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2004年 1月25日 「挫折を越えて」

2004年1月25日 「挫折を越えて」

  (使徒言行録 1:1~11)

 使徒言行録冒頭には「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから…すべてのことについて書き記しました」とありました。この使徒言行録の前にこれを書いた人は、既に第一巻を書いているのであります。その一巻とは、ルカによる福音書のことです。ルカ福音書と使徒言行録は、続き物であったと言われているのです。そこで思い出したいのは、私たちはこれまで、ルカではありませんが、同じ福音書・マルコを読み終えたところだということです。そのマルコ福音書の一番最後はこういう物語であったのを覚えておられるのでしょうか。早朝、イエス様のお墓に詣でた女性たちは、墓石が転がっているのを見つけました。驚いて、墓の中に入ると「白い長い衣」を着た若者が座っていて、主が復活されたことを告げたのです。それを聞いて、女性たちは墓を出て逃げ去った。「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)。これで、終わったのです。「え、これで終わり?」という感じではないでしょうか。そうであれば、私たちは問うでしょう。「そらからどうなったのですか」と。まさにそれに答えようとして、この使徒言行録は書かれたと言ってよい。「これが続きです」と。それは初代の使徒、伝道者の記録です。開拓伝道の旅の物語です。それがこの新約聖書の物語の第二巻となる。そしてこの新約聖書の筋道は、私たちの人生と重なるのではないでしょうか。私たちも主イエスと出会いました。出会ったからここにいるのです。それが第一巻ということではないでしょうか。その一巻の最後にマルコは「女性たちは逃げ去った。恐ろしかったからである」と書いてあるのです。ここから喜び勇んで伝道に出発したとは書かれていない。それどころか「だれにも何も言わなかった。」と書いてある。イエス様のことを知っているに、一応、復活の事実も聞いたのに、誰にも何も言わなかった。伝道をしなかった。これは私たちにも思い当たる気持ちなのではないでしょうか。

 私の父の葬儀は昨年秋、松沢教会で行われました。その葬儀の時、司式をして下さった堀牧師は、まさに「白い長い衣」、白いガウンをまとって葬儀を司って下さった。これはこの復活を告げた「若者の衣」をそのまま表現しているのではないでしょうか。何故葬儀の時、教会では黒い衣でなく白い衣(日本の習慣では最も華やかな晴れ着の色です)を着るのか、理屈ではよく分かる。でも、父の遺体の傍らに立つその目にも眩しい「白」い司式者の姿をいくら見ても、死の悲しみは拭われない。その白い衣の牧師がいくら「復活の希望」を教えて下さっても、いくら「あなたのお父さんはもうここにはおられない。死の滅びの中にはいない」と限りなく貴い説教をうかがっても、その葬儀の席で、私は堀先生と対照的に真っ黒な背広を着て、真っ黒なネクタイを締めて、心もまた真っ暗なまま小さくなって会衆席に座っている。ひとりぼっちでした。喜びは少しも湧いてこない。誰にも話したくない。誰にも会いたくない。どこにも出たくない。弟子たちが「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(ヨハネ20:19)閉じこもったように。そして「誰にも何も言わなかった。」伝道者でありながら、そこに何の証しも生まれはなかった。それでお仕舞い。マルコ福音書においてこの空の墓を見た女性たちもそうだったのです。白い衣を目の当たりにしながら、まだこの女性たちには何かが欠けていた。まして男弟子はさらにひどかったと言わなければならない。彼らは、最初あんなに熱かったのに、御国が来たら、私たちこそ右大臣、左大臣にして下さい、などと口角泡を飛ばしていたのに、主が十字架につかれる前にもうどこかへ逃げてしまった。第一巻・福音書の終わりの頃は、どこにも見当たらない。

 主イエスはかつて言われました。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ7:26~27)。

 男弟子も、主イエスから教えを受けていながら、まだ何かが欠けていた。土台が欠けていた。これらのことは全部第一巻に書かれていたことです。哀しい女弟子、情けない男弟子の物語で終わっている。私たちの人生はどうでしょうか。私たちもまた少なくても第一巻目に当たる人生はこれまで歩んできたのではないでしょうか。この中には洗礼を受けた者が多くおられます。私もその一人です。それは、主イエスと出会ったからに違いありません。その一巻目で、漁師であったペトロたちは、主の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)との招きに応え、直ぐ熱くなって伝道の旅を始めたと書いてある。私も洗礼を受けた時の身体の火照りを今でも覚えてる。しかしそれは第二巻目のつまり使徒言行録の世界とはどこか違ったのです。腰が据わっていなかったのです。土台がないのです。伝道の旅はレジャーとは異なる。いつも楽しいものではない。むしろ人の目には何が面白くてあんなことをしているのだろうと訝られるようなことが多い。

 石井錦一牧師はこう書きました。

 「やればやるほど裏目に出て、さらに絶望的になっていく経験を、伝道すことで感じた人は沢山いる。労働することなら、一日汗を流して働けば、それなりにここまできたという成果をみることがある。しかし、伝道は、どんなに苦労し、祈り、心をこめていたとしても、ほんのちょっとでも人の心を神に向けることが出来ず、全て空しく終わってしまうことが多い。伝道は、自分のしたこと、考えたことを計算したらプラスになるものは何も出てこない。」

 初代教会最大の伝道者パウロは言いました。

 「難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」(コリント二11:25~28)。

 しかし石井先生は、使徒パウロはどんな苦難にあっても、第一巻目の弟子たちのように、伝道を止めませんでした。パウロは勧めた。「いつも喜びなさい」。「常に喜びなさい。重ねて言いますが喜びなさい。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りなさい」(フィリピ4:4~5)、そう同労者を励まし続けました。自分自身に語りかけるように。彼にこの伝道と教会建設の苦しみに耐えさせるものは何だったのでしょうか。この上なき強靱な精神力でしょうか。その後、二千年の間に現れたどの神学者をも凌駕する頭脳でしょうか。意地でしょうか。そうではありません。心が変わったのです。魂に新たに何かが入って来たのです。一巻目でも弟子たちは確かに回心を経験した。そしてイエス様に従った。しかしその時、彼らは何も知らないのです。伝道の悲しみを、教会を建てることの重荷を、何も知らないのです。彼らは自分たちが宣べ伝えるキリストが、どんなに世間から受け入れられない存在であるか、痛いほど知る時が来る。主イエスから限りなき愛、恵み、祝福を頂きながら、しかしそれでいて、イエス様に自分を明け渡すことはしません。いいとこだけちゃんともらうけど、自分の気持ちに合うところはもらうけど、自分に都合が悪いことをイエス様が語り始めると、もう駄目です。さっさと逃げていく。弟子たちは本当に絶望したと思う。そして、逃げるその人たちの背中を見送るうちに、そこに自分自身の姿が重なってくる。魂が冷えてしまうのです。氷のようになっちゃう。その気持ちは伝道を一度もしなかった者には決して分からない思いです。それは伝道をした者だけが知る敗北感です。伝道者は病気になります。心の病気になります。だんだん鬱的になります。自分の人生の大半を使って、それがこの報いかと思うと、もう一度、人生をやり直したくなる。一度網を捨てた弟子のペトロが、ガリラヤ湖に逃げ帰って、また網を手にとって、魚をとり始めたように。

 ある牧師はガーデニングが趣味だと言われる。のめり込んでいる。「先生何がおもしろいんですか」そう尋ねたら「植物は嘘つかないからな」と答えられた。草花は手をかけただけ正直に応えてくれるそうです。しかし人間は駄目だ、とおっしゃりたかったのではないか、と思う。伝道者の信仰も嵐に押し流さる。それが第一巻目の結末。「そして、だれにも何も言わなかった。」それで終わる。ああ、これで全部終わったのだ、そう思った瞬間、しかしルカは「それで終わりでない!」と大声で語り始める。「ここに第二巻が始まる」と。そこで二度目の回心が起こる。二度目の献身が起こる。

 復活の主は、約束して下さいました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4~5)

 離れちゃ駄目だ。もう逃げちゃ駄目だ。一巻目では、あなたたちはいわば、水のバプテスマを受けたに過ぎない。今、この二巻目で、あなた方は聖霊のバプテスマが授けられる。今こそ、魂に暖かいものが入ってくる。第一巻目は、いわば何も入っていないで火にかけられたヤカンのようなものだ。一時危険なほど真っ赤に熱せられたが、この世の思い煩いがくると、直ぐ冷えちゃう。しかし二巻目は違う。そのヤカンの中にお湯が充たされるだろう。それは穏やかな暖かさで、しかしいつまでも冷えない。それが今あなたの魂を充たす聖霊様なのだ。そこであなた達の土台が出現する。嵐にも耐える家の土台が。

 私たちの洗礼を、二つに分けて考える必要はありません。私たちはこの教会で洗礼を受ける時、水の洗礼を受けると同時に聖霊の注ぎにあずかるのです。それは同時に起こるのです。しかし私たちの頑なな魂は、最初は良くても、いつの間にか、その聖霊を無視して、いないことにしているのではないでしょうか。その時、復活の主は「あなたは、もう水の洗礼だけになっちゃったね」と言われる。もう一度、その水を暖めて頂きなさい。聖霊様によって。その時、あなたの第二巻目が始まる、と。第一巻で終わったら大変です。「あれ、これで終わり」ということになっちゃう。私たちの信仰の人生も「えっ、これで終わり?!」。それは本当に中途半端です。どうしてそんなことになったのか。それはいわば、水の洗礼だけで、歩んできたからではないでしょうか。それは自分の信仰熱心さだけでやっていこうとした。つまり聖霊なしの信仰者です。神の力に本当には少しも頼っていない信仰者の姿であります。神が働かれる。聖霊が働かれる。この使徒言行録とは、以前、使徒行伝と呼ばれ、それは多くの人が言い換えました。これは「聖霊行伝」だと。使徒がよくやったのではない。だから教会が建ったのではない。その使徒の働きの背後に、聖霊様の弛まぬお働きがあったのだ、と。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)

 ここから私たちの第二巻が始まっていく。挫折を越えて、復活の証人となる歩みが始まる。信仰の旅は続く。もっと遠くへ、もっと彼方へ続いていく。地の果てまで。これからなのです。何十年と信仰生活をしてきて、教会生活の表も裏も知り尽くした信仰者がおられる。そして「先生、もう疲れました。私は老いました。引退します。」そう言われる。しかし「え、これで終わり?」となってはいけない。今日から第二巻が始まる。

 「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)



 祈りましょう。  神様、どんなに自らの力に絶望しても、聖霊様のお力を侮る罪だけは犯さないようにさせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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