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2004年10月24日 「高慢の岩を打ち砕かれ」

2004年10月24日 「高慢の岩を打ち砕かれ」

  (使徒言行録10:34~48)

 今年の21週に渡る聖霊降臨節は先週終わりましたが、この朝、ペンテコステの季節に私たちをもう一度引き戻すかのような物語を読むことになりました。

 「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。」(使徒言行録10:44~45)

 二度目のペンテコステがここで起こったのです。これは「カイサリア・ペンテコステ」と呼ばれます。これとの関連で一度目を呼ぶとしたら、それは「エルサレム・ペンテコステ」となるでしょう。

 カイサリアとは、パレスチナの地中海沿岸にあった港町で、昔はフェニキアに属する「ストラトン」という名の都市でした。この町がローマ領となった後、クリスマスの物語にも登場する当時の皇帝アウグストゥスはこれをヘロデ大王に与えました。ヘロデはこのアウグストゥスを記念して皇帝の称号カイサルからこの町の名を「カイサリア」と改めたのです。そして王はこの町に大々的な改修工事を施し、劇場,競技場,皇帝礼拝の大神殿を備えた典型的なローマ都市に作り替えたのです。「ローマの友」という称号さえ持つ王が築いたため、ここは最も非ユダヤ的な異邦人の町となりました。純粋なユダヤ人が見たら耐えることが出来ないほど、真の神から最も遠く離れている町、神に逆らう皇帝の名をもつ汚れた町がカイサリアでありました。

 にもかかわらず、カイサリア・ペンテコステが起きました。それは神の都エルサレムで起きたことと「同様」であることが強調されています。

 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが…」(10:47)。

 「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら…」(11:17)

 そして神から示しを受けたカイサリアの百人隊長・コルネリウスに洗礼が授けられました。これが異邦人最初の洗礼であったのです。

 これまでは、ユダヤの長い伝統に則って、初代教会の中でさえも、三つの功を持つユダヤ人以外を神はお救いになられないと理解されていました。三つとは、第一が神殿礼拝、第二が割礼、第三が律法遵守(この中に厳格な食物規定も入ります)。これがユダヤ人の印であって、これを持たない者は汚れた者、神が退ける異邦人であったのです。しかしその三つとも持たない異邦人コルネリウスが、ただキリストを信じる「信仰のみ」によって聖霊を受け、教会の民に加えられました。この瞬間、世界は根本的に変わったのです。神の御心の中では元々そうであったことが明かとなり、主イエスキリストの父なる神は名実ともに全人類の神となられました。もはや神と「縁なき衆生」は、世界中走り回って探しても一人もいなくなったのであります。このカイサリアで起こった出来事こそ、私たち極東の異邦人が、この礼拝堂に今朝座ることが出来た唯一の理由なのであります。

 しかしこれは使徒ペトロによって始められたことではありません。ペトロは洗礼式前の説教でこう語りました。「イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのです」(10:38)。主がもう先に始めておられたことだと言うのです。実際マルコ福音書5章を見ますと、主イエスはガリラヤ湖の向こう岸、異邦人ゲラサ人の地方へ渡って、汚れた悪霊に取り付かれて墓場で繋がれている男と出会っておられます。そして主はこの悪霊を豚の群れに乗り移らされ、二千匹もの豚が湖になだれ込み溺れ死んでしまう。そうやって既に主は異邦人を汚れから清める業を始めておられた。そのことをペトロは、ああもうあそこでこの事は始まっていたと思い出しているのです。

 しかしペトロはこの神の救済計画を最初から理解したわけではありません。彼はヤッファ近くの家の屋上で祈っていたところ幻を見る。天が開いて、四隅を吊されて大きな風呂敷が下りてくる。その中には、律法では食べてはならない汚れた動物が沢山入っていた。その時、主が天から言うのす。「ペトロ、これを食べよ」と。ペトロが「主よ、とんでもないことです。私は汚れた物を食べたことはありません」とお断りしますと、主は「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と叱られました。 ペトロはどうして主の言われることを聞けないのでしょう。ペトロは以前は主を否認するような弱い人間でした。しかし今は、主の復活を知り、エルサレム・ペンテコステに与り、岩の如き強靱な伝道者に生まれ変わっていたのです。使徒言行録でも権力を少しも恐れず癒しの業をするペトロの姿が描かれています。彼はその強さによって、汚れた物を口にせず、律法を犯すことを断固拒むことが出来たのです。ところがそれが不思議なことに「食べよ」と命じる主の言葉に逆らうことになりました。「律法を犯して、神を裏切りたくない」と言う、ペトロの熱い信念が、逆に「神に逆らい、神を拒絶してしまう」という、逆説的な事態を生んでいるのです。いいかげんな信仰だから神と対立しているのではなありません。「強い信念」の故に今、ペトロは神と対立したのであります。そのようなペトロに対して主は「身を起こし屠って食べよ」(10:13)と命じられました。「身を起こす」とは「甦る、復活する」と言う意味をもつ言葉だそうです。ペトロの信仰も今また、もう一度古い自分に死に、そして新しい自分に甦るよう主から命じられているのです。こうして彼は十字架の血潮によって、清められない存在はないということを、さらに深く学ばされていくのです。こうしてペトロの心の中で、日々キリストの恵みの及ぶ範囲が広がっていかねばならないのです。

 「イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(10:43)。

 「信じる者はだれでも」です。もうユダヤ教の三原則はなくていいのです。ただ「信仰のみ」によって人は救われる。この私たちプロテスタント教会の合い言葉は、決して自明のことではありません。私たちがどんなに他人に絶望するか。あの人は駄目だ、この人は駄目だと裁きます。あれだけ言ってもあの人は分からないと軽蔑します。あの人が人の生きる道・三つくらい、我々にちゃんと誠実を尽くしたら、また受け入れてやってもいいと思っています。あるいは、自分に絶望します。こんな人間はもう神にも人にも受け入れられることはないと、人生を投げ出そうとします。そこにあるのは、人は良い行いによってのみ救われるのだ、という人間の根深い岩のような信念であります。この信念から自由な者はいないと思う。だから教会の歴史でも繰り返し、ただ信仰のみによって、という聖書の教えは骨抜きにされてきました。やっぱり人間が立派でなければ、正しくなければ、優れていなければ、根性をもたなければ、救われない。小さい頃から、家庭でも学校でも社会でも、徹底的に私たちはそれを教えられ、訓練され、骨身に徹しているのです。もうそこから動くことが出来ないほどに。そのような頑な私たちを代表するペトロに、主はヤッファで挑戦しておられる。十字架の血潮は、全ての者を清めるだろう。清められない者はいない。それほど十字架の力は強い、と。

 次週の主日は宗教改革記念日です。1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルクという町の教会の門の扉に95ヶ条の意見書を修道僧ルターは貼り出しました。その第一条にはこうありました。「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」

 「悔い改め」とは「方向転換」という意味です。それは、その後の意見書の条項において、記されるように、免罪符に代表されるように、自分が何か神様に沢山献げて、良い行いをして、天国に行けるようにしよう、という理解の方向を転換しようという意味であります。振り返ってキリストの十字架だけをじっと見つめるのだ。イエス様の十字架の救いによって清めて頂くのだ。それが悔い改めです。キリスト者の全生涯は日ごとの悔い改めなのです。毎日が悔い改めということです。どうしても福音が分からないペトロに、何度も、主が、身を起こして食べなさい、と言われたように、私たちは日ごとに新しく甦らなければならないのです。それほど、私たちの律法主義、人は自らの力によって救われる、という考えは強固なのであります。そういう理解でしか、他人も自分も実は見ることは出来ない存在なのです。そこで比較し序列を着け人を差別する思いが生まれるのです。

 ルターは小教理問答の中で「洗礼の意味」についてこう答えています。「それは、わたしたちのうちにある古いアダムが、日ごとの悔い改めによって、律法主義と共におぼれ死に、日ごとに新しい人が現われ、よみがえり、神の御前で福音のみによって生きることです。」

 あの主イエスのお力によって、悪霊が乗り移った豚がみな溺れ死んだように、人は「自力」によって生きるのだ、という御心に反する心も日々溺れ死なねばならない、そのために洗礼があるのだ、と言われています。信濃町教会の新礼拝堂を見ましたら、そこに「洗礼盤」が常設されていました。それは一度洗礼を受けたら、それでもういいというのではなくて、私たちは毎主日ごとに洗礼を受けたことを思い出し、古い自分に溺れ死に、そして甦ることが必要だからだと思います。そうやって繰り返し、主の恵みの射程の長さを学ぶのです。そうしないとまたもとに戻ってしまう。ペトロも「三度」(10:16)も「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と教えられたのです。

 だからルターは、開口一番、私たちの全生涯が悔い改めである、と言って宗教改革を始めました。ただ主イエスを信じる信仰のみによって救われる。それを真に理解するためには、日ごとの悔い改めが必要なのだ。そうやって人は自らの頑張りによって生きるという、頑固な信念の岩を、主の十字架のハンマーによって毎日、打ち砕いて頂かなければならないのであります。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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