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2002年 3月10日 「霊による前進」

2002年3月10日 「霊による前進」

  (ガラテヤの信徒への手紙 5:19~21)

 「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(ガラテヤの信徒への手紙 5・19~21)

 何故、人は「姦淫、わいせつ、好色」(5・19)に走るのでしょうか。何故、「泥酔、酒宴」(5・21)に溺れるのでしょうか。「寂しい」からであります。それなしには、寂しくて寂しくて気がおかしくなるほどだからであります。

 人間は霊(魂)の部分が空洞だと、その空しさ、虚無感を、何とか埋めようと願い、異性依存症となったり、アルコール依存症となるのです。そして熱に浮かされ、一時的に激しい高揚感、生きている実感を得るのです。

 そしてパウロは、一見善なるもののような「律法主義」もまた、この悪徳を生み出す同じ心の動きの中で出現してくるものなのだと、洞察したのです。真の徳を生み出す霊の部分が空っぽであるために、霊の力ぬきに、人間の努力と頑張りで神の戒めを果たそうとする。それが律法主義です。そこに無理と不自然が生じ、律法主義は結局、善を生み出すどころか逆に「敵意、争い、そねみ、怒り」(5・20)という悪徳の母胎となり、それは泥酔と何等変わりない、肉の業であることが暴露されるのです。

 それらは、例えるなら、空焚きしたやかんのようなもの。確かにそれは熱い。しかしそれは、いつも外側から熱していないと、直ぐ冷めてしまうやかんに過ぎない。律法主義も肉欲もそういう、無理矢理心を熱くする装置なのです。しかし、もしそのやかんの中に暖かいお湯が充たされたとしたら、空焚きの危険な状態も起きないし、それでいて、いつまでもそのやかんは冷えない。そのやかんの中に充ちる柔らかいお湯のようなものこそ、使徒パウロの語る霊(聖霊)なのであります。

 霊を私たちの魂の中一杯に注ぎ込んで頂くのです。霊とは、神の愛であり、神の赦しであり、神の平安であり、真の徳を実現する神の力であります。魂の内部が愛で充たされた時、私たちは初めて肉をもう必要としない存在となれるのです。

 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(5・22~23)。

 注解書には、「霊の実」(5・22)とありますが、ここをパウロは「霊のわざ」とは言わない「そこに注意せよ」と書きます。パウロは、肉の場合は「業」(5・19)と表現します。それは改革者ルターが「人は業によっては救われない」と言ったことを思い起こさせます。対して、霊は「実」として結実すると言われる。つまり、霊の結実としての徳とは、私たちの業ではないが故に、それが私たちを誇らせることはありません。律法主義は、人間の業であるが故に、教会員の中に上下・優劣が現れ、他者との比較、競争が生じ、そこから、結局「不和、仲間争い、ねたみ」(5・20~21)が噴出してくるのではないでしょうか。逆に、私たちの魂が神の愛で充たされる時「愛、喜び、平和、寛容、親切…」(5・22)が滲み出てくる。充たされたコップの水が、自ずから溢れ出てくるように。

 この「霊の結ぶ実」の最後の徳に「節制」(5・23)とあります。これとの関連で、A教会の問題について申しましょう。この渋谷区にあるA教会に対して、キリスト教主義大学である上智、青山学院、聖学院は、公式の警告文を発しています。大学の建学の精神であるキリスト教と、この教会の教えとやっていることは、全く異質なものであることを明らかにし、学生たちに強く警戒を呼びかけているのです。

 その団体の脱会者が長い苦悩の末に普通の教会に導かれ、二年間聖書を学び直し、イエス・キリストの偉大さ、聖霊の導きを知りました。そして洗礼を受け直して救われたのです。

 その頃、彼が聖書を読んでいて何に一番驚いたかというと、それはガラテヤ5・22~23の御言葉を知った時だと証ししています。特に「節制」という言葉に、彼は衝撃を受けました。これは英語では、「Self-Control」と訳されていると言ってこう続けます。

 「私にとって一番驚きだったのは、神は私たちが聖霊による歩みの中で、自己コントロールすることを望んでおられるということです。」

 彼はA教会に属している時、リーダーに全てコントロールされていた。マインド・コントロールされていたのです。その団体にいる間、いつも何をしたらいいか決められていた。しかし、そうではなくて、自分自身が神様との関係をしっかりもって、セルフ・コントロール出来るようになることこそ、聖霊のお力だと知ったと語る。神様の御心は何なのか、何が善で悪なのか、それを組織の言いなりでなく、自分で判断できること、これこそ、まさにパウロが5・1以下で力強く語った「キリスト者の自由」の宣言そのものだと思います。

 勿論、その自由を用いて、私たちは、神と隣人に仕える僕となるのです。しかしそれは心が空っぽなのに、リーダーから無理矢理熱せられ、奴隷のように伝道したり奉仕したりすることと全く違う。霊によって自然に心暖められ、喜びの中で、自由に神と隣人に仕える歩みを始めることができる、と言われているのです。

 そう考えていくと、この渋谷にある教会とは、パウロが戦っている律法主義に堕ちた教会、まさに現在のガラテヤ教会そのものでありましょう。

 A教会からのもう一人の女性の脱会者はこう告白しています。

 A教会のスケジュールはハードです。月曜日から日曜日まで、毎日細かく集会やイベントや伝道などのスケジュールが決められています。しかも、それは倒れないかぎり休めません。いえ、倒れても休めない。私は何度も体調を崩し、それでも這うようにして教会まで行きました。過酷なスケジュールに加えて食生活も不規則になり(断食もある)、みんな睡眠不足で疲れている。それなのに「いつも笑顔で人に与えなさい」「喜びなさい」と言われているので、強ばった笑顔を作るしかないのです。

 いつの間にか私は日常生活を営む上で、リーダーに相談することなく行動を決定することができなくなりました。(脱会後は一番これに悩まされました。自分で何かを決める時とても不安になるのです。本当にこれでいいのか、と。)

 教会活動・伝道活動のために帰宅するのは夜中でした。毎朝会社に出勤しなければならないのに、早朝、共に暮らしていた姉妹と朝の祈りを持ちました。それは私にとって「喜び」ではなく「ルール」でした。くたくたでした。毎日「思い切り寝てみたい」と思っていました。私も会社の同僚と同じように遊んだり、恋愛してみたいと思いました。しかしそれを思うことが私の罪なのだと思いました。

 私は「伝道」が得意ではありませんでした。A教会の伝道とは出会った人すべてに言葉を掛けるというものでした。私はそれがとても苦痛でした。できない自分を罪人と責めました。私と同じ頃クリスチャンになった友人は次々と弟子を増やしていくのに、私は全く弟子を持つことができませんでした。友人だけでなく、私より若いクリスチャンが「出世」していくのに、私はいつまでもただのクリスチャンに過ぎませんでした。見た目が可愛い、社会的に素晴らしい職業を持っている、英語が話せる、「ガイジン」という人々をリーダー達は持ち上げました。ミーティングで「○○さんはこんなに素晴らしい働きをした、アーメン!」とリーダーが言う度に、何もしていない自分が恥ずかしい気持ちになりました。

 まさに、律法主義とはこういうものなのです。だからパウロはガラテヤの教会を許せなかったのです。競争の中で、人を疲れさせてしまうのです。パウロは言いました。「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない」(6・9 口語訳)と。疲れなくなると言っているのです。霊に充たされるなら、私たちの信仰生活は疲れを知らないのです。しかし、律法主義は私たちを、とことん疲れ果てさせてしまうものなのであります。

 彼女はさらにこう続けます。

 現在はプロテスタントの教会に通っています。「普通」の教会です。すっかり様子は違って、具合が悪くて欠席しても誰からも咎められません。誰も私の信仰や生活に干渉してきません。

 しかし今は心から神の恵みを感じています。神様は「愛」です。繰り返しますが神は「愛」なのです。罪を犯すことも恐れていません。それが私たち人間なのだから。御子イエスは人間となられ、誰よりも私達の弱さに共感してくれ、憐れんでくれたのです。私は今、自分のあるがままの姿を神に差し出すことにしました。私は罪と病を持つ「人間」です。それ以上でもそれ以下でもないのです。だからこそイエス・キリストが十字架にかかって下さったのです。それゆえ私は罪と病から解放されたのです。私は自分を裁くことをやめました。それは傲慢であるからです。

 長い引用になりました。しかし私は、この証は今朝のガラテヤの手紙の最もよい注解であったと確信しています。律法主義と福音の違いがこれほど明瞭に分かる告白はない。パウロが何故こんなにこの手紙の中で怒っているかが分かると思う。そして、現在もなおこのパウロの戦いは続いているのです。カルトとの戦いの中で続いているのです。私たちに与えられた福音がどれほど素晴らしいものか、魂に霊が充たされる喜びがどんなに深いか、その感謝の中で、私たちも「ここにこそ真の自由と喜びがある」と伝道していきたいと願う。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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