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2005年 1月 9日 「罪を担う預言者」

2005年1月9日 「罪を担う預言者」

  (ホセア書1:1~8)

 今、水曜夕の聖書研究会祈祷会では、旧約聖書・列王記を読んでいます。英語聖書では「Kings」との名の通り、王たちが次々に代わっていく物語が記されています。これはソロモン王の死後、イスラエルが北朝と南朝に分裂した後の物語です。

 統一王国・イスラエルが分裂した後、特に北朝イスラエルにおいて起こったことは、政治的には極めて無秩序な王家の交代でした。北イスラエルの成立自体が、そもそも初代王ヤロブアムのクーデターによるものであったため、その悪習はどこまでも北王国に付きまとい、繰り返し暗殺や殺戮による政権交代がなされていったのです。そのことを、列王記上は「ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」(16:19)と語り、クーデター・革命を「ヤロブアムの道」と呼んで、それ自体に義はないと断じました。従って北においては、王の存在自体が、人間の権力欲、金銭欲、名誉欲に彩られた不信仰の現れそのものとなったのです。

 このホセア書は、その北イスラエルの社会的、宗教的罪の歴史と、ホセアの人生が不思議なことに一体化してしまう。イスラエルの罪と、ホセアの家族の人生とが「相似形」をなしてしまうのです。私たちも不正義を憤ります。そして、時にテレビニュースの前で、評論家と一緒になって、政府や官制団体を罵り、高みから批判することがあるかもしれません。一方的に攻撃する。それが可能なのは、自分がそのような所と全く無関係な存在と覚えるからです。ですからテレビを離れれば、何もかも忘れて涼しい顔が出来る。

 しかし、預言者ホセアは、そういう無責任・野次馬的心理状態で不義と対面したのではありません。ホセアは、不正義を「我が事」として受け止めねばならなかったのです。自分とその家族に起こった激しい痛みを通して、北イスラエルの罪を受け止め、それに対する神のなさりようを、自分がひりひりと感じ取って生きるよう選ばれたのが、ホセアでした。預言者の誘惑は、善悪を洞察する力をもって、批判的に生きる時に、それを楽しんでしまうことかもしれない。ホセアは預言者として召命を受けた時、堕落しないように最初からさせられていたのです。ここから、私たちが社会を問う時学ぶべき姿勢があると思います。嬉々として世の中をばっさり切り捨て、社会に罪が増し加わることが、本心嬉しくてたまらないのではないかと思われるような人もおります。そしてそれは私たちの心の中にもある実に醜い心なのではないでしょうか。それらの指摘にいくらかの真理契機はあったにしろ、それは余りに無力なのです。どれほど罪や不正義というものが、痛みを伴うものか、血が流れるものか、罪によって、生きたまま切り刻まれるような経験をする、それが自分で感じられる時、初めて事柄の真相は見えてくるのです。預言者とはみな、悪の痛みを自分のこととして感じられるセンスある者のことです。しかし特にホセアにはそれが際だっていると言わねばなりません。このホセア書を学ぶことを通して、私たちもこの国に、この世界にどのような態度で臨むべきか教えるのではないでしょうか。

 北朝イスラエルと、ホセアの人生の重なり、同一化という話に戻りますと、その第一は主のホセアへのご指示に表れています。「その子をイズレエルと名付けよ。間もなく、わたしはイエフの王家に/イズレエルにおける流血の罰を下し/イスラエルの家におけるその支配を絶つ」(1:4)。神様が彼と妻ゴメルの間の長男の名を「イズレエル」と付けなさいと命じられたことにあります。

 このイズレエルとは、ナザレに近い美しい山間の名です。そこは、列王記に登場します王アハブと女王イゼベルの避暑地がありました。ここで再び「ヤロブアムの道」が起こる。その舞台こそこのイズレエルでした。将軍であったイエフは、その地においてアハブの子、王であったヨラムを殺し、イズレエルの城にいたその母イゼベルを、城の窓から突き落とし殺害し、さらにサマリアにおいてアハブの子70人を皆殺し、一族を全滅させたのです。こうして、イエフ王朝が誕生したのでした(列王記下9~10章)。

 ホセア1:4は、こうして生まれたイエフの王家もまた「ヤロブアムの道」を歩んだ流血の王家に過ぎず、神の厳しい裁きのもとにあると言っているのです。しかしそこで、彼はイエフ王朝の罪を連帯的に受け取めるために、自分の子どもにヤロブアムの道が起こってしまった土地の名を付けるよう求めれらたのです。

 それから妻ゴメルは女の子は生みますが、神様はまたその名を指示します。「その子を/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず/彼らを決して赦さないからだ」(1:6)。

 さらに最後の男の子は、ロ・アンミ(わが民でない者)と名づけるよう命じられました(1:9)。それは北イスラエルの余りに大きな罪の故に、イスラエルの民は神から見捨てられて、神の民であるという契約は破棄されるのです。その神の裁きのご決意を表す名を、ホセアは自らの子に賦与しなければならなかったのです。
 

 北イスラエルの犯した最大の罪とは、列王記で学ぶように、彼らがヤハウエを捨てて、偶像神バアルを神々として礼拝したということでした。真の神ヤハウエとイスラエルの関係は、エレミヤ書でも「妻が夫を欺くように/イスラエルの家よ、お前はわたしを欺いたと/主は言われる」(3:20)とありますように、夫妻の関係にたとえられるのです。これは八百万の神々を自由に行き巡る日本人の宗教心では驚くべき理解でありましょう。人間にとってヤハウエは唯一の夫とたとえられる存在であって、偶像神バアルのもとに行くということは姦淫であり、淫行という大きな罪なのです。この宗教的淫行の罪を犯した北イスラエルの罪と自己同一化するために、さらにホセアは驚くべき事にこのような命令を神様から受けたのです。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」(1:2)。

 妻ゴメルは決してただ淫乱というのではなくて、やがて夫ホセアのもとを去り、バアルの神殿娼婦となったと思われます。そして先ほど申した、悲しい名を受けた三人の子は、実にその時の不倫の子たちであった、ホセアの実の子ではなかったとの説もあります。まさに、偶像礼拝と姦淫がゴメルにおいて一つになっているのです。北イスラエルの社会的不正義と個人的なはずの家庭の不倫問題がそこでワンセットになってホセアに襲いかかってきているのです。

 預言者とはこのような経験の中で預言者となるのです。よく私たちの教団でも問題提起者をあの人は預言者的だとか誉めますが、教団総会でマイクを奪ったり、怒鳴ったり冷笑したり、馬鹿にしたり、何か、本当にこの人は義のために、心底痛み苦しんでいるのだろうかという疑問が湧く時もあります。評論家やアジテーターでなく、真の預言者とはどのような存在か、それを私たちはホセアから学ぶことが出来ると思います。

 真の預言者とは言うまでもなくイエス・キリストでありました。罪のなきお方が、罪人の一人に数えられ(ルカ22:37)十字架につかれ、罪人とそこまで自己同一化し、その痛みを誰よりも激しく味わい尽くされました。そのことによる以外に、この世界の罪を贖うことは出来なかったからであります。それ以外に不義、悪を弱らせる道はなかったからであります。ただ他人の罪、社会の悪を、怒り、冷笑していても、社会は少しも良くならなかったからであります。他者の罪を一身に負う志に生きる者が現れない限り、世界は救われなかったからであります。

 ホセアはその主イエスの十字架への歩みの先駆けをするよう神様に命じられたのでした。ホセア書を読むと主イエスのお姿が浮かび上がってきます。そこにこの書の限りなき魅力があるのです。


 祈りましょう。  神様。御子イエスが、預言者たちが、あなたからの示しを受けて十字架を負って歩みましたように、どうか私たちもまた、それに倣う者として下さい。この年こそ、ヤロブアムの道を歩むのではなく、ホセアの道、主イエスの道を一筋に歩む者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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