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2002年12月12日 「紫の季節によせて」

2002年12月12日 「紫の季節によせて」

  (マルコによる福音書 7:1~13)

 今朝、私たちは、アドヴェント第3の主日を迎えました。教会暦は最初から、現在のような形であったわけではありません。教会の成長と共に、徐々に成長していったものです。アドヴェント(待降節)の最初の記録は、5世紀の終わり頃の資料に始めて見出されるそうです。その古い記録によると、アドヴェントは、11月11日から始まりました。それは現在の待降節より、ずっと長いものでした。それは、既に当時確定していた受難節(レント)と日数(40日間)を合わせるためであったとされています。つまりレントとアドヴェントは、最初から教会暦上ではワンセットに理解され、40日間守られてきたのです。従って、典礼色は共に紫であり、その意味はどちらも「深い悔い改め」でありました。 アドヴェントは、決して、クリスマスの前祝いの時ではありません。主の御苦しみを覚えるレント同様、結婚式などの祝い事は禁欲し、自らの罪に気づき、悔い改め、その罪から救ってくださる救い主の訪れを待つ時なのです。

 教会は悔い改めと罪からの救いを一つのこととして理解してきました。もし、この悔い改めなきままに、お祭りの時を迎えるなら、その祭りの力は、半減するでありましょう。そうすると、私たちは、この世と同じように、クリスマスを世俗化し、お祭り騒ぎに酔い、現状肯定に陥り、地の塩、世の光としての力を失ってしまうでありましょう。だから、教会は、いきなり、イースターやクリスマスを迎えるのでなく、その前に、必ず紫の季節を過ごすのです。

 今朝、私たちは、この紫の季節にまことにふさわしいと御言葉に差し掛かりました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。』」(マルコ7:6)

 イザヤは、決して、教会に一度も来たこともない人に、悔い改めを迫る預言をしたのではありません。「この民は口先ではわたしを敬うが」(7:6)とあります。礼拝を欠かさない人に対して言ったのです。しかしその信仰者が、紫の季節をちゃんと守らないとどうなっちゃうか、そこに偽善者が現れると言ったのです。

 ファリサイ派の人々が、主イエスの弟子達が食事をする前に、手を洗わなかったことを糾弾するために来ました。神様は聖なる存在であられます。ですから、私たちの身も、清まっていないといけない。日常の生活をしているうちに、様々な汚れに染まっているかも知れない。だから食前には、その汚れを取り去らなくてはいけない。それが食前の清めの洗いの儀式です。こういうファリサイ派の主張を簡単に、否定できません。これは神様の前に出る備えの問題です。準備をちゃんとしている。襟を正して礼拝に臨む姿勢が、それは形式だと言って、簡単に否定されることではないということは、明らかなことであります。

 しかしそこで「偽善者」と呼ばれるのことが起こる。汚れを取り去ると言うのであれば、それは、表面の手や足のことだけではない。その心における汚れこそ、洗うべきなのだ。それこそ、イースター礼拝やクリスマスの礼拝に臨むための一番大切な備え、飾り付けをするよりも、ご馳走を作るよりも、何を差し置いても、先ずしておかねばならない祭りの準備、それが「悔い改め」なのであります。

 さらに、主は「父と母を敬え」(7:10)という十戒の言葉を取り上げます。この神の戒めをあなた達はこう言い換えてしまっている。「だれかが父または母に対して、あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物ですと言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済む。」(7:11~12)

 「父と母を敬え」との戒めは、当然、息子は、老いた父母の生活を援助しなさいということが含まれる。ところが、ただ一つだけ、息子には両親に援助をしなくてすむ方法がある。それは、自分の持っている財産は「コルバン」(神への供え物です)と宣言すればよかった、そういう「言い伝え」を聖書以外に作ったのです。これも、直ちに、悪いことではありません。お金には限りがある。神様にどうしても、献金したいと思った時は、「コルバン!」と言えば、本来は父母に与えるべき金銭も、免除されるということです。これも信仰的な話でありまして、決して間違ってると言うことはできない。

 しかし主は、ここでも、表面あたかも信仰的な話のような事柄の背後にある偽善をじっと見つめておられるのです。「コルバン」、それはよい。しかし、あなた達の間で、それがどんなに一見、美しい信仰に見えても、その裏側に隠れているものは、老いた父母を憎み軽んじる心だ、それは御心に反する罪だと、主は言っておられるのです。

 今朝の物語に現れる、食前の手洗いと、コルバンの話、皆さんはこの講解を聞いておられてどう思われたでしょうか。退屈だったでしょうか。こんな話は、私たちの信仰生活と何も関係もないと思われたでしょうか。確かに、今「コルバン」何て発言する人は誰もいません。しかし、主イエスは最後にこう言われました。

 「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(7:13)。

 いや、あなた達も同じなのだ。同じ偽善に生きて、神の言葉を無にしている、そういうことは、どんなに時代がかわっても信仰者の中で起こり続けている。しかも「たくさん」。主は、このアドヴェントの礼拝において、「自分自身」からさえ隠されている、あなたの罪をちゃんと知って、クリスマスの備えをしなさい、そう言っておられるのであります。

 私は最近、アガサ・クリスティーの作品『春にして君を離れ』を読みました。膨大な作品を残したクリスティーですが、彼女はこの探偵も犯人も一人も登場しない作品を、「私を完全に満足させた唯一の小説」と呼びました。

 主人公の主婦・ジョーン・スカダモアは末娘が急病になったため、イギリスからバクダードに行きます。物語は見舞いが終わったジョーンが、陸路バクダードからロンドンに戻る時までの、内省的な数日間を描きます。

 大雨のために道路が寸断され、汽車が止まったため、ジョーンは、小さな宿泊所(レストハウス)に何日も足止めをされる。宿泊所のまわりには砂漠が広がり、何もすることがなくなったジョーンは、毎日、砂漠を見つめながら思いめぐらさなくてはならない。作者は、何故、ジョーンを砂漠に取り残したのか。それは、まさに、主イエスが荒野で、神と向かい合うため、お一人で、40日40夜、過ごされた、それと重ね合わせているのです。そして、私たちは最初期のアドヴェントの期間が40日間であったことを、ここで思い出さなくてはならない。私たちはクリスマス祭をする前に、この紫の季節、独りになって、自分の魂を見つめる必要がある。この女性は、そういうまさに砂漠体験を、孤独と禁欲の時を、何者かの力によって思いがけず経験させられる。

 その時、彼女に起こったことは、自分はこれまで、何もかも美しくやってきた。人も羨む家庭を作ってきた。夫と子どもにつくしてきた。自分は本当に良い主婦だった。ロンドンでは、そう思っていたことが、その砂漠の中で、次々に崩されていく、そういう経験をさせられるのです。

 例えば、彼女は思い出す。今回旅する時、ヴィクトリア駅に見送りに来た夫ロドニーの顔を、車窓から見ると、日光をまともに浴びたせいか、目尻の小皺が一本一本はっきりと浮き上がらせている。老いた疲れた目だった。深い悲しみをたたえているようにさえ見えた。夫は手を振った。汽車が少し動き出して、ふと、もう一度、ジョーンは後ろを振るかえると、夫ロドニーは既にプラットフォームを大股に闊歩していた。ジョーンは、あれっと思ったのです。急に若返ったような後ろ姿があった。その変わり様に、ショックを受けた。まるで遠ざかる夫の背は、青年のそれのように快活に見えた。その何気ないはずのことが、砂漠の中で、胸騒ぎをもって思い出される。「でもロドニーは、なぜ、汽車が出るまで待っていなかったのだろう。」ロンドンで用事を足さなくてはならなかったから、気が急いていたのだろうか。しかし、その時、初めてもう一つの声が聞こえてきたのです。「自分がいなくなるので、ロドニーは喜んでいる?!」

 今日も、また明日も、汽車は来ない。雨はとうに止み、容赦なく砂漠の太陽が照りつけている。相変わらず何もない。読む本も、言葉もよく通じないインド人以外、おしゃべりの相手もいない。静寂の砂漠に投げ出された心は、否応なく、過去に遡っていく。夫は弁護士であった。その一族は全員、法曹界の重鎮であった。しかしロドニーはある時、とんでもないことを言い出した。自分は農場を経営したい。昔からやりたかったのだ。ジョーンはその時、現実的に考えなければならないと返した。何よりも子どもたちのことを考えなければならない、と。私は利己的なことは一言だって言わなかった。私はいつも良い妻だった。いつも夫のことを第一に考えてきた。しかし、その時、夫が何気なく呟いた言葉を始めて思い出したのです。「事務所がこれはほどいやだってことが、実際に入ってみるまで、どうして僕は分からなかったのだろう。」その時、ジョーンは気づく。「全ては私本意の考えだったのだ。私自身が実は農園で暮らしたくなかったのだ。全ては、私の見栄えのためだったのだ。」

 私たちの今朝の言い方では、それが彼女の「コルバン!」だったのです。そうやって、彼からかけがえのないものを奪ったのだ。そして、もう一度、足早に、汽車から去っていく、つまりその妻から解放された喜びで、青年のようになって離れていく夫の背を思い出すのです。

 自分は、安楽な生活を求め面倒を避け、自分が傷つかないように家族の全てをコントロールしてきた。にもかかわらず、自分ほど正しく生きた主婦はいないと思っていた。全ては傲慢と自己満足に過ぎなかった。彼女は、砂漠のただ中で「助けてください、助けてください」と叫び始めるのです。「私は一人だ。私は一人だった。許して頂戴。私が悪かった。もう一度やり直したい。ロンドンに帰ったら、あのいつも優しいロドニーに赦しを乞おう。」混乱の中で、ついに誓います。その時、インド人が走って来た。「奥様、今、開通しました。汽車が来ます。」 彼女は悪夢から目覚め、ロンドンの家に帰ると、夫に赦しを乞うどころか、一切は前のままだった、そういう物語です。
 
 主は言われるのです。独りになって自分と向き合いなさい。そして自分がいかに恐ろしい罪を犯してきたのか。正義の名のもとに、自己満足のために、家族を、そして誰よりも神御自身を、どんなに傷つけてきたかに、気づきなさい。あなたの心こそ、木一本生えていない砂漠なのだ、と。

 しかし、その心の砂漠を見た瞬間、イザヤは歌うように預言し始める。「なおしばらくの時がたてば/レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる」(イザヤ29:17)と。「絶望ではない」と言っているのです。

 その砂漠のような心から、御子イエスが命の木を芽生えさせてくださる。そして、あなたの干からびた心を、森に回復するであろう。それがクリスマスの喜び。砂漠を通らなければならない。しかし砂漠に徹すれば、命の爆発の時が来る。真の救いが来る。主はだから私たちに悔い改めの準備を求めたのであります。


 祈りましょう。  主よ、静寂の時を与えてください。あまりに忙しく騒がしいのです。その静けさの中で、自らの犯した罪を知り、その心の砂漠のただ中に、御子がお生まれくださり、潤してくださる、真のクリスマスの喜びの日を迎えることが出来ますように。
 
 (この後、讃美歌21-248「エッサイの根より」を皆で歌った。)




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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