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2002年 5月 日 「私たちの家に来られる主」

2002年5月 「私たちの家に来られる主」

  (マルコによる福音書 1:30)

 一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。(マルコによる福音書 1・30)

 マルコ福音書1・16~20には、漁師シモンが弟子として召される物語が記されています。主イエスがガリラヤの湖を歩いておられる。その時、シモン・ペトロは湖で網を打っていた。主は彼に「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれたのです。すると、彼は直ぐに網を捨てて従いました。世界で最初のキリスト者がここに生まれたのです。いえ、世界で最初に、人間をすなどる「伝道献身者」が生まれたのです。牧師職の源の誕生と言って良いと思う。

 最近、神学校に入る若者が減っています。教会にそもそも通ってくる青年が減っているからだと思われます。しかし東京神学大学もそうですが、それなりに、新入生、編入学生を迎えて、毎年、学生数を充たすことが出来ているのは、年配の献身者が多くいるからです。会社員や公務員であった人が、その仕事を辞めて、神学校に入ってくる大人たちが多いのです。ペトロに遅れること二〇〇〇年、しかし、全く同じ主イエスの招きの声を聞いたからに違いない。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という。

 伝道に献身する。その最もよいことは、若い時、まだ他の仕事などに一度もついた経験もない真っ新な青年が、神学校に入り牧師になる。そうすれば、その人の与えられた、最も頭脳明晰な時期も含んで、全ての時間が神様に献げられるのだから、この上ないと私たちは何となく思う。神学校もまた、そういう一生を捧げてくれる青年の献身者を喉から手が出るほど欲しがっています。しかし、世界で最初の伝道献身者、世界で最初に主イエスが選ばれて、聖職にお召しになられたのは、既に職業を持っている人であった、このことは忘れられないことです。 主の召命の声が聞こえてくる。しかし大人たちは青年のように、身軽ではない。職のことだけではありません。

 シモン・ペトロは、今朝読みました、1・30に記されているように、姑がいた(マルコ1・30)のですから既婚者であった。彼は毎日、湖で網を打って、稼いで、その家庭を支えなければならなかったはずなのに、イエス様に声をかけて頂いた喜びで我を忘れたのか、それをいわば後回しにしてしまった。
 
 昔から、男が、道楽にうつつを抜かして、それはいつも酒とか博打のような悪いことばかりではないかもしれない。結構、価値あることであっても、そのために、仕事を放り出し、家庭を顧みず、妻や子どもを泣かす、そういう話は枚挙にいとまがない。ここでもまた、かっと燃え上がる、単純なペトロの気まぐれによって、変な宗教に凝ってしまった夫のために、家族は全て犠牲になってしまったのでしょうか。そうであれば、ペトロの献身は、いい気な者だと、言われるようなものに過ぎないのでしょうか。

 勿論、ペトロが家族のことなど顧みないやくざな男だったということはなかったと思う。主イエスの自分を招かれる、そのお声を聞き、この上なき美しい眼差しで見つめられた時、彼はもうどうしようもなかったのです。あらがうことが出来ない。神と出会う、キリストと出会うということは私たちにとって、そういうことでありましょう。キリストの圧倒的吸引力のために、彼はキリストに捕らえられてしまい、思わず献身してしまったのであります。しかし、その感激が去り、熱が冷めてみると、現実に引き戻されていく。これは無茶なことを決断してしまったと、ペトロも思ったのではないでしょうか。

 特に彼の一番の問題は、家に残してきた、義理の母の病気だったのではないでしょうか。それをほっぽり出して出てきてしまった。どうなっただろうと、不安で心は一杯であったかもしれない。

 その時、もしかしたら、主イエス御自身が提案されたのではないでしょうか。安息日の会堂礼拝が終わった後、1・29、主イエスは会堂を出て、ペトロの家に行かれるのです。どうしてそんなことをなさったのか。ペトロが旅の最中に、ふと不安げに家のある方向を見つめていた、その姿を、主は見逃されなかったのではないでしょうか。寝食を共にしながら、そのペトロの苦しみや不安を、主はみな自分のことのように、感じ取っていてくださったのではないでしょうか。主イエスとはそういうお方なのであります。

 主はペトロの家に入って、彼が暗い顔を見せるその理由を知ると、直ぐ、姑の手を取って、起こされた(1・31)。すると熱が去り、彼女は一同をもてなしたのでした。

 主は、私たちを召される時、従ってくるために起こる、私たちの不安や苦しみを、手に取るように理解して下さるお方なのであります。家庭のことなどどうでもいいのだ。そんなものを打ち捨てておけばいい。私にだけ全てを貢ぐのだ。そんなふうな言い方を主イエスはされません。逆であります。ペトロが一時捨てた家を、主イエスキリスト御自身は、あえて訪ねて下さり、助けの御手を延べてくださるのであります。

 ペトロは、この主のなさりようを見るまでは、主イエスへの献身と家庭への責任の狭間で板挟みとなり、この決して両立しない問題の前で心引き裂かれるような経験をしていたのではないでしょうか。普通、これは解決不可能なこと。一つのものに献身することは、他をみな捨てることでもあるからです。その献身が一途であればあるほど、他は顧みられなくなる。当然のことであります。あちらを立てれば、こちらが立たないのであります。献身という世界はそういう世界であります。命も時間も能力も財産も一切を対象に献げることを、献身と呼ぶのですから。
 
 キリストへの献身か、それとも、家族への献身か。神をとるのか、人をとるのか。私はどうしたらいいのか、と頭を抱え込む時、しかし、ここが大切であります。その永遠の疑問と思われる問いは、私たちが献身する神の子がどのような方であるかを知る時、氷解してしまうのであります。ここで大切なのは、私たちが何に、誰に、献身するかということであります。私たちが献身するお方とは、ただ自分だけが富み栄えることを求める、そのために信者を奴隷にして、その信者がどんなに苦しんでも意に介さない、そのようなお方ではない。私たちが献身したお方は、自分のために信徒の家庭が地獄のようになってしまっても、知ったこっちゃない、どこかのカルトの教祖ではなく、私たちの苦しみや不安、家庭の悩みをも全て深く深く思いやって下さるお方なのであります。

 そのお方は「長い手」(民数記11・23)をもっておられる。その手を伸ばして、どんな深い穴のなかに落ち込んでいる者も、どんなに解きがたい謎の底に沈む者にも、手を伸ばしてくださり、触れて下さる。闇の底から発する私たちの問いに答えてくださる。命がけで答えを探して下さるお方である。献身して、主に従ってくる者のために。

 いえ、実は私たちの献身は、「私は献身した」と偉そうに呼ぶには、結構お粗末なところがある。案外、人間的な喜びもちゃんと取っておいて、両また平気でかけて調子よくやっているところがある。そういう結局どっちつかずの罪を犯す献身者、名ばかりの献身者のために、主イエスというお方は、御自身が犠牲となって下さる。ペトロは、主が十字架につかれる時、自分の命欲しさに、三度も主イエスを「知らない」と否認したのです。何が献身でありましょうか。私たちも同じなのではないでしょうか。そうです。私たちが先ず献身したのじゃない。献身してくださったのは、主イエスキリストなのであります。主が私に献身して下さる。それだけじゃない。私たちの家族のためにも献身してくださる。そのために、私たちを召された。それが私たちが従って行く主イエスなのであります。私たちはこういうお方に呼ばれたのです。だからあらがうことは出来なかったのであります。このお方は、決して従ってきた私たちを悪いようにされない。何故か。私たちのために、命を献げて下さる覚悟をしておられるからであります。

 ペトロの家族は熱心に看病したことでしょうか。しかし誰もしゅうとめを起こすことは出来なかったのです。しかし、このペトロの信じた主イエスだけは、彼女を起こすことが出来たのであります。そうであれば、この一時、家庭を捨てて、仕事を捨てたペトロこそ、一見、最も悪い息子が、この姑にとって、最も良い息子になったのです。仕事を主のために捨てたが故に、金で買えない素晴らしい救いが家庭を充たしたのであります。

 私たちの家には、肉眼で見える主イエスキリストは来られません。目で見える形では、終末の日まで来られません。しかし、私たちは、今から家に帰ります。この西片の会堂から出て、帰ります。それは「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」(1・29)。これと全く同じ事をすることなのです。どこに帰るのか。病んでいる家族の者の傍らに。礼拝で救いの御言葉を聞いた私たちは、そこに遣わされるのです。そして、その家族の手を取るのです。「主の手は長い」とは、まさに、私たちが、礼拝をして、家に帰る時、現実となると思う。この西片の礼拝堂から、主の御手はずんずん伸びていく。私たちこそ、主の手の働きをするために召されたのです。そのような方法をもって、主イエスが私たちの家庭に訪れてくださるために、私たちは神に献身するのです。そして、苦しむ者を立ち上がらせるのです。主はこうやって、私たちを献身させることをもって、もっと豊かに、私たちが家庭と隣人を愛することが出来るようにして下さる。私たちが献身したのが、他の何ものでもない、主イエスキリストであったが故に、神への献身と家庭への責任は両立するのであります。献身における奇跡がここに起こる。私たちは何と素晴らしいお方に出会い、献身することが出来たのでしょう。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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