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2004年 4日25日 「家庭を守るもの」

2004年4月25日 「家庭を守るもの」

  (使徒言行録5:1~11)

 世界で最初に生まれた教会の姿はこうでした。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(使徒言行録4:32)。土地や家を持っている人は皆、それを売って代金を持ち寄り献金しました。それが正しく分配されたため、誰一人貧しい者はいなかったのです(4:34~35)。その献金の模範としてバルナバが紹介されています。彼は自分の畑を売ってその代金を使徒たちの足もとに置きました。その名の意味が「慰めの子」と注釈されています。この直後に、やはり同じ教会員の名が出てきますが、アナニアとサフィラは、その名のみが記されてあり、その意味は書かれていません。悪い名前だったのでしょうか。そうではありません。アナニヤは「ヤハウエは恵み深い」という意味。「サフィラ」は「美しい」でした。しかしその意味するところは紹介されない。バルナバだけが紹介されたのです。彼は後にパウロと共に伝道する教会の指導者となりました。「バルナバ」の意味だけが紹介されたのは、彼が真に教会に献身して生きたために、人々に大きな慰めを与えていたからだと思います。

 その時、アナニア・サフィラ夫妻は、私たちもバルナバのように称賛されたい、あの夫妻はまさに名前の通りの信仰者だね、そう皆から言ってもらいたい、そして名が教会の中で永遠に覚えられるようになりたい、そう願ったのかもしれません。

 そのために献金するのです。自分の名のためです。自分の誉れのためです。そこに既に、彼ら自身の美しい名前に対する裏切りが始まっているのです。

 アナニアとサフィラはバルナバの真似をしました。夫妻で相談して自分たちの土地を売り、夫のアナニアが、その代金の一部を持ってきて、使徒の足もとに置きました。しかし使徒ペトロは、アナニアが代金をごまかしているのを見抜いて言いました。

「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(5:3~4)。

 ここでペトロは献金の強要をしたのではありません。献金とは自由なものです。そのことをペトロは誤解なきよう丁寧に言います。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」(5:4)。 つまり代金の一部を献金して、残りは神が託して下さっている自分たちの生活のために用いることは許されているのです。ペトロが問題にしたのは、代金の一部を献げたのにもかかわらず、それが全額だ、と欺いたことにありました。アナニアが裁かれ息絶えた後妻が来ます。ペトロが「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい」(5:8)と問いましたところ、彼女は「はい、その値段です」と答えました。やはり、夫妻で示し合わせていたのです。

 似たもの夫婦とはこのことでしょう。もし夫が不正を持ちかけても、サフィラが「あなたちょっと考えてご覧なさい」とたしなめることが出来たのなら、この家庭は滅びを免れたと思います。しかしこの夫妻にとって致命的だったのは「似たもの夫婦」であったためであります。

 私たちの家庭でも、夕食の席で、どう考えても、他人に聞かせることが出来ないような、醜い相談を、汚れた話を、隣人を貶める話題を、咎めるどころか、楽しそうに延々とし続ける夫妻の生活というものがあるのではないでしょうか。それが何よりもストレス解消となる、そういう「似た者夫婦」が存在するのではないでしょうか。それを傍らでいつも聞いて育つ子はどういう子に育つのでしょうか。それは、まさにペトロが言った通りです。「サタンに心を奪われて」(5:3)しまった家の姿なのであります。

 『アメリカ婦人宣教師』において小檜山ルイ先生(東京女子大学)こう論じています。明治以降、アメリカの婦人宣教師たちが次々に来日して、ミッションスクールを建設したのですが、その時、何を女子教育の柱としたか。それは「ウーマンフッド」(女らしさ)であった。19世紀アメリカで理想とされたウーマンフッドとは、正しく家を守り子を育てる女性という意味です。その徳は、「従順」、「純潔」、「家庭的」というものです。しかしこれが日本における女性の理想像である「良妻賢母」と大きく
違う点が一つある。それは良妻賢母には抜け落ち、アメリカ的ウーマンフッドには存在する徳、それは「敬虔」(piety)である、そう言われます。「敬虔」こそ、19世紀アメリカにおいて、女性に「道徳の守護者」としての地位を確保し、社会的発言力を与えたのだ、と。

 どうしてそれが可能だったのか。敬虔なクリスチャンたる女性は、男性の社会的優位、世俗の権力と権威を飛び越えて、神の権威と直接結ばれることができたからである。それに対して良妻賢母には社会を変えていく力はなかった。男たちのなす軍国主義にただ巻き込まれていくだけだった。しかし、ウーマンフッドは、教会の権威を後盾にしており、人の正しい生き方を伝えるアメリカ的な妻・母であり得たのだ。彼女たちは神の言葉を持つことによって、世俗的権力を持つ男たち・父親、夫と対等に渡り合うことが出来たのです。

 仕事に追われ教会に行けないため世俗の論理で生きいる男たち。その父や夫のこの世的理屈に「ノー!」と言うことのできる、女性の出現であります。つまり家庭の中に、神の御心を伝える偉大な役割を担う女性の育成、つまり、「家の主人」は、父でも夫でもない。「キリストである」と、断固主張することが出来る女性、ウーマンフッドの育成、それこそ、女学校・ミッションスクールの教育方針だったのであります。

 もしサフィラがそのような教育を受けていたらと思います。そうしたら、彼女は名の通り「美しい妻」になることが出来た。そして自分自身も夫をも救うことが出来たと思います。この悲しい物語、一つの家庭崩壊の物語を読んでいて気づくことは、私たちは家庭にいてパートナーを救う者にならなければならないということです。神に裁かれる前に、命を落とす前に。それはこの二人のように実際に死んでしまうということでなくて、罪の故に霊的に死んでいる家族に、私たちはいつだってなると思います。どうしたらいいのでしょうか。夫妻で祈り合うのです。イエスが主人として我が家を支配して下さるように、聖霊がここを充たして下さるようにと祈るのです。

 その聖霊の充たしの中で、献金、金銭の問題にまつわる醜い心に対抗することが出来る。「あなたの神、主が与えられる土地…」(申命記5:16)という言葉があります。土地は誰のものか、ということです。この土地は神のものだった。それは与えられたものなのです。全ては神の恵みなのです。アナニアの問題、それはその名が示す「ヤハウエは恵み深い」、しかしその名を彼が少しも信じていことにあったと思う。これを信じることが出来たらな、私たちは感謝に溢れる。多額な献金をすることによって、私たちの名が高まるのでも、救われるのでもありません。神は私たちが何もしない内から、一円も献げていない内から、全てを与えて下さっている。その事実を認め、先ほど交唱した詩編136編のようにただ「恵み深い主に感謝」すること、それが献身・献金の心なのであります。

 昨晩、インターネットに、こんな記事が書かれてあるのを見ました。丁度今、新社会人が生まれて初めて給与を得た時期です。その新社会人に向けてこう言われるのです。

 子どもを1人育て上げるには一千~二千万円ものお金がかかります。またあなたは多くの方のいろいろな支えによって社会人のスタートラインにまでたどりついているはずです。社会人になってはじめてもらう初任給は「貯める」ことよりも、ご両親やこれまでお世話になった方々へのご恩返しに使うことをメインに考えてみてはいかがでしょうか?新社会人には「家族の一員としての自分」や「ここまで自分を育んでくれた方への感謝の気持ち」を意識するという視野の広がりが欲しいところです。

 これを読んで思いました。私たちが今こうして生かされています。それはただではありません。大きな犠牲が支払われたのです。主イエスキリストの血潮であります。

 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エペソ1:7)。

 「パッション」という映画がレント(灰の水曜日・2月25日)に全米で封切られました。イエスの受難を描いた映画です。私は見ていません。しかし試写会などで見た人たちが全世界で感想を語り始めています。賛否両論はあります。しかしある人は書いています。

 「返り血を浴びそうな生々しいシーンを延々と見せられ、正直何度も目を背けた。それと同時、こういうことだったのだ、と思った。『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ』とは、こういことだったのだ、という驚愕。そして自分はその場で祈る。この信仰告白が私の真実になりますように、と。胃のふが痛み、涙が止まらないような感情に揺さぶられる。しかし私の心を捕らえて離さないのは、苦しみの極みにあるイエスの慈愛に満ちた眼差し。」そう書いてイザヤ書53章を引用するのであります。

 「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:5)

 主は全てを与えて下さった。親が一人の子を社会人するために二千万かかる。それがどうしたということであります。主は私たちを教会員にするために、パッションという映画でさえも描き切ることが出来なかったはずの、激しい苦しみの代価を払って贖って下さったのであります。私たちはもう全て与えられている。これ以上何も必要がないほどに。主の慈愛、主のお命、主の御体、御血潮、罪の赦し、全てを頂きました。残されたことは、ただ感謝することだけであります。


 祈りましょう。  主よ、あなたは、私たちに御子の命を与えて下さいました。この恵みの余りの大きさに驚きつつ、感謝の応答としての献身の道を進む者とならせてください。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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