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2003年 9月21日 「満月の光に照らされ」

2003.9.21(日) 「満月の光に照らされ」

  (マルコによる福音書 14:10~21)

 今、私たちはこう讃美しました。

1. 紅海を渡り過越を祝う 小羊の宴で 歌え、王なる主を。 
2. 十字架に裂かれた聖なる御からだ。その血を味わい、われら主に生きる。
3. 小羊キリスト、まことの過越。種入れぬパンは 今、ささげられる。  (讃美歌21-312)

 ここには繰り返し「過越」という言葉があります。ユダヤ最大のお祭りが、過越祭です。この過越の祭りの起源は出エジプト記12:21以下に記される大いなる物語に遡ります。

 その時代、イスラエルの人々は国を持ちませんでした。大国エジプトの奴隷であったからです。そこで、王ファラオを神と仰ぐ、偶像崇拝の帝国エジプトを富ませるために、過酷な労働の日々を送っていた。牛馬に等しい扱いを受け、それ以上に苦しかったのは、おそらく礼拝の自由、真の神を礼拝する自由が許されていなかったことにあったと思います。当時の王ファラオはラメセス二世というエジプト史における屈指の王でありました。戦に強く多くの国々を滅ぼし、ついには、自らが太陽神ラーと合体し神格化した最強の王でした。誰が、そのファラオ・ラメセス二世に対抗出来るでしょうか。まして丸腰の奴隷たちがどうして、ラメセスに勝利することが出来るでしょうか。

 しかし、その奴隷・イスラエルのうめき声が、真の神に届いたのです。そして指導者モーセが立ち上がりました。しかし、奴隷解放を求めるモーセとファラオとの交渉はことごとく決裂した。モーセの希望を、ファラオは決して受け入れませんでした。そのために、最後、ついに神は非常手段に訴える。それは、エジプト中の初子を撃つ、という裁きでした。そのために、春の夜、神は、あるいは、神の遣わせる疫病の霊は、エジプト中を行き巡った。その真夜中の空には満月が光っていた。「春分後の最初の満月の日」こそ、過越の出来事が起こる日であったのです。エジプト中に死が充ちた。死人の出なかった家はなかったのです。

 奴隷の初子も例外でない。しかし主は、死の滅びから逃れる唯一の方法をイスラエルに示しておかれたのです。それは、小羊を屠って、その血を家の鴨居と柱に塗るということでした。その血を見られた神は、イスラエルの家を過ぎ越される。だから、その夜は、満月でなければならなかったのではないでしょうか。神が犠牲の小羊の血をご覧になるために。鴨居と柱に塗られた犠牲の血を見て、疫病の霊は、そこをパスする。過ぎ越すであろう。これによって、イスラエルは救われる。自らの長男を失ったファラオは、これ以上被害を増さないために、イスラエルの自由解放を告げるのです。彼らは、朝になると、民族大移動を始める。約束の地を目指して。そういう物語であります。

 今朝私たちに与えられました福音書の物語は、それから、約1300年後、主イエスとお弟子たちが、その祝いの過越の食事会を開こうとしている場面であります。その会を後の人々は「最後の晩餐」と呼びました。

 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。」(マルコ福音書14:22~23)

 次の日、金曜日に主イエスは十字架につかれました。そこで、主はパンのようにお体を裂かれました。また葡萄汁のように血を流されました。裂かれること、血を流すとこと、それは主にとりまして、非常に苦しいことでありました。しかし、主はそれをして下さるのです。どうしてか。

 先ほど、過越の祭りの起源を話しました。その出来事によって、イスラエルの人々の命が救われる。そして自己神格化した偶像、ラメセス二世の手を逃れて、真の父なる神に立ち帰ることが許される。その自由解放のドラマ、それはどうして可能であったのか。それは、全て小羊の犠牲によったのです。その夜、小羊が悲痛な声を上げながら、屠られ、その流された血が、鴨居と柱に塗られることによって、イスラエルは救われました。そして驚くべきことに、それから1300年後のゴルゴタで、主は新たなる過越の小羊となって死んで下さったのであります。使徒パウロがこう言ったように。

 「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(コリント一5:7)。
 
 人間の罪の中でも際だつのは、裏切りの罪です。先ほど、詩篇41編を交読しました。嘆きの詩篇の一つです。この詩人は元々、思いやりがあった人のようです。時に弱い者、貧しい者を、自分の食卓に招いて、飢え渇きを満たしてきた人のようです。しかし、彼は病気になりました。力を失ったのです。恩を受けた人たちが見舞いに来た。「早く良くなってください」と言ったかもしれない。しかしそれは空しい言葉でした。心は悪意に満ちている。陰では「早く死んでその名も消えうせるがよい。」(詩篇41:6)と話し合っている。そして、見舞い客は、病室から出ると、互いに「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい」と笑いを抑えるのが精一杯なのです。それが寝床にまで人伝にでしょうか、聞こえてくる。「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします」(14:10)。

 恩を仇で返されたのです。その食卓において、裏切られたのです。この痛烈な詩人の歌は、主イエスの言葉「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」という言葉と似ている。主イエスはこの詩篇詩人とご自身をここで重ね合わせておられるのです。この最期の晩餐と呼ばれる、過越の食事は、まさに主イエスが憐れみの心をもって準備し、まさに霊的に飢え乾いている貧しき弟子たちを招いて養ってくださるこの上なき愛の食卓でありました。ここに招かれるということは、どんなに嬉しいことでしょうか。しかしそこで主イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(14:18)と言われたのです。時は「夕方」であったと書いてある。夕暮れの光が少しずつ引いていき二階座敷も薄暗くなりました。そして、夜がやってくる。それは、この愛の食卓に真っ直ぐに応えられない、弟子たちの暗さ、特にその代表者としてのユダの心の深い闇と重なるのであります。

 高久眞一という学者が「最期の晩餐」の絵画を紹介しています。その一点、13世紀後半頃の作品で、元々はどこかの修道院の食堂の壁にかけられていたと思われる、ビザンチン様式の絵画があります。弟子たちは皆、主イエス同様、頭部に金色の光輪が見られますがユダだけは例外です。この種の作品では、ユダ一人だけが光輪を欠くという例は多くありますが、ここではユダも光輪は持っている。しかしその光輪が他の金色と対照的に、黒く塗り込められているのです。それは、彼の邪悪さを強調するものだ、と解説されます。そして他の弟子と異なり、ユダだけがイエスをじっと見上げている。それは、詩篇121編を思い出させると言うのです。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか」。この詩人の姿勢がユダに現れていると言うのです。主イエスを見る。その頭部を真っ黒にして、主イエスを見つめるユダの心とは、これまではこの人こそ、メシア、救い主であると思って見上げていた、しかし、そこで問い始めるのです。このお方には、真の力はない。人を救う力はない。社会を救う力はない。一体「私の助けはどこから来るのか。」もう自分は分からなくなった。そのような思いの中で、主をじっと見つめる心であったと思う。そのユダの心とは、自分がイエスを裏切る、それ以上に、自分こそイエスから裏切られたのだ、そのような思いだったのではないでしょうか。裏切られたと思うから、裏切るのです。その理由は定かではありません。ユダは武力革命を望んでいた熱心党と関わっていた。イスラエルから、武力をもって偶像の国ローマ帝国を追い払い、あのモーセの時代に起こったような、自由解放を勝ち取りたい、それが救いだと考えていた。最初、主イエスは人々からモーセのように熱狂的に迎えられ輝いていた。しかし今は何もかもくすんで見える。夜の食卓の中で、その顔には陰がかかっている。イエスはこの世の力を一切用いない。武器を取ることを拒否する。金の力も信じない。大切なのは愛だと、敵をも愛する愛だと。非現実的なことばかり語る。その落胆は激しかったと思います。しかし、それは私たちにも思い当たるのではないでしょうか。教会に対する期待はずれの思いです。主イエスの救いが、もう自分にとって意味をなさないのです。罪の赦しの贖いと言われる。復活の命と言われる。しかしそれよりも、今、目にはっきりと見える分かり易い楽しみ、手応えある喜び、現実の解決、出世すること、金が儲かること、それが自分を自由にする。がんじがらめの会社勤め、奴隷のように家族に仕える生活から、自分を自由にするのは、それだと思うようになる。その時、教会に行って聖餐に与る。そのパンを食べ、その小ささ味気なさを味わうこととなる。これが何になると。そして、教会を去るのです。自分は裏切られたと言いながら。自分の期待している喜びを与えない教会は悪い、と言って、去っていく人がいる。主の食卓に与らないことなど、そこではもはや何でもないのであります。自分の気持ちが大切だからです。自分の期待に反するなら、聖餐など、どうでもいいのです。主がこれ以外に、あなたたちの甦る道はなないと言って備えてくださった食卓、私たち貧しい者を養うために、心をこめて準備してくださった、その聖餐の席で、私たちの方は主を足蹴にするようなことをするのです。そして、目を上げて、もっと別の救いはどこから来るだろう、などと寝ぼけたことを言う。主の限りなき恩を仇で返す。そんなことがあっていいわけがない。絶対にあってはならないこと。それが裏切りです。主の命がけの愛に応えない。それが罪であります。夜となる。私たちの周辺は闇で閉ざされる。もはや生きる値打ちはない。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(14:21)、そう主は言われた。当然だと思う。そこで滅びるほかはない。終わりは近い。

 しかしその瞬間です。その二階座敷の窓から、光が差し込んできたに違いない。ユダの真っ暗な光輪を照らすために。思いがけないほど明るい月の光が入ってくる。この過越の祭りは「春分後最初の満月の夜」に開かれる定め。夜の闇の中で、罪を犯して、お前は生まれてこなかった方がよかったのだ、と神が判断され、神の裁きの霊が進んで来た時、主イエスがお体を裂き血をそこに流してくださる。満月の煌々たる光の中で、その憐れみの強い光の中で、鮮やかな血の色を見た、神の裁きの霊は、そこを過ぎ越していく。そこで、私たちの罪の輪が吹き払われるのです。満月の光に照らされる主の血潮によって。犠牲の小羊である主イエスが、生まれなかった方がよい私たちのために、ご自身が、生まれなかった方がよいと思われるほど、肉を裂き、血を流してくださることによって、私たちの根深い裏切りの罪を拭い去ってくださる。それがなければ、どんなに世界がひっくり返るような革命が起きても、どんなに理想社会の理念が構築されても、どんなに武力を蓄えても、バブルが再来しても、私たちは救われません。それは歴史が証明しています。主イエスはそのやり方でなくて、人の罪が許されること、その心の闇が光で照らされること、そこからしか救いは始まらないのだ、と言われ、十字架につかれる。主イエスを見上げて、どこに救いがあるかと迷うのでなく、ここに救いがあると確信し、もう二度と、主イエスを食卓において、裏切ることなき感謝する人生を、主の食卓にあずかる喜びから一歩も動かない人生を、私たちは歩んでいくのであります。


 祈りましょう。  食卓の主・イエスキリストの父なる神様。どんなに自然の太陽が明るくても、心の中は、夜のままである私たちを、あなたの光で照らしてください。主の食卓にあずかり、恩には恩を、愛には愛をお返しすることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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