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2003年 8月31日 「目を覚ましていなさい!」

2003年8月31日 「目を覚ましていなさい!」

  (マルコによる福音書 13:33)

 私どもが属します東京教区北支区、その一つの教会である王子教会の辻坂信嗣牧師がこの夏8月12日、53歳の若さで神に召されました。先生は、この王子教会で信仰を得られました。そこで召命を受け、お仕事を続けながら日本聖書神学校で神学の学びをされました。御卒業後、先生は関東教区高田教会において14年間牧会された後、本年2003年1月に、母教会である王子教会に赴任してこられたばかりでありました。ところが4月のイースター礼拝後の愛餐会において、よく食べることがお出来にならない。検査を受けたところ直ちに末期癌の診断を受けられした。5月頃、私が亀岡顕支区長と一緒にお見舞いをしました時、手術や抗ガン剤治療はせず、ターミナルケア(終末医療)のみを受け「奇跡を待ちます」とだけ静かに語られました。そしてこれまで通り、牧会、説教をされながら自宅療養を続けてこられたのです。7月27日の説教途中力尽きられ役員が説教原稿を代読し、しかし最後に祝祷はなさいましたが、それが、先生の説教の最期となりました。

 私は、8月15日に執り行われました葬儀におきまして、北支区を代表して弔辞を述べました時、このように語りました。

 今から、34年前の夏、北支区では、56歳の現役牧師がやはり癌を患って死去しました。鈴木正久牧師は、その死の直前20日前、自分は今、死に向かっているのではない、キリスト・イエスの日に向かっているのだ、と言われ、それを録音テープにこう残されました。

 「使徒パウロは、自分自身の肉体の死を前にしながら、喜びに溢れて、フィリピの信徒に語りかけているのです。パウロは、生涯の目標というものを自分の死の時と考えていません。そうではなくて、それを越えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。それが本当の『明日』なのです。本当に輝かしい明日なのです。

 そのことが、今まで頭の中で分かっていたはずなんですけれども、何か全く新しいことのように分かってきました。聖書というものがこんなに命に溢れた力強いものだということを、私は今までの生涯で初めて感じたくらいに今感じています。」

 王子教会の兄弟姉妹たちは、イースター以後、キリストの日に向かう辻坂信嗣牧師の説教を集中的に聞き続けてこらました。それは、それを聞く者たちにとって、おそらく、まさに「今まで頭の中で分かっていたはずなのに、何か全く新しいことのように分かってきた。聖書というものがこんなに命に溢れた力強いものだということを、今までの生涯で始めて感じられる。」そういう、目を覚ませられる経験だったのではないでしょうか。辻坂牧師はあの時、奇跡を待ちます、と支区長に言われた。その祈りを神は確かに聞いて下さいました。目覚めさせられ、聖書が本当に分かるようになるという奇跡が、この試練のただ中で、私たちの中に起こったのでは
ないでしょうか。 そう申しました。
 
 今朝、私たちに与えられた神の言葉は、まさに終末「キリストの日」について主イエス御自身がお教え下さった言葉であります。そこで、この短いマルコ13:32~36の中で、4回も、主イエスは言われた。「目を覚ましていなさい」と。どうしてか。明かなことであります。私たちは、神の言葉を前にして、しばしば眠ってしまうからであります。

 鈴木牧師は、そのテープの中で、キリストの日を目の前にして、自分は今本当に目覚めたと言っておられるのではないでしょうか。しかし、それなら鈴木先生はそれまで眠っていたのか。そんなことはない。おそらく、先生もまた、私たちと同様に、繰り返しその生涯の中で、目覚める経験をされたのだと思う。目覚めるのは一度だけではい。私たちは何度でも眠くなり、また、神の呼び声によって、目覚めさせられるのです。先生の名で発表された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」にもそれが表れています。そこでは教会が「見張りの使命をないがしろにした」ことを罪と告白しているのです。見張りの使命をないがしろにしたのは、眠り込んだからに違いない。この「告白」はまさに、鈴木先生の名をもって、日本基督教団に呼びかけているのです。「教会よ、これからは、どんなに夜が更けても、眠り込まず目覚めて、見張り台に立ち続けようではないか」と。

 「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(13:34)。ここで主イエスは、主の御昇天後から再臨の主の来臨までの「時の間」を、ある家の主人が旅に出る不在の時と例えられました。家には僕たちだけが残っているのです。僕たちは目を覚まして、主人から割り当てられた責任を果たしつつ「キリストの日」を待つのです。その割り当てられた仕事の一つを特別に主は具体的に挙げられました。それが「門番」であります。終わりの日の前に、偽メシヤが現れる(13:21~22)とありますから、門番とは、偽物が家の中に入り込まないように、門を固める、まさに「見張りの使命」を担うということです。ある人は、この門番こそ、先ず、牧師であると書いています。牧師は、誤った教理を教会の中に入れないために存在する門番である、と。そしてこの人は、いや、牧師だけが偽物に注意を払うのではなく、他の僕も目覚めていなければならない。何故なら、裏口もあるだろうから、と語っています。

 使徒パウロは言いました。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(テモテ二4:3)

 「都合の良いこと…」、口語訳聖書は「耳ざわりのよい話…」と訳しました。そうなると、表門がどんなに固められていても、僕たちが裏口から「どうぞどうぞ」と家の中に偽キリストを招き入れる、そして自分はちゃんと目覚めていると主張するのですが、そのような形で、信仰に眠り込んでいる者の姿をパウロは指摘しているのです。「自分好みの耳ざわりのよい話」では駄目です。どうして駄目なのか。いざという時に、つまり、キリストの日が来る時、その言葉は人を生かす力がないからです。そこに鈴木牧師が病床で感じた、どんなぎりぎりの苦難のただ中でも、私たちを支える、命溢れる力の言葉はないのであります。

 あるところで読みました。私たちは死ぬ、しかしそれで終わりではない。自分の子どもの心の中で生きる。教え子の心の中で生きる。勿論良いことです。私たちで言えば、今日、私が34年前に死なれた鈴木牧師のことを語りましたように、そして、私がそう言った時、皆さんの中で鈴木牧師から、それこそ、耳ざわりは良くなかったかもしれない、しかし本物の言葉を聞き続けた末ここにいる兄姉の心の中で鮮やかに、鈴木牧師は生き返る。それは素晴らしいことです。しかし、そうやって、死後も人の記憶の中で覚えられる、だから私たちは滅びない、ということ、それがここで言われているのではない。その人の実績、業績は残る。だから私たちは消えないというのであれば、それは所詮、葬儀の時しばしば聞かれる、死者礼賛に過ぎないと思う。人がどんなに自分の名を刻んだ石碑、銅像を残そうとするか。そうやって、何とか滅びを免れようとする。しかし時に墓地を散策すると、既に、何十年と、誰も墓参しなかったに違いないと思われる墓石が、草木に埋もれている。そうやって、訪れるべき遺族のもはや死んだのでしょうか。そうやって、この世から自分について記憶をもっている人もまた死ぬのです。あるところで読んだというのは、その死んだ自分についての記憶をもった人が次に死ぬ時、人は第二の死、つまり本当の滅びを迎える、そういう話でありました。そうであろうかと思います。いや、家は残る、国は残る、教会は残る、DNAは残る、と言われるかもしれない。しかし主は「天地は滅びる」と言われたのです。この宇宙も終わりがある。星々も、やがて、核燃料を全て使い果たした末ブラックホールとなる。ブラックホールとは、その巨大引力によって、光すら吸収するため、その存在自体が闇となる恐るべきもの。一つの仮説ではそこから宇宙は収縮を始める。ブラックホールに天体は引きずり込まれていく。ついには宇宙はただ一つの巨大な闇の固まりとなる。そして一切は無に帰する、と言われる。「天地は滅びる。」それを押しとどめることは、どんな耳ざわりの良い言葉でも不可能であります。しかしここで主イエスが本当に言いたかったことは、そうやって私たちを絶望させるのではなくて、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」ということ。全てが滅びる中で、しかし、決して滅びないものがある、それをじっと見つめなさい。その光を、と主は希望を語る。それこそ決して「滅びない言葉」であります。私たちの記憶をもった人が死に絶えても、DNAが失われても、宇宙が滅んでも、キリストの言葉は滅びない。それは、全てが無に帰する時、なお神はおられるということです。ベタニアで、主のために高価な香油を全て注いだ女の姿を指して、主は「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」(14:9)と言われた。決して滅びない記憶がある、そう言っておられる。どこで滅びないのか。永遠の主イエス・キリストの御言葉の内で。父なる神の御心の中で。宇宙の全てがブラックホールの闇の中に飲み込まれた時、なおこの記憶は残る。それは私たちの命がそこで残る。主の御心の内に、私たちの命は保たれ、私たちも永遠に生きる。そこに私たちの希望がある。

 耳ざわりの良い言葉を教会の中で語り、見張りの使命を怠った教団が、しかし今なお生きています。聖書を読んでいても直ぐ眠くなり、目の前が暗くなる私たちがなお生かされて、ここにいます。私たちの信仰がそうやって全てが闇に飲まれて滅びかけた時も、主の言葉はなお滅びない。そして繰り返し、私たちに「目を覚ましていなさい」との言葉をかけてくださる。それは主イエスの罪の赦しの福音であります。私たちの信仰が滅んでも、福音は滅びない。そしてその永遠の光は、私たちの心の不信仰の闇・ブラックホールに入り込んできて、そこを照らすでありましょう。全てのこの世の光を全て吸収し食い尽くす罪の巨大引力に負けない、それを凌駕する光として。

 そこで、私たちは信仰を甦らせることが出来る。私たちがどんなに罪の滅びを迎えても光は勝つ。ある学者は、ブラックホールの末に、その無の闇からもう一度、宇宙の凄まじき再創造は始まると予言しました。それに似て、私たちがどんなに罪のブラックホールの固まりになっても、そうやって、一切は滅びを迎えても、神の言葉はそこに響く。「光あれ!」と。そして私たちの新しい創造、つまり復活が始まる。闇は駆逐される。命が生まれる。これこそ、31節で言われた、決して滅びないと主が言われた希望の言葉であります。この「言葉」を守り続けるのが、門番たる私たちの務め。私たちは何と幸いな、名誉ある責任を任されたのでしょうか。


 祈りましょう。  私たちはこの家で、キリストの日を迎えるまで、門番として、目を覚まし続けることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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