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2002年 1月24日 「証しする喜び」

2002年1月 「証しする喜び」

  (ヨハネによる福音書 1:19~20)

 さて、ヨハネの証しはこうであ る。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。(ヨハネによる福音書 1:19~20)

 20世紀最大の聖書考古学の発見に「死海写本」やクムラン教団遺跡があります。このクムラン教団は、ユダヤ教・エッセネ派に属する大変禁欲的な教団でした。彼らは、堕落したエルサレム神殿を嫌い、都を去り体制に背を向け、死海北西の荒野に住み、厳しい戒律、礼拝、聖書研究に没頭しました。遺跡を発掘した者たちが興味をもったことの一つは、施設に備えられた大きな浴槽でしたが、それによる全身洗礼が重んじられていたことが分かっています。

 そのクムラン教団と洗礼者ヨハネに共通点があることに、多くの人々は気づきました。その共通点とは、反体制、荒野、禁欲、そして洗礼でありました。

 従って、ヨハネは出自とは、実は、クムランにあるのではないか。あるいは、それに類似した禁欲的修道院のメンバーであったのではないかと理解されるのです。しかも彼はその一会員に納まらず、ヨルダン川に下り、独自の洗礼運動を開始する。それは民衆に熱狂的に迎えられました。この人こそ待ち望んでいたキリスト(メシア)ではなないかと期待されたのです。それほどの存在であった。望みさえすれば、現在、キリスト教と信者数を競っているイスラム教の開祖マホメットのようになることも可能であったと思います。実際、ヨハネの死後のことですが、ヨハネ教団とキリスト教団とは、しばらくの間、ライバル関係にあったとも言われる。しかしヨハネは、自分の名があがめられる道を拒絶し、キリストの証人となったのです。

 「彼(ヨハネ)は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」(ヨハネ1:6~8)

 マティアス・グリューネヴァルトの作品・イーゼンハイム寺院における祭壇画に、証人ヨハネの姿が描かれています。その中心には十字架の主の姿が描かれている。その横にヨハネが立つのです。解説者によりますと、まるでこの画家は、人間の肉体のバランスを正確に描くことができないかのようだと言うのです。ヨハネが、十字架のキリストを指さすのですが、彼の右手人差し指は、あまりに均衡を欠いて肥大化している。しかし、解説者は申します。それはこの画家の稚拙さがなしたことではない。ヨハネは、その「肥大化」した指に象徴されるように、彼の存在自体が文字通り「人差し指」そのものになっているのだ、と。

 そして私は思います。それはヨハネだけではありません。全てのキリスト者は皆「指」になる。私たちの存在自体が、人生そのものが「人(キリスト)差し指」になる。それが「証し」であります。

 恩師は、証しとは、「自分を証しすることではない。キリストを証しすることだ」と繰り返し教えて下さいました。そして、人は、キリストを指さしているように見えて、いつのまにかこうなりがちだと、「人差し指」を180度曲げて見せた、その恩師の仕草を私は今でもはっきり覚えています。

 竹森満佐一牧師は言いました。「自分を語ることは、自分を誇ることである」と。竹森牧師ほど、自分を語ることをしなかった人はいないと言われる。「自分を語ることは、自分を誇ることである」。絶対にそうだとは私は思いません。いくらでも反論出来ると思う。しかし、これは、よく覚えておいた方が良い言葉なのです。私たちは、日常生活の中で、どれほど自分を語りたがる存在であるかと言うことです。自己顕示欲という言葉がある。「自分にこだわる思い」であります。自分を見せたい、大きく見せたい。この欲望こそ、使徒パウロが戦った「ほかの福音」(ガラテヤ1:6)そのものである、律法主義と深く関わるのです。

 その思いに支配されてしまった中で、教会で何か話しなさい、書きなさいと言われた時、並の人が言わないような特別のことを言いたい。皆が感心するような、新しいことを言いたい。ここにいる誰も行ったことない不思議な国の話をしたい。自分の信仰深さ、頭の良さを見せたい。そしてそれが出来ないと思うと、頑なに拒否するのです。「信仰のみによって義とされる」との福音とは、まさにそのような「自意識過剰」からの解放なのではないでしょうか。

 ある夕の祈祷会の立証で、一人の姉妹はこう語り始めた。「私は、この証しが決まった日から悩み始めた。何を語ってよいか、とても悩んだ。こんな苦しい思いをしたことはない。しかし、ふと気づいた。それは、自分は何かここで格好いいことを語りたいと思っているのだ、と。だから、こんなに、証しが重荷となり、苦しんでいるのだ。そうではない。格好いい必要はない。そう思った時に語る言葉は、これだけです。私は、ただ礼拝に出席することを大切にしたい。そこで神の言葉を聴き続ける、そのことによって生かされていきたい、ただ毎週、休みなく礼拝に出席することが出来るように、それが私の今の祈り。しかし、これでは時間が短すぎるから、これから少し蛇足をつけるが…」と言われてもう少し話されましたが、私たちは良い証しを、今夕もまた聴くことが出来たと喜びに溢れました。

 これは平凡な証しだったとのか。この人の優秀さにしては、芸のない言葉だったと言うことになるのか、とんでもない話だと思う。自分ではない。ただ神の言葉を聴く、そこに生きるすべを求めていきたい、これほどの証しはない。
 
 祈祷会の立証に神様によって選んで頂いた、この大きな恵みを得た時、私たちはどう語れば良いのでしょうか。「何でもいいからしゃべればいい」などということではないことは、明らなかなことです。私は皆さんの日頃の経験談や旅行の珍しい話を聞くのが大好きです。時間を忘れておしゃべりします。しかし、それは他の交わりの機会がいくらでもあるのではないでしょうか。祈祷会では、キリストを証しすることに集中するのです。しかし、それは竹森牧師のように「自分のことを語ってはならない」と言うほど、私は厳格でも禁欲的ではありません。自分のことを語ることを通して、証しになるということはいくらでも起こるのです。洗礼者ヨハネも自分のことを語らないわけではない。既に「わたしはメシアではない」(ヨハネ1:20)と公言した時、ここで「わたしは」と言っているのです。彼もまた証しにおいて「わたしは」と語るのです。「わたしではない」と語ることを通して、「キリストのみ」と証しするためであります。そうであれば、「わたし」という言葉を除いて、証しとは生まれないのではないでしょうか。

 使徒パウロもまた「わたしは」と自分を語ることを躊躇しませんでした。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(ガラテヤ1:13)と。しかしそれは、自分を見せるためではありません。それは「わたし」の罪の告白であり、悔い改め(方向転換)のためでありました。自分自身に向けられていた指が、180度回転してキリストを指し示す指に変わる。この方向転換であります。私は弱い、しかし神は強い、そう神の栄光を証しするためであれば、私たちは、益々大胆に自分を語ることが許されているのであります。 「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」(ヨハネ1:7)。「彼によって」とある。「洗礼者ヨハネによって」ということです。「私たちによって」であります。私たちによらなければ、伝道にならないと言っているです。しかし、この「よって」と訳される言葉は英語では、しばしば、through「通り抜けて」という意味の前置詞で訳されるそうです。私たちを通り抜けて、あちら側の神の恵みが見えてくる。私たちはそのために、時には自分のことも語りますが、人々の視線が、自分に止まってしまうことなく、そこを通り抜けて、キリストが鮮やかに浮かび上がってくることを祈り求めつつ語るのです。

 「私たちを通って、人は信じるようになる」。何と素晴らしいことでありましょう。それは私たちがこの世に生まれてきた意味があるということであります。自分を通り抜けて、キリストが人々の前に現れ出るのです。証しすることこそ、ヨハネ同様、私たちの人生そのものなのです。そしてそれが伝道になるのです。ですから、これをさせて頂くことは、神様の素晴らしい恵みであって、深い喜びであって、人生が最も充実する瞬間なのであります。

 証しとは難しいことでしょうか。信仰がない人にはとても難しいことです。しかし、信仰がある人にとっては、こんな易しいことはありません。何か人がおもしろがるような話をしながら、証しを成立させることも可能ですが、しかしこれはとても難しく、同時に危険です。キリストが私たちの影に隠れてしまうかもしれないから。

 そういう方法を取らなければ、証しはとても簡単です。ヨハネは、キリストを証ししようとする中で、「預言者イザヤの言葉を用いた」(ヨハネ1:23)と記されています。ですから、証しにとって一番の「要」は御言葉です。御言葉の引用です。ですから、祈祷会の証しにおいても、先ず立証者は御言葉を朗読することから始めるのです。そして、聖書の話をそのまますればいい。「私は最近、この御言葉を読み、こういう恵みを受け、生かされています。」何の賢しらな解釈をする必要もない。何の工夫もいらない。それは誰でもできるのです。

 神様は、私たちが地球の裏側に旅した時だけ現れてくださるのではありません。普通の生活の中に、キリストはおられるのです。どこよりも礼拝です。礼拝で、御言葉が読まれ説教がなされます。そここそ、私たちがキリストと出会う第一の場であります。そこで見せて頂いた神様を証しすればいいのです。そこで聴き、自分を救った御言葉を、そのままなぞるように引用し、その受けた恵みを喜べば、この上なき証しなのです。皆が覚えている御言葉だから、退屈させてしまうだろう、などというのは杞憂です。珍しいテキストを引っぱり出す必要もない。永遠の福音を語るとは、いつも同じことを語るということでもあるのです。しかし、その同じことを、あなたが語る「私もまたこの御言葉によって生かされている者の一人です」、この証しを聴く時、祈祷会出席者の心は燃える!

 本当言えば、祈祷会で絶対に立証がなければならない、ということでもありません。御言葉が語られ、そして皆が祈る。そこで必ず、今聴いたばかりの御言葉に対する応答が込められています。素朴な応答の祈りです。ある人は言われました。水曜日の夕、最後に一人一人が祈る、ここに確かな証しがある、と。ここに神の存在が鮮やかに証しされている、と。本当にそうだと思いました。

 どうか、愛する兄弟たち、愛する姉妹たち、「祈るため」に祈祷会に来てください。あらたまって立証を用意して来る必要もない。何の準備もいらない。身一つで来てください。水曜日の夕の一時、短い御言葉を聴き、讃美歌を歌い、共に祈りましょう。御言葉が与えられたことを感謝しましょう。病んでいる人たちの癒しを求めて祈りましょう。戦争や飢えによって苦しむ人たちのことを覚えて平和を求めましょう。重責を担う者のために。家族のために。隣人のために。教会のために、次週の礼拝が祝福されるように願いましょう。何よりも、神様にのみ栄光があるように。御名があがめられるように、と。主イエスキリストがこう祈れと教えてくださった主の祈りを、心と声を合わせて祈るために、集まりましょう。これこそが、私たちのなす精一杯の証しなのであります。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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