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2002年 4月14日 「愛は立ち上がる」

2002年4月14日 「愛は立ち上がる」

  (マルコによる福音書 1:9)

 イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。(マルコによる福音書 1・9)

 洗礼者ヨハネの洗礼の意味を、マルコ福音書は、「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」(1・4)と記しています。その時、主イエスもまた洗礼を受けられたのです。

 神の子イエスが、神そのものであるお方が、何故「罪の赦し」を受けなければならなかったのでしょうか。この世界でもし洗礼を受けないですむ人間がいるとしたら、それは唯一イエス様だけであられたと思う。しかし主は洗礼を受けられたのです。

 それは主イエスが、私たち人間の罪を負われる決意の現れだったと思う。罪の裁きを受けないですむはずの唯一のお方が十字架につけられたのです。十字架の上で、罪を知らない方が、私たちの罪を負われ担われた、そのことの先取りがこの主イエスの洗礼に表れているのであります。

 洗礼者ヨハネは、自分の洗礼の限界をよく承知していました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(1・7~8)

 ヨハネの洗礼、それは、決定的なものなき「水」だけの洗礼だったのです。その水には、本当に救いをもたらす聖霊が充たされていなかったのです。そして私は思う。その聖霊を、水の洗礼のただ中に充たすために、主イエスは洗礼をここで受けてくださったのだ、と。事実、主イエスが洗礼をお受けになられた瞬間、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて 霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」(1・10)という出来事が起きました。聖霊が洗礼の中に飛び込んできたと言ってよい。十字架で私たちの罪を贖ってくださる主の霊が滑り込んで来て下さった。その瞬間、ヨハネの水の洗礼が、真に罪の赦しを得させる、力ある洗礼となる。私たちが今教会で与ることができる人を真に救う力を持つ洗礼となった。そう言ってよい。

 今、洗礼の一つの意味、「罪の赦し」(1・4)について申しました。もう一方は「悔い改め」ということです。何故、神の子が、神御自身が「悔い改め」の洗礼をお受けにならなければいけないのでしょうか。悔い改めとは、元々の意味は「方向転換」という意味です。神様のお気持ちというのは、永遠に変わらない、岩のように固い決意であると私たちは推測します。しかし、私は聖書を読んでいまして、私たちの信じている神とは、お考えを変えるお方だと思う。いえ、少なくとも、私たちには、まるで神様が心を変えたり、極端に言えば、悔い改めておられる、そう表現しても許されるようなお方であることをひしひしと感じます。 運命、あるいは宿命、というものは、固い岩のようなもの。それは氷のように冷たく動かすことはできない。しかし私たちの信じる神は全く違います。御子イエス御自身がそうであられたように、暖かい血が流れているお方なのです。これが私たちの運命だと思うものを、神は変えてくださる。私たちの死の宿命、滅びの定めを、神は方向転換してくださる。私たちの祈りは聞かれるのです。

 私たちのような愚かな人間でさえも、例えば、教師の立場であれば、一度、子どもに宣言したことを、次の日、撤回したり、考えを変えました、などというのは、なかなかできないものです。面子がある。そんなプライドにこだわり、なかなか発言を改めない、それが私たちなのではないでしょうか。

 心を変える、それはある意味で、本当に自分が弱くなることです。断固として仁王立ちして、一度決まったことは決まったこと、正しいことは、断固として正しいのだから、これを押し通す、と自信をもって、胸張っていれば、格好いいのであります。しかし、相手から「先生、待ってください。それでは、まだ助けられる子を殺してしまいます。それでもいいんですか。それでも先生の言う正しさを押し通すんですか。」そう問われた時、「分かった。私が間違っていた。やっぱり、許そう。」もしそう言うことが出来たとしたら、それは、本当に自分が弱くなることです。貧しくなることです。しかし、実はそこで愛が立つ。教師としての威厳は身を屈めても、逆に、そこで愛が立ち上がるのであります。

 主イエスはここで、洗礼を受けられる時、当然、身を屈められたと思う。水の中に沈められたと思う。しかし、その謙りを通って、主は「水の中から」(1・10)立ち上がられる。それは「愛の神」が立ち上がったことを意味するのであります。

 神はこれまで、律法で人間を正しくしようと思ってこられた。旧約はそういう歴史でした。そして神は罪を犯した者を裁き、滅ぼす、それが基本的な神様のなさり方だったと思う。律法主義であります。しかしそれで人間は救われたか、ということであります。

 そのことについて、私は先週の水曜日夜に、聖研祈祷会で読んだ、士師記19~21章物語を思い出すのです。

 あるレビ人が一人の側女を連れて旅をしていた。ベニヤミン領のギブアの村まできた時、日が没した。一人の老人が外にいたら危険だと、家に案内してくれて持てなしてくれる。ところが夜中に、ベニヤミン人たちが集まってきて戸を叩く。旅人の男を出せと、ソドムで起きたようなことを要求する。困り果てた男が、側女を外へ無理矢理押し出すと、ベニヤミン族の男たちは一晩中、彼女を犯して、朝ようやく解放しました。しかし彼女は、主人のいる家の入り口までやっと辿り着き、手を敷居にかけたまま息絶えたのです。レビ人は怒って、その女性の身体を12の部分に切り離して、イスラエル12部族に送り、ベニヤミン族の蛮行を訴えました。イスラエルは特別に性に対して厳しい民であります。それは神御自身が性に対して厳格であられたからです。

 このレビ人の訴えによって、イスラエル連合軍とベニヤミン族との間で、ベニヤミン戦争が始まります。これを士師記はベニヤミンの罪に対する神の裁きとして「聖戦」と位置づけます。神の力によって、ベニヤミンは最後には戦争に敗れ、町は全て焼き払われ、滅亡寸前までいきました神の義はこれで満足させられたかに思えたのです。ところが、イスラエルの人々は、自分の同族ベニヤミンが滅びるのを惜しんで、彼らが再び家庭をもてるようにしたいと願いましたが、生き残りはリモンの岩場に逃れた軍人六〇〇人だけであった。それでは子孫を残せない。そこでイスラエルはこのベニヤミン戦争に参加しなかった、ギレアド・ヤベシュの住民に白羽の矢を立て、その住民を虐殺し、ただ処女四〇〇人だけを生かして、ベニヤミンの生き残りに与えた。しかしそれでも足りない。そこで、ベニヤミンの生き残りは、さらにシロの祭りで踊っている娘を誘拐し、略奪婚によってようやく数を充たして、自分たちの町を再建したという結末である。何たることかと思う。

 一人の女性の生命を奪った性的犯罪を許さない神の正しさと断固たる裁きは、しかし結局、その何百倍もの性的犯罪を引き起こして終わったと、書かれているのです。神が悪いのではありません。人間の罪がそれほど底なしだったのであります。神の義が主張され、押し通されればされるほど、「これが聖戦だ!」と言われ、そしてそれがどんなに正しいことであっても、人間の罪はその律法をバネにもっと飛び上がる。何百倍も飛び上がる。その恐ろしい出来事は、現在のイスラエル、パレスチナで続いて
いるのではないでしょうか。

 使徒パウロはこう呻くように言いました。「律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」(ローマ7・8~11)

 これは何度でも読まねばならない。どんなに私たちの罪が恐ろしいものか。正しい神の義が、命をもたらすはずの掟が、罪によって利用され、もっと恐ろしい罪が出現する。それが人間なのだ。神の義が主張されればされるほど、人間はもっと悪くなる。

 神はそれに気づかれました。そのために御子を地に送られたのです。そして、御子は、掟ではなく、福音を宣べ伝えられたのです。そして言われました。「悔い改めて福音を信じなさい」と。

 マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1・1)と記しました。「ここに始まる福音」とある英語の聖書は訳しました。それは神の子が悔い改めの洗礼をお受けになった時に始まったのです。律法主義の時代が終わったのです。神がお考えを変えて下さった。私たちのために。その喜びの叫びが、このマルコの冒頭、第一声なのであります。

 「ここに福音が始まる!」





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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