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2004年12月12日 「謙遜な振る舞いを学ぶ」

2004年12月12日 「謙遜な振る舞いを学ぶ」

  (使徒言行録13:13~30

 「ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。」(使徒言行録13:13~14)

 この礼拝におきまして、先週からパウロの第一回伝道旅行について読んでおります。しかしこれらはパウロ一人の伝道であったわけではなくて、パウロとバルナバ、そして助手ヨハネ(マルコ)による伝道した。

 パウロは、元々教会の迫害者であったということで、回心後も教会からなかなか心を許してもらなかった。それで故郷タルソスに引き籠もっていたところを、アンティオケア教会の教師に迎入れたのが、重鎮バルナバであったのです。バルナバは、自分にはないパウロの天才的な賜物を洞察したのだと思います。しかしバルナバは、パウロを招聘したことによって、アンティオケア教会での独占的なリーダーとしての身分を失う可能性があった。それなのに彼は、神の栄光のために、教会の発展のために、自分の身分に固執しようとは思わず、わざわざパウロを遠路探しに行くようなことをした人なのです。しかし人は時にバルナバと反対のことをする。自分の身分を守るために、地位に執着して決して引かず、そのために、組織がどんなに傾いちゃっても、潰れてさえもかまわないと思われるような振る舞いをする。

 そのようなことを、かつて説教で申しましたところ、複数の現役で働いておられる兄姉から直ぐ感想を頂戴しました。「先生、本当にそうなんですよ」と。奉職している組織の中に、プライドや地位にこだわる人がいて、それが妨げとなり目的が果たせない。それでいて、その人事で利益を得ている提灯持ちたちは、その我が儘を支える。心ある者たちは途方に暮れている。「本当にバルナバのような人が必要ですね」、そういう感想でありました。

 しかし同時に思います。自分がその立場に置かれたらどうなるどろうかと。それまで群れのお殿様でいられた。女王でいられた。家庭でも主人、主婦でいられた。小なりと言えども王様です。小さな権力者です。そこに誰か別の人が入ってきて、自分よりどうもやり手である。でも簡単には譲れないものです。それは、私たち誰にでもある支配欲であり自己中心性なのではないでしょうか。

 最初「バルナバ、サウロ」(使徒言行録13:4)という順番で呼ばれていた両者が、13:14では、「パウロとバルナバ」と、順位が逆転しました。その伝道グループを「パウロとその一行」(13:13)とさえ呼ぶようになる。そして、小アジアのピシディア州のアンティオケアで、安息日に、会堂長より説教依頼がなされた時(13:15)、立ち上がったのは、バルナバではなくてパウロであった。これからはパウロが先頭に立って伝道することが御心だということがはっきりしたのです。バルナバはそのことを穏やかに受け入れまして、新進気鋭の伝道者に身分を譲って、その後に従う歩みを始めたのです。繰り返し申します。神の栄光のためであります。教会の将来のためであります。

 しかしどうも、このことが助手ヨハネには受け入れがたかったようです。「ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」(13:13)とありますが、それは、バルナバ先生こそ我が師であり、ちょっと頭がいいからと言って、パウロがこれからは自分たちのボスだと言うのは納得がいかない。そう感情的になってエルサレムに帰ってしまったのだ、と多くの人が推測しています。このヨハネの態度に対してパウロの方も第二回伝道旅行に際して「あのような者は、決して連れて行かない」(15:38)と激怒しました。しかし逆に言えば、バルナバは、それでも、高齢の身でありながら、伝道地を目差し、若いパウロの後に従って、小アジアで最も過酷だと言われるタウラス山地を、汗を滴らせて越えていくのです。そこに彼の信仰が際だってくると思う。
 
 しかし私はこの生き方は、バルナバが最初ではないと思う。これは「神の身分でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」(フィリピ2:6)、飼い葉桶の中に生まれられた御子イエスから教えられたキリスト者の生き方であると思うのであります。

 先ほど、このクリスマスの季節にふさわしい旧約聖書の御言葉を朗読頂きました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」。エッサイとは、先ほどのパウロの説教(使徒言行録13:22)にも出てきましたが、ダビデ王の父です。ですから、この御言葉は、ダビデの子孫からメシア・救い主が現れるということが預言されているのです。

 ダビデは強い王でありました。権力と武力をもって、イスラエル黄金時代を築き上げたのです。ではこれはその巨大な力をもった王・メシアが再び生まれて、イスラエルを力尽くで支配するという預言なのでしょうか。そうではないのです。

 実際、パウロの説教にも登場するサムエル(13:20)は王を求める民に、予めこう預言しました。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。…また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。」(サムエル上8:11~17)

 この言葉はやがて実現しました。国が分裂した後、特に国内に貧富の差が激しさを増し、数々の不正や不公平が蔓延する時代がやってきます。そうやって、他を踏み台にして、しかしなお自分が王に居座ろうとする者たちが国を支配したのです。そうやって、国はもはや誰にも支えきないほど傾き、そして、神の裁きの御手として用いられた周辺大国によって、北も南も滅亡していく。

 預言者イザヤが語ったメシア預言とは、そういう王がメシアとして再び来る、と言ったのでは全くありません。そうではなくて、イザヤは「エッサイの切り株」と預言したのです。国を潰しても自らとその子孫が支配者の身分に固執するような王は、切り倒されたのです。そして「切り株」だけ残されました。そして、イザヤはその一度否定された王とは別の王が、その切り株から新たに芽生えてくる、その者こそ真のメシアだとの幻を見ているのです。

 その王とは、僕の姿をとって謙遜の極みを生きる王でした。人間のために、イスラエルのために、世界のために、御自身の王として身分をかなぐり捨てて、他を生かすために、自らは死なれる。神の身分に固執せず僕の身分になられた王こそ、ダビデの切り株から生まれた御子イエス・キリスト様なのであります。
 
 しかしそれは決して敗北ではい。「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(使徒言行録13:30)。それこそが命の道なのだ。それこそが、王の王としての勝利の道なのだ。これを本当にこのクリスマスの季節信じることが出来た時、もしかしたらこの傲慢な私たちも、バルナバのようになれるかもしれません。後から来た部下に、神のお考えでは、これはやはり君の仕事だ、これはあなたの地位だと思う。だから私のものを譲ろう。この地位を降ろされたら、もう何も手伝ってやるもんか、何て言いません。あなたに協力は惜しまないよ、何でいいつけてくれ、援助しよう、思う存分私に代わってやって下さい。家庭を守るために、教会を生かすために、組織、会社を倒産から救うために。国民を助けるために。そうやって名を捨てた時に、むしろ神の御心の中で、私たちの名は永遠に覚えられる。御子の名が甦りの命の中で、永遠に覚えられたように。

 かくして、世界の平和も世界の救いも、先ず、私たちの小さな心の中で起こる「主権の交代」、私が私の王ではなくて、クリスマスの日来て下さる御子こそ王である。その御子の言葉に従おう。自分は王の身分を捨て、主の奴隷になろう。御子が行かれると言うのなら、その後に従い、高い山であっても登っていこう。その思い、その信仰だけが、今、この現代、王が乱立して、その中からさらに王の王になろうとして、力を奮い、戦い続けるこの家庭、この組織、この国が立ち直る唯一の道なのであります。


 祈りましょう。自らが王になろうとする高慢が積み重なって、いつ崩れるともしれないバベルの塔を建てる生き方から私たちを解放して下さい。僕として生きられたが故に、王の王となられた御子イエスから、我が身の振り方を学ばせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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