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2003年10月19日 「青年はどこへ行ってしまったか」

2003年10月19日 「青年はどこへ行ってしまったか」

  (ルカによる福音書 15:11~24)

 今回の日韓合同修養会は「青年よ大切に用いられる器になろう」という主題です。しかし、私はこの修養会の準備会のために来日された丘牧師が最初に提示された主題にも魅力を感じるです。それは「青年はどこへ行ってしまったか」という言葉でありました。

 この言葉は私たち日本の教会にとって、あまりにも的を射ている問いなのです。元々日本におけるキリスト者人口は1パーセント程度でしたが、経済優先の価値観なども災いして、日本基督教団は急激な教勢低下に直面しています。教会から青年がいなくなり、生涯を伝道に捧げようとする20代の若い神学生は本当に少なくなりました。このままいけばあと10年くらいで、信徒数は現在の1/3になるという予想も出ているほどです。経済大国となった韓国も日本と似た推移を辿るかもしれません。そのような危機感の中で、私たちは、まさに「どこかに行ってしまった青年」の代表として、ルカ福音書15:11以下に記される「放蕩息子の物語」を思い出すのです。

 この息子は、父から愛されて育ちました。小さい頃は、お父さん、お父さんと慕っていたに違いありません。ところが、成長する。すると自分がいつも父親の監視を受けている不自由な存在に思えてくる。青年の心は激しい自由への憧れのため溢れそうです。だから息子は父に独立を願い出る。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(15:12)。遺産とは父の死と引き替えに得るものです。ということは、息子はここで、父をもう死んだことにしている、と読むことも可能です。父より金が大切になったのです。

 その時どうしたことでしょう。父親はここでは、何も言わない。息子の言うがままに、財産を分けてあげるのです。とがめないのです。それほどこの息子を信頼していたのでしょうか。そうではありません。父はこの息子の弱さをよく知っていました。自分に与えられた自由を未だコントロールする力は備わっていません。父には豊かな人生経験があります。都会にどれほど激しい誘惑が渦巻いているか。息子は誘惑に負けて、罪を犯し大失敗をする、その可能性があるということを、父はよく知っている。それでいて、じっと黙って送り出すのです。

 父は息子に無関心であったから沈黙していたのではありません。みすみすとてつもなく危険な世界に最愛の者を旅立たせてしまうのです。これで息子を永遠に失ってしまう可能性もあることを知りながら、それを強い自制心をもって顔に出さない。その父の気持ちを少し知らないまま、息子は莫大な金を懐に意気揚々と遠い国へ旅立つのです。

 聖書の物語はみな関係がありますが、この放蕩息子の物語の原形・創世記3章を先ほど読んで頂きました。最初の人間アダムとエバの堕落の物語です。ここでも、この創世記3章に至ると不思議に感じるのですが、急に神様は舞台から一時消えてしまうのです。そしてエデンの園の中心には、禁断の木だけが風に揺らめいている。そして蛇が誘惑するのです。この時も神は沈黙している。それは、神様が人間がどうなろうと知ったことではないと無視していたからではありません。禁断の実にだんだん魅せられていくエバの姿を、どれほどはらはらしてご覧になっておられたか。止めることなど何でもなかったのに、神はじっと陰に隠れる。どうしてか。それは神様が人間を本当に尊く思って下さり、人間の「自由」を重んじて下さるからに外なりません。ロボットや奴隷のように人間から自由意志を奪って、御自分に従わせることを、神様はお求めになりません。その人間の自由の象徴こそ「禁断の木」の存在なのであります。

 「青年はどこへ行ってしまったか?」、日本における一つの答えは「カルトに行ってしまった」ということです。統一協会など多くのカルトが日本で猛威を奮い、多くの青年たちを吸収しています。カルトはマインド・コントロールを用いて、その人間の自由な判断力を奪う組織のことです。人を奴隷にして人間の尊厳を奪う、それがカルトです。しかし、この放蕩息子の譬え、禁断の木の実の神話を読むと、聖書の神がどれほど、人間に自由を与えておられるか、それはどれほど、一人の人間として私たちを愛して下さっているかが、分かってくるのです。

 「可愛い子には旅をさせろ」との日本の諺があります。それはまさにルカ福音書が描く父の心だと思う。本当にその子を愛しているなら、親は子に自由を与えるのです。危険を承知で禁断の木のはえる場に出ていくことを許し「選ぶ自由」を与えるのです。本当に子を愛する父は、子を自分の奴隷にしない。どんなに未熟だと思っても、独立した尊厳をもった人間として扱う。神もそうです。神はご自身の身を切られるような不安を覚えながらも、しかし愛の故に息子(つまり人間)が家を出る自由を与えるのです。それなしに、人間は真の人間、尊厳をもった本格的人間とはなれない。大人になれないからであります。しかしそれは大変な危険を伴う自由です。その自由を用いて、父なる神は正しく生きてくれることを願うのです。しかし逆に、人は神を棄てその必然として、自分の命を失う危険に落ち込むかもしれないのです。その自由を用いて人間は「最悪の選択」をするかもしれないのです。そして、聖書は、事実、人間はその自由を用いてまさに「最悪のことをした!」と書くのです。神が沈黙の内に最も恐れていたことを、まさに人間は選んでしまう。息子は、都で放蕩に身を持ち崩し、最初の人間は禁断の木の実を食べる。それは父なる神を棄てたということに他ならない。その結果として、人間は滅びる寸前まで行くのであります。

 人が大人になるとは、何と厳しいことでしょうか。そして父が父となることも。父は生きるか死ぬかの危機の中に、子を行かせなくてはならない。父が子を愛するなら、真実に愛するなら、尊厳をもった一人の人間として子を扱うなら、父はどんなに不安でも、子を「自由の大海」に出さなくてはならないのです。

 放蕩息子は自由の海原の中で、自らの欲望を、案の定、制御することはできませんでした。都会の楽しさに夢中になりました。そして全てを使い果たしてしまいます。無一文になった瞬間から、都は微笑みかける存在でなくなり、ただ息子を冷たい路地に放り出しただけでした。「金の切れ目が縁の切れ目」なのです。彼はもはや選ぶこともできないまま、町で出会った誰かに闇雲に助けを求める外はなくなるのです。迷路にはまった青年がむやみにカルトに入信するように。「それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた」(15:15)。彼は自由どころか、ここで再び「主人」を持つしかなくなる。そしてこの主人とは、故郷の父とは全く違って過酷な存在でした。「豚を飼う」とは、我々の言う養豚とはまるで意味が異なります。ユダヤ人にとって、豚は汚れた動物であり手を触れることも違反でした。彼は自由どころか、故郷にいれば彼が決してするはずもない「最も汚れた仕事」に手を染めねばならなくなる。しかし彼はもう完全な奴隷であって、それを止める自由はないのです。それはカルトに属したが故に、数年前の自分なら考えることもできないような、犯罪(霊感商法、サリン散布など)を犯さねばならなくなる日本の青年たちの姿を思い出させる。これは本当に息子にとって皮肉なことです。自由を求めて出発して得られた身分は、自分の意志を一切を奪われた最悪の奴隷だったのです。

 その時、彼は「我に返った」(17)と記されている。ある教師(塚本虎二)は「正気に戻った」と、ここを訳しました。そしてその人は「だいたい人間というのは、何事も自分の思い通りになる得意絶頂時は、大抵は頭がおかしくなっている」そう書いています。そして「どん底まで落ちて石垣に頭をぶつけた時、人は目を覚ますものだ」とも言っています。いえ、一方、どん底まで落ちて破滅する者もいると私は思います。実際、カルトに行ったために自殺した青年、精神的に破滅してしまう者も多いのです。この時、事実、放蕩息子は自殺の誘惑を受けていたのではないでしょうか。しかし息子は、何故か、それを思いとどまる。どうしてそんなことが
出来たのか。ここがこの物語で最も大切なところなのであります。

 この絶望の中で、彼の命を守ったものは何か。それが、故郷の記憶、父の記憶、つまり愛の記憶なのではないでしょうか。私たちで言えば、幼い頃、両親に連れられて通った教会学校の楽しかった記憶に似ているものだと思います。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある」(17)。有り余るパンがある、つまり父の愛が有り余るほど溢れている、それが故郷(教会)であることを、息子は思い出すのです。

 だから息子は立ち上がって恥を忍んで故郷に向かって歩き始める。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」(18~19)

 罪を犯した自分だが、こう言えば父に迎えてもらえるかもしれない、何度も何度も唱えるのです。長い帰路です。ついにこれを暗記してしまったかもしれない。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(18~19)

 その頃、父は今日も一日、草原に聳える大樹のように立ち、地平線を見つめていました。いつも都の方向をずっと見つめている。そしてそこに黒い小さなけし粒のような影が見える。見えたとたん父は走るのです。先の教師は、父の目は、遠視だと書いています。この父の目は望遠鏡のようだと書いています。もう父の目は遠くしか見えない。遠い町へ行ってしまった息子だけに目のピントを合わせてしまった。神の眼差しとは、そういうものだと言うのです。その異常な視力によって、なお遠く離れた息子を発見した時、父は走った。そして息子に抱きついて接吻した時、息子は、暗記していた言葉を言い始める。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。…」(21)

 しかし、父は最後まで言わせません。「雇い人の一人にしてください」とは言わせない。主イエスは、21節で、その台詞をカットされました。それは「そうじゃない。お前は息子だ、尊厳をもった自由な人間なのだ」との意味であります。そして父は、15:22「いちばん良い服」、「指輪」、「履物」で彼の裸を覆うのです。注解書には、これは全て「子のしるし」と書いてある。奴隷でないしるしです。

 こういう父であることを、息子は旅に出る前は何も知らなかったのです。人間は皆、この父なる神の愛を知らない存在なのではないでしょうか。ただ、聖書というと、煩わしい戒めを与え、人生を窮屈にするものくらいに思っているかもしれない。都会には経済には、目眩く喜びがあるように思う。しかし、本当にその神なき世界で苦しんだ時、全ての人間の心の奥底に隠されている、自分の生命を生み出した存在に対する、絶対的信頼感のようなものが浮上してくる。人間の深層心理には、皆、父なる神の記憶が隠されているのではないでしょうか。愛そのものである存在が。その父なる神の愛の記憶が、もう死ぬという瞬間に浮かび上がってまいりまして、彼を守る。自殺と精神錯乱、あるいは殺人から守る。17「父のところでは…」という記憶が。そこには愛が溢れていた、ということを。この根源的信頼、私は、どれほどひどいことになっても、帰るところがある、そこで、自分は首を抱かれ、接吻を受けるであろう。その信頼感こそ彼を守ったのであります。

 そうであれば、私たちは自分たちの息子、娘たちに今、何をすれば良いのでしょうか。幼い時に父なる神の愛の記憶を与えることであります。主イエスの家には、有り余る愛の豊かさがある事実を教えるのです。それを思い出せば、青年はどこへ行っても帰って来るでありましょう。神がどれほど、私たちを愛し自由な人間として遇して下さっているか、教会がそれを語り続けていれば、青年はいつか必ず帰ってくるでありましょう。そして、神に豊かに用いられる器として、成長することでありましょう。


 祈りましょう。  主イエスキリストの父なる神さま、しかも私たちにとっても父となって下さった御神、このお一人の父をもつ私たちが、事実として今、国の隔てを越えて、兄弟姉妹の交わりをなすことが許され、心より感謝致します。どうかこの合同修養会で、老いも若きも、この父の愛だけが、私たちを教会に立ち返らせ、引き戻す唯一の引力であることを覚ることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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