日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2001年12月24日 「クリスマスは真夜中の祭り」

2001年12月24日 「クリスマスは真夜中の祭り」

  (ヨハネによる福音書 1:5)

 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネによる福音書 1:5)

 クリスマスは夜の祭りであります。いえ、もっと正確には真夜中の祭りであります。今クリスマスゆかりの御言葉を幾つも朗読致しました。その御言葉に心を合わせるようにして、聖歌隊と皆様がクリスマス讃美歌をお歌い下さいました。そして皆さんはお気付きでしょうか。どのクリスマスの聖書の言葉を聞いても、どの讃美歌を歌いましても、そこに共通していますことは、時は夜であるということです。真夜中だということであります。

 異国の学者たちが、長い砂漠をこえてお生まれになられたばかりの幼子イエスを訪ねますが、その旅は夜の旅であります。彼等は夜の闇の中に光る一つの星に導かれて、ベツレヘムの飼葉桶の中に眠る幼子イエスと出会うのですから。羊飼いたちもまた、真夜中羊の番をしている時に、まばゆい光に満たされて空を舞う天使から救い主イエスの誕生を知らされるのです。

 私たちのこのキャンドルライトサービスも、こうして夜守られます。主イエス・キリストの御誕生が夜の闇の中で起こったことを記念するために。

 では、どうして御子イエスは真夜中にお生まれになられたのでしょうか。

 昼、それは私たちが活発に動き回る時間。町は騒がしくざわめき、人々は時間に縛られ、追いたてられるように仕事をなし、車は先を争って道を走り抜け、少しでも無駄なく成果を上げようとします。昼間、それは私たちが自動車のようになる時だと言ってもよい。加賀乙彦という作家は、ある作品の中で現代の日本人を「自動車」に例えています。「自動車」、これはただ前進するだけの能力を極限まで高めたもの。それに今の私たちは似ている。最短距離を最短時間で走れるように、ただ目的を目指して前へ前へと走る、自動車のようなものだ。脇目を振ったり、寄り道をすることは許されない。立ち止まって道に咲く花を見たり、雲の流れをいつまでもじっと見ているようなことは許されない。職場でも学校でもそういう前進のためだけの能力をたたき込む。昼間はそれが正しい生き方だと思っている。そうしなくては、競争に負けちゃう。そうしなくては豊かになれない。そうしなくてはお金は儲からない。

 皆さんの中にも、そのような師走の季節を走り抜けて今夜に至った方がおられるかと思います。受験生は勉強が全てだと思うような生活をして、このイブを迎えたかもしれない。それは私たちの昼の心です。夜になると、私たちの心は、変わります。

 夜、それは静寂の時。一人になる時。黙る時。その沈黙の中で、私たちは自分を、本当の自分を取り戻していく。そして車を降りるように、昼の舞台から降りて、寄り道をするかのように自分の心と向き合うのであります。そうすると、昼に考えていたことと、全く違う生き方があることに気が付かせられていく。この生き方が全てだと思っていた時に、それが崩れていくような経験をさせるのが夜であります。

 もっと潤いのあるもの、もっと柔らかなもの、もっと清らかなもの、歌のようなもの、夢のようなことが自分に、とても、とても必要なことを私たちは真夜中に思い出すのであります。

 山田太一さんというシナリオ・ライターがいます。その作品の一つに『真夜中の匂い』という物語があります。それこそ車の洪水と言ってもよいような、東京が舞台。三人の美しい女子大生がひょんなことからある男に出会う。バーのピアノ弾き。奇妙なゲームを得意とする男。現実を拒否して芝居をし続けて生きているような男。彼女たちは最初は、その男を馬鹿にします。地道な生き方をせず、家庭ももたず、まるで社会の落ちこぼれでしかない男。しかし徐々に彼女たちは、彼の何とも言えない魅力に気付いていく。ついに男との恋が生まれ、彼女たちは一歩ずつ「夜の世界」へ足を踏み入れていくというお話です。自分が傷つくことを恐れ、安定、安全こそ全てだと思っていた女の子の心がそこで変わってくる。そういう中で、山田さんはこういう会話を、その男と女子大生にさせています。「どうして、こういう生き方をするようになったの」と問われた時に、男はこう答え始める。ゆっくりと。「会社をやめただけだ。よくある奴だ。高校を出て、すぐに入った会社でね。16年勤めた。工業用の接着材をつくってた。しかし、現場ははじめの4年だけであとは経理で、会計士顔負けというようなことをいわれた。結婚も早かった。しかし彼女は29の時、男と逃げた。結婚7年目。不思議なくらい平気だった。仕事が忙しかったし、会社はそういう事情を承知の上で高校出をはじめて経理課長にしてくれた。帰りがおそいと文句をいう女房がいなくなってほっとしたくらいだった。愛というようなものはなかったし、悲しみというようなものもなかった、怒りもね。銀行関係も株式も強かった。群馬の新しい工場は、経理課長の才覚がなかったら出来なかった、などといわれた。―ある日ね、部下がやめるといい出した。有能な奴でね、将来俺はこいつに抜かれるかもしれないと思っていた。内心ビクビクしていた。ところが、ネパールへ
行って、寺にこもるっていうんだ。訳が分からなかった。そういうことをして、帰って来るとハクがついて金でも儲かるのかと聞くと、帰って来るかどうかも分からない。金なんか欲しくないんだという。バカいえ、金の欲しくない奴が何処にいる?

 折角この会社で、俺をおびやかすくらいになって来たんだ。30前に課長かもしれないのに、棒に振るのかというと、長いこと黙っていてそれから哀れむように俺を見て、そういうことは一切魅力がないというんだ。

 ―やめて行った。どうかしちまったんだ、バカな奴だ、変人だと、こっちも哀れむようなことをいって、相変わらず働いているうちに、ジワジワとききはじめた。そいつのやめ方がね。世の中には、昇進することにも、金を儲けることにも、なんの魅力も感じない人間がいるのか。いい年をして、はじめて気がついたんだ。そう思って自分の生活を見ると、―前途洋々と思っていたのが不思議なくらい味気ないんだ。小さな会社で、仕事が出来るといわれて、大半の時間を会社ですりへらして、一人暮らしのアパートへ帰ってくる。なにもない。急に自分をとりまいている現実がたまらなくなった。息苦しくなった。といっても、すぐさま現実から逃げようもない。―つまり、会社人間としては、駄目になりはじめた。悩んだよ。出世も魅力があるからね。しかし、会社での自分に気がついてみると女房が出て行った時、悲しみも怒りもなかったように、部下に対しても、本当の関心なんてものは、なにも持っていないんだね。ただ、使いやすいように、大声で声をかけたり励ましたり心配したり、全部うわっ面なんだ。実は、とても冷たいんだ。冷たいというより、強い感情というものがないんだ。ただ、有能な社員だなんてことに酔っているだけなんだ。

 ―34の夏に、やめてね。今までの自分から、なるべく遠くに行きたかった。熱い感情を持ちたかった。現実ではないもの、夢のような物語を愛したり、一枚の絵におぼれたり、ひとつのメロディにうっとりして一日をすごしたりしたかった。女と見りゃあ声をかけたり ―それも努力して、そうした。自分を大きく変えたかった。カサカサな人間から、潤いたっぷりの人間になりたかった。ピアノもそれから女に教わったんだ。」

 大変長い引用を致しました。女子大生はこの告白をじっと聞くのです。これまで社会の落ちこぼれと思っていたこの男が、どんなに自分を感動させ、心を揺さぶり始めたかに彼女は気付いてゆく。このシーンは、やはり夜の出来事として描かれています。そして彼女はこの男と一緒に生きてみたいと、心から思う。しかしこの物語はさらに進んでいきますと、皆がこの男を捨てて終わるのです。真夜中の時が過ぎ去り、夜が明けますと、その高まってくる町の雑踏の音に促されるように、彼女たちは、自分を守り、自分の計画、自分の設計通りに生きる安全な人生の方に帰っていく。

 この男と一緒になっても、人生は長い、先行きの不安定を思うと、彼女たちは朝、夢から覚めるように、その男を捨てる。しかしそこで山田さんは、我々に問い掛けているのです。社会を本当に豊かにするのは、高度経済成長のリーダーか、それともそこからこぼれ落ちた人々か。むしろそうやって切り捨てられてしまった人々の中に、社会の最も良質の部分があるのではないかと。

 主イエス・キリストは真夜中にお生まれになりました。真夜中に救い主の誕生の祝いに駆け付けたのは、まさにユダヤ社会のエリートとはほど遠い、外国の学者や羊飼いたちだけでした。ということは、主イエスが、まさにこの男と同じように、真昼の価値観で生きている者たちからは理解することの出来ない、出会うことも出来ない存在であられるということを示しております。幼子イエスはどの宿屋にも受け入れられず、馬小屋の飼葉桶にお生まれになられました。成長された主イエスは、その伝道の生活の末に、見るべき成果を一つも上げることなく、捕らえられ十字架につけられました。つまりこの救い主の御一生とは、生まれた時から、死に至る時まで、一貫して人々と社会から受け入れられることがなかったということです。それはまさに人の目から見るならば、社会からこぼれ落ちてしまった挫折の生涯でしかありませんでした。

 主イエスこそ、潤いたっぷりな人間として生きられました。捨てられた病人を訪ね、差別されている者たちの寂しさを分かち合い、罪人と共に食事をすることを好まれ、そして何よりも神の御心が何であるかということを、それは愛だということを、神の国はこのようなものなのだと、それは盛大な祝宴のようなものだと、そこに弱っている者、貧しい者たちが集められ喜び歌うであろう、立ち止まって、空の鳥を見てみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださるではないか。寄り道して、野の花をじっと見てごらん。働きもせず、紡ぎもしない。しかし栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。だから思い煩ってはいけない。病気になるよ。苦しいだろう。もう止めよう。沢山だ。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな与えられるのだから。夢見るように、歌うように、人々に語り続けられました。巨大な神殿を建てることにも、偉くなることにも関心がありませんでした。彼は人々に自分の命を差し出しましたが、一円の富も与えることはできませんでした。その時、昼の世界の人々は「この世の役たたず!」と罵り、イエスを捨てたのであります。真夜中に主イエスがお生まれになられたということの意味は、その闇の中に主が隠 されているということです。主は隠れておられる。表舞台には立たれませんでした。しかしあの山田太一さんの描く男がそうであったように、隠されているけれども、その一人の男によって私たちの世界が豊かになる。潤おう。美しくなる。もしその経済成長に役だたない、あの男がいなかったら、二〇〇〇年前の夜、お生まれにならなかったら、この世界は恐ろしいものになったに違いない。おぞましい地球になったに違いない。まさに暗黒の闇に塗り込められたに違いない。私たちの心にも、もはや熱い感情というものは生まれなかったに違いない。望みとか夢とか歌はそこに生まれなかったに違いない。イエス・キリストはそういう、私たち人間の世界に、私たちの心を覆い尽くそうとする闇の中に、輝く光として、お生まれになられました。

 そして私は今宵思う。昼の光が私たちの現実だと、私たちはすぐ考える。こうして夜の礼拝で、主イエスこそ私たちを生かす救い主なのだと聞かされても、朝になればしらけてしまう。あの時の私の感動、あの夜の心の安らぎ、しかしあれは夢、あれは幻なのだと思う。そしてやはり出世やお金や、成績こそ自分を支える現実なのだと思う。しかしそうではない。本当に私たちを照らす光とは、まさにこの夜の闇の中に光る、主の命の光であるということを、これは夢ではないということ、私たちを生かし、世界を豊かにする唯一の現実なのだということを、私たちはこのイブの夜、知りたいと思います。それを知った喜びの中で、御子イエスを再び、排除することなき柔らかな心に生きたいと心から願う。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




a:916 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional