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2004年 8月 8日 「神に惑わされた人」

2004年8月8日 「神に惑わされた人」 日韓青年合同修養会(東京)

  (ヨハネによる福音書 21:15~22)

 先週の金曜日から、日韓青年合同修養会が「青年よ、大切に用いられる器となろう」との主題を掲げて開催されています。日韓両青年会において、この主題が抵抗なく選択されたこと自体に、私は、両教会青年会の信仰的健全さを強く感じるのであります。「用いられる器」との意味は、言うまでもなく、神に用いられるといことです。あるいは教会に用いられる、ということであります。自分の方が神を用い、自分の願いに神を仕えさせようとする偶像礼拝と逆のあり方であります。神の方に願いがあるのです。イエス様が大事な仕事を頼まれるのです。青年よ、私の仕事をして欲しい。私は今、あなたを必要としている、と。その心からの御依頼に「はい」と、応えることが出来た時、大切に用いられる器としての人生が始まっていくのです。それが召命に生きるということであります。
 
 今回の青年会の主題聖句であるエレミヤ書1章において、神は、若きエレミヤを召されました。「わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた」(1:6)と。この時エレミヤはまだ20歳にもならない若者でしたが、神の召しに従い、預言者として歩み始めました。しかしそれは困難を極めた道であったのです。

 当時南王国ユダは国家存続の危機的な時代を迎えていました。神の言葉を聴かず偶像礼拝に陥り、神殿までが堕落しきってしまったのが原因でした。そんな時神は預言者エレミヤに陶器の壺を買い、それを粉々に砕いて預言せよと命じられます(19章以下)。国を挙げての偶像礼拝に対する神の裁きが下されようとしていました。神の裁きによって都エルサレムは破壊されようとしているのだと、エレミヤは祭司たちに言い、陶器の壺を地面に叩き付けました。この陶器の器のように粉々になりたくなかったら、本当に「大切に用いられる器」になりたかったら、悔い改めなさい。偶像を去り、真の神に立ち帰り、神の召しに応えなさい、そうエレミヤは訴えました。

 しかしこの言葉は受け入れらなかったのです。エレミヤ20:1~6には、エルサレムの滅亡を預言するエレミヤと、神殿の最高監督者・祭司パシュフルとの争いが記されています。パシュフルはエレミヤを反逆者として捕らえ拷問にかけました。ところがエレミヤはさらに大国バビロニアによる国の滅亡を預言したのです。パシュフルは愛国者でした。国と神殿を愛しその繁栄を喜ぶことが、まともなユダの民のすることだと確信していました。ところがエレミヤは彼が大切にしているものを、ことごとく批判し滅びると預言するのです。パシュフルにとって、それは愛国者のすることではない。非国民のすることとしか考えられませんでした。

 しかし本当に国を愛するとは、どういうことでしょうか。暑い8月になると、日本人は思い起こさざるを得ません。愛国心にかられて戦争を始めた大日本帝国が結局滅んだということを。愛国心は結局、夥しい戦死者と餓死者を呼び起こしたということを。本当に国を愛するということは、人を愛するということは、神を愛することから始まります。人の言葉を聞くのではなく、神の言葉を聴くことから始まります。しかし時に、目先の人間の願望に反する神の言葉に対して、人は死にものぐるいの抵抗をするのです。目塞がれた愛国心は神の言葉を決して受け入れません。それはいち早く神の言葉を聴き、召しに応えた神の器を、この上なく孤独にします。徹底的に一人にするのです。

 先ほど朗読頂きました「エレミヤの告白」と呼ばれる20:7以下の言葉は、私の若き日の献身を促した言葉であります。忘れることの出来ない言葉です。そしてこの言葉は今でも私の牧師として生活を、その根底において支えている言葉です。皆さんは先ほどの朗読を聞いていて、どう思われたでしょうか。そんな一人の青年の献身を決意させるような言葉には、ちょっと思えなかったかもしれません。あんまり信仰的な言葉じゃないと思われたかもしれない。しかし私は自分が若い頃からとても弱かったので、このような迷いに迷うエレミヤの姿に深く共感してきました。

 エレミヤには、先輩アモスやイザヤのように、生まれながらの預言者的素質や強靱な精神力はありませんでした。しかし聖書を読んで気付くことは、神に選ばれ、神の器になった者が、皆、信仰者の模範、自信満々のエリートではなかったということであります。むしろ、逃げたり、愚痴を言ったり、嘆いたりする姿も多く目に付きます。エレミヤの性格を学者たちは推測しています。あれほど激しくユダの滅亡を宣告出来るのだから、さぞ男性的な英雄だと思うかもしれませんが、どうもそうではないらしいのです。彼は感受性の鋭い、涙もろい、むしろ女性的な人だとも言われます。

 例えば20:7の言葉は、エレミヤを女性と考えた方がこの言葉はよく分かるとさえ言われるのです。その学者はこの20:7aの「惑わし」というとところを「誘惑」という言葉で訳しています。「主よ、あなたは私を誘い、私はあなたの誘惑に負けました。」主はエレミヤを誘惑したと言うのです。神様がエレミヤに献身させたのは、男がうまいこと言って、初な娘を口説き落としたのに似ていると言うのです。次の7b「あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」。ここは「あなたは私を掴み、私を思いのままにした」と訳されています。男が女を押さえつけ何がなんでも俺の女になれと迫る姿を、この言葉から想像することが出来るのです。エレミヤにとって神とはそういう強引な男のようであったのです。

 彼はだから実は「不法だ、暴虐だ」(20:8)と叫ばなくてはならない預言者の務めが、苦しくてしかたがありません。それによって彼は人々から笑われ仲間外れにされたのです。彼は英雄のように黙々とそれに耐えた人ではありません。むしろ女性のように、他の人からいつも愛されていたい、好かれたい、独りぼっちにされたくないというデリケートな感情の持ち主でした。

 しかし彼は全ての人を敵にまわしても語らなくてはならないのです。何故なら神の器にされたからであります。逃げようとしても、神の言葉は火のように迫ってくる。20:9「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」

 しかしその結果は20:10にある通です。多くの人の非難が起こる。四方八方から彼を責め、彼を攻撃するのであります。

 20:7の「惑わし」という言葉には「口説く」という含意があると言いました。従って、これはエレミヤ書1章に記される青年エレミヤの召命、献身と関係のある言葉だと言われています。青年エレミヤは、召された時、直感的に恐れを感じ逃げようとします。自分はただの若者に過ぎません、どう語ってよいかも分かりません、どうかこらえて下さい。しかし神は「私があなたと共にいて、あなたを救うから」と放してくれない。エレミヤは神からこのように口説かれ、ついうっかりとその口車に乗ってしまう。神様はエレミヤを、まだ青年の内に、つまりまるで世の中というものを知らない時に、献身させようとします。若い時は無知なだけに、若さ故の情熱もあります。理想主義の炎が心の中に燃えている季節です。何も知らないだけにロマンチンストな若者を口説き落とすのは、人を献身させるのことについては、いわば百戦錬磨の神様にとって、赤子の手を捻るようなものだったかもしれない。出エジブト記を読みますと、年取ったモーセでさえ、とうとう献身させられているのです。君なら出来る、私がいつも一緒だ、そういう言葉にエレミヤはとうとう負けてしまって、預言者になることを、つい引き受けてしまうのであります。

 誰でもそうかもしれません。私もそうです。洗礼を受けた時も、伝道献身者になった 時も、今にして思えばその後の自分がどうなるかよく分かっていません。今さらながら若かったと思います。神学校に行きたいという気持ちと、自分には不可能であるという気持ちが戦っていた時に、私は自分の属する教会の牧師の所に相談に行きました。自信なさそうに小さな声で相談する私の話しを聞くやいなや、牧師は「君なら出来る!」と大声で言われました。それで私は神学校へ行ったのです。「君なら出来る!」どうしてそんなことが断言出来るのでしょうか。出来るわけがないのです。説教一つとっても。伝道一つとっても。随分無責任なことかと思います。私はこのエレミヤの告白を読む度に、そのことを思い出して苦笑いするんです。「あなたは私を欺かれた」と。 私は20:7のエレミヤの言葉を以前の口語訳で記憶しています。「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。」

 さらに若い日を思い出すならば、旧約学者の浅野順一先生が、私が洗礼を受けました時に、先生のお書きになった、エレミヤ書の説教集を、一冊贈って下さいました。そこで先生はこの20:7の説教の最後をこう締め括ります。そのままの言葉で御紹介して、今朝の説教を終えたいと思います。

 「神にだまされた、キリストに欺かれたということは、果たしてやりきれぬ、残念なことであろうか。たとえそのために一生を棒にふるようなことがあっても。問題はだまされたとか、だまされないとかいうことではあるまい。むしろ、誰によってだまされ、何によって欺かれるかが問題なのだと思う。エレミヤでもパウロでも、その生涯の最後において、むしろ神や、キリストに欺かれたことを心から喜び、感謝したものと思う。信仰の勝利は、欺かれないことにあるのではなく、むしろ、欺かれるところにある。預言者や使徒は、神やキリストによって徹底的に欺かれた人々である。そのために、彼らは他の何ものにも欺かれることがなかったのだ。」

 もう一度申します。「信仰の勝利は、欺かれないことにあるのではなく、むしろ、欺かれるところにある。」この勝利とは、エレミヤだけでなありません。神様に誘われて洗礼を受けたり、献身した者が、皆人生の最後に感謝をもって到達する結論だと私は確信するのであります。


 祈りましょう。  主イエスキリストの父なる神様。若き日韓両教会の青年たちと共に、エレミヤの言葉に耳を傾ける礼拝を献げることが許され、心より感謝申し上げます。直ぐ利口であろうとし、計算高くなってしまいます。 損を一つもしないように生きようとします。どうかあなたの御前に、むしろ初で、不器用で、騙され易い者となることが出来ますように。人々から、愚かな人よと笑われることがあっても、例え人生に敗北したとしても、あなたにだけ身を献げ、あなたの器となる信仰の勝利を、ここにいる若者たちと私たちの人生に与えて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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