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2004年 3月14日 「聖霊の充満 -キリスト者の完全-」

2004年 3月14日 「聖霊の充満 -キリスト者の完全-」

(カナの主日夕礼拝説教)  山本裕司 牧師

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。(テサロニケ一5:23)

 使徒パウロは「霊も魂も体も」と書きました。ここに人間を三つの部分として捕らえる人間理解があります。皆さんはこれを聞いてどう思うでしょうか。人間は三つではなく、二つだと思った人がいるかもしれません。「魂(心)と体」、それが人間を作っている全てだ、と思う人もいると思います。私たちが受けてきた教育とは、この「心と体」を欠けたところのないものとして完成させるためです。家庭も学校もそのために存在します。子どもは生まれると直ぐお母さんから言葉を学び始めます。その言葉を用いて、だんだん難しことを学んでいく。沢山の教養、知識、それに裏打ちされた理性を心の中に育てていくのです。体もまた、小さい頃から遊びの中で運動し、学校に入れば体育があり、体を鍛え、一生健康に生活することが出来るようにします。人間は心と体だけで出来ていると覚える人は、もうそれだけで、十分満たされた人間が完成したと思うことでしょう。しかし何故か、聖書は「その二つだけじゃない、もう一つある」、そう語っているのです。心と体以外に、もう一つの人間を作っている部分、それは「霊」だと、聖書には書かれているのです。

 霊とは、目に見えないものを感じる感性の部分です。科学的に証明出来ない存在を(だからないと言えば言える)、それを感じる箇所です。そもそも、この人間の第三の部分「霊」自体が、他の「心と体」と異なり、その存在を科学的に証明することが出来ません。しかしその科学的に証明出来ない霊の部分こそ、目に見えないもの、科学的に証明出来ないものをキャッチする部分なのであります。それは、言い換えるなら、宗教性と言っても良いと思います。神を感じ、神と人間が触れ合う部分です。昆虫は触覚を持ってます。それを動かしながら移動します。それは昆虫の目にはよく見ることが出来ない、しかしそこに存在する物を、触角で感じるためです。それと似て、私たちは、霊の部分を持っており、その触覚を伸ばすことによって、霊なる神を感じることが出来る。また、この私たちの霊の部分に、神の霊を迎え入れることが出来るのです。以下の人間創造の神話のように、神の霊(息)を納める霊的器が、人間には最初から神様によって造られ備えられているのではないでしょうか。
 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)
 
 もしそうであれば、私たちは、心に知識を蓄える、体を鍛える、それだけでなくて、もう一つ霊の部分を放っておかないで、ちゃんと充たすべきももので充たすことが、私たちという一人の人間を完成させるためには、どうしても必要なことになるのではないでしょうか。それは、キリスト教主義学校でなされてきたことであって、心は授業で豊かにし、体は体育で鍛え、そして霊は礼拝で育てる。それであるなら、公立学校の子どもは、霊の養いのため、なおさら教会学校の礼拝が貴重になることでしょう。

 私は夜遅く犬と散歩に行くことがあります。深夜ともなれば、道路はがらがらですが、タクシーだけは沢山走っています。走っている車は、タクシーばかりと言ってもよい。不況のせいでしょうか。殆どのタクシーはフロントに「空車」という赤い文字を光らせて走っています。行き先も定まらないまま、ただ真夜中の都心を走り回る膨大な数のタクシーは、何というエネルギーの無駄使いだと思います。またそれを運転しいるドライバーこそ、深い空しさに耐えながら都会を彷徨っていると思います。それを見ていて、かつてある牧師が「タクシーの譬」を教えて下さったことを思い出しました。空しく走るタクシー、しかし、もし誰かが手をあげて、そのタクシーを止めたらどうでしょうか。ドライバーは大喜びで客を乗せるでしょう。そして真っ先にすることは、その空車という赤文字のレバーを倒すのです。すると実車となる。それまで空車と呼ばれていたタクシーが、お客を乗せると実車となり、そこで行き先が定まる。そこでタクシー本来の「実」のある役割を果たすことが出来るようになる。ここに「空しい時」は終わるのです。

 使徒パウロは、先ほどの聖書の言葉で「霊も魂(心)も体も」と言いました。ここで注意したいのは、霊が一番最初に出てくるということです。誰でも、一番大事なものから順番に並べるものです。それは、心と体をどんなに鍛えても、それだけでは、決定的なものが足りないと言われているのではないでしょうか。
 昔「刑事コロンボ」というテレビドラマを見ていました。ドラマの中で、有名なスポーツ選手や芸術家、あるいは優れた知識人が、完全犯罪を狙った殺人を犯す。皆、超一流の人です。身だしなみも中身も完璧な人です。それに対して、コロンボはよれよれのコートをまとった風采のあがらない男。そのスポーツ選手とちょっと一緒に走っただけで、もう息切れがして倒れそうです。体力が全くない。また芸術や学問の分野もとんと駄目で、犯人から馬鹿にされます。しかし、その体力、知力に完璧な人が殺人者であり、コロンボは真人間です。「どちらが人間として完成されているのですか?」という皮肉っぽい問いが、そのドラマの底流にあると思いました。

 それに似て、聖書は、人間がどんなに心と体を鍛えても、それだけでは、何か決定的なものが欠けていると指摘しているのです。機械的部分、エンジンなどは最新テクノロジーの塊であり、なおかつ完全に整備される。外装、内装も流行のデザインで、しかも完璧にクリーニングされている。そういうぴかぴかのタクシーが、しかしそれだけでは空しく夜の都心を走り回るだけの存在のように。
 空車タクシーにはその存在を完成させる、決定的なものが欠けているのです。お客です。主人です。その「主」を得た時だけ時、空車が、実車「実り」をもたらす車と激変するのであります。
 逆に言えば、少々ポンコツでも、塗装がはげていても、お客が乗っているタクシーの方が、完璧に整備された空車より、より完成されていると言えるのではないでしょうか。
 私たちの人生もそうなのです。私たちの霊の部分にお客を乗せる。聖霊様に所定の位置に着いて頂く時、私たちは、空車でなく実車となる。その時、私たちは少々(かなり)知識と体力に欠けていたとしても、霊が充たされることによって「完全なもの」とさえ呼ばれるのであります。

 使徒パウロは、テサロニケ一5:23で、人間の「霊」の部分の存在と指摘しながら「全く聖なる者」、「何一つ欠けたところのないもの」さらに「非のうちどころのないもの」と、たたみかけるように、キリスト者の「完全」を論じています。また、私たちは礼拝最後の祝祷において毎週パウロの勧めを受けます。「兄弟たち、…完全な者になりなさい」(コリント二13:11)。この「完全」とは、決して私たちが心も体も完璧という理想的人間のことが言われているのではなく、何よりも、霊の部分が聖霊で充たされていることを意味するのではないでしょうか。そしてその霊の完成とは、私たちの努力にかかっているのでは決してありません。ただあの二千年前降って下さった聖霊様が、この時も、私たちの霊の部分に飛び込んで来て下さることによってのみ充たされるのです。自分の努力によって得られる完全ではなくて、聖霊の充満によって、ただ一方的な恵みとして与えられる「キリスト者の完全」が言われているのです。
 その時、私たちは、空しく彷徨うような人生でなく、聖霊から行き先を定められ、意味のある奉仕のために走り始めることが出来るようになる。その時、私たちがこれまで努力して得た教養豊かな心も、鍛えあげた体も本当に豊かに用いられるようになるのです。

 祈りましょう。
 主・イエスキリストの父なる神様。霊の扉を開き、聖霊様を今喜んで迎え入れることが出来ますように。そのことによって、どんなに教養乏しくとも、どんなに肉体は衰えても、聖霊の充たしによって、完全なものとされていることを喜ぶことが出来ますように。

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