりと形となって動き始めている。

 この神の必然は、パウロを「殺さねばならない」という人間の必然、その中で起こる不退転の陰謀への意志、これが用いられました。陰謀がなければ、パウロは、このローマへ一歩近づく、カイサリア護送ということは決して起きなかったからであります。そしてこのユダヤ人の陰謀だけでなく、あの『小説聖書』が本当だとすれば、父への反抗心の中で兵営のパウロを密かに尋ねる甥も、神に用いられる。そして自己保身だけのローマの官憲の思惑をも用いて、主のご計画は進展して行きます。それぞれが勝手な思いの中で行動する混乱した人間の営みの中で、いつの間にかそれらが
一つに束ねられ、神の一筋の道が浮かび上がってくるのです。それがここでの神の歴史の支配、私たちの人生の支配のやり方なのです。

 神学者バルトは「人間の混乱、神の摂理」と言いました。

 その言葉を思い出しながら、もう一度、このパウロの物語を読み直してみますと、この物語が私にはまるで二重写しに見えてくるのです。もしそれを映像にするとしたら、マティティアを中心に40人の男達が陰謀を練っている。息子がたまたま家に帰ってきて、壁の背後でそれに聞き耳をたてる。それは表の映像では全く偶然にそのような状況が生じただけですが、二重写しになる裏の映像では、息子は天使に、つまり神の摂理という名の天使に導かれて、その陰謀の部屋の陰にまで至るのです。若者はパウロへ、パウロは百人隊長へ、百人隊長は千人隊長のもとへと物語が進む中で、「囚人パウロ」(23:18)という言葉があります。確かに表の映像では、傷だらけのまま鎖に縛られている惨めな疲れ切った囚人パウロが映し
出されている。しかしそれに重なり合うもう一つの映像では、パウロが「フィレモンへの手紙」で挨拶したように「キリスト・イエスの囚人パウロ」の姿が映っているのです。それは主に捕らえられてしまい、主から「せねばならない」と、愛の鎖で縛られて、地の果てまで福音を宣べ伝えるために連れて行かれるパウロの姿、しかしまことに光輝く栄光を担う伝道者の姿です。

 千人隊長は事なかれ主義の自己保身の政治的判断の中で、パウロをカイサリアに送ることを決定する。そして千人隊長は、歩兵200名、騎兵70名、補助兵200名という大部隊を編成する。そうやって、その自己保身から、何が何でも暴動回避と、ローマ市民パウロを守ろうとする。そうやって、カイサリアへ向けての護送が始まる。しかしそれと二重写しになる裏の映像は、天使の軍隊、神の大軍によって北西、つまりローマに一歩一歩近づいていく、凱旋将軍のようなパウロの姿なのです。そういう不思議な映像を想像しました。
 
 「人間の混乱、神の摂理。」私たちの人生もまた、人が人として生きる時の矛盾に満ちています。愛しながら憎み、憎みながら愛するような混沌とした人間関係を作る他はない。一所懸命やっている。熱心です。あの小説のマティティアが熱心党に属したように。しかし明後日の方向に向かう熱心でしかないことがどんなに多いか。一方、ただ自分の利害損得だけを考えて行動する者も多い。真理とか、善とか、神のことなんかより、ただ損得で一切を選び行動している。そのような人間の罪、混乱の罪が寄り集まって、キリストは十字架につけられたのです。しかしその十字架の立つ
ゴルゴタの丘から神の摂理の風が吹いてくる。人間の混乱、敵意も曲がった熱心も、偶然も、自己保身の思惑も、子どもの反抗心も、全て用いながら、神様は、神様が「せねばならない」「行けねばならない」と言われた、摂理の道を、神の定めた道を、私たちに進ませます。だから絶望してはならない。私たちの目に見える人生、歴史の表の映像と重なり合いながら、その裏側に摂理の歴史が動いている。人間がこれは破滅の歴史だと思うところで、それがいつの間にか救いの歴史の意味に置き換わっている。何故なら、神は愛だからです。何故なら、この地上に十字架が立ったからであります。これは本当のことです。


 祈りましょう。  主イエスキリストの父なる神様。人の無責任と悪意の海で溺れそうな私たちです。私たち自身がその混乱を作り出しています。主よ憐れんで下さい。しかしその混沌の水の面を、摂理の風が吹いている事実を決して忘れない者とさせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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