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2001年10月20日 「主の祈り」の値打ち」

2001年10月20日 「「主の祈り」の値打ち」

  (マタイによる福音書 6:9)

 だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ…」(マタイによる福音書 6:9)

 主イエスが「このように祈りなさい」とお教え下さった「主の祈り」を、共に学ぶ合同修養会が始まりました。この主の祈りを、古代の教会指導者は「福音の要約」であると申しました。それは、万が一、聖書の全てが失われてしまっても、主の祈りが保存されていれば、福音は地上に残るということでありましょう。それほどの値打ちなのです。ある牧師は、主の祈りは、「汲み尽くせないほど深い。無尽蔵といって良いほどに深い。そのためそこに埋蔵された宝石の数々を見いだすためには、たゆみない発掘の作業が必要なのだ」と語っています。

 そして、今朝、その最初の発掘作業によって、私たちはいきなり、最高の宝を掘り出す。それがこの9節「天におられるわたしたちの父よ」との言葉だと思います。ある信仰者は言う。「「天の父よ」と神に呼びかけることができる、それは何という喜び。それは、魂の中に起こった奇跡のように思える」と。そしてまた別の牧師は「主の祈り」が福音の要約というなら、この「天にまします我らの父よ」との祈りは、「福音の要約の要約」なのだ、と言うのであります。

 それは、例えば、全ての信仰の言葉が失われても…それを現代の悪夢として想像してもよいかもしれない。破滅が起こり、人類の大半が滅び、教会も破壊され、聖書が失われ、信仰を伝える者もいなくなる。しかしその時、その廃墟の中で、父母を失った一人の少女が、教会学校で教えられた「主の祈り」を思い出して唱え始める。

 「天にましますわれらの父よ」、幼い少女はその一節しか覚えていない、しかし何かに取りすがるように祈る。「天の御父様」と。すると、そこから、希望の光がほとばしり出てくるのであります。全てが失われても、何もかもが滅びを迎えても「天の父よ」との祈りの言葉が残れば、人類に未来はある。そういう言葉「福音の要約の要約」。それほどの言葉なのであります。何という言葉でありましょうか。何というしたたかな言葉を私たちは主イエスから教えて頂いたのでしょうか。

 だから先の牧師は、こうも言うのです。私たちはどう祈ればいいのか。祈り、それは「天の父よ」と、このたった一言を呼びかけることができたら、もうそれで十分である。そして逆に、もしこの「天の父よ」との呼びかけが失われた祈りは、その後、どれほど多くの巧みな言葉で祈られても、それは無である。そうはっきり言うのです。

 そしてそれは言うまでもない、言葉だけの問題ではありません。この祈りは「私たちには天の父がいるのだ!」そういう喜びの叫び声のようなものなのであります。地上の全てが失われても、一切の望みが断たれるところで、なお、私たちには天の父がいて下さる。それだけは動かない。その確信の中から噴き出してくる祈りなのであります。

 主イエス・キリストがここで「父よ」と呼ばれた元々のアラム語の発音は「アバ」という言葉であったと思います。これは幼児語であります。御子イエスは御自身が本当に神の子であるという思いに生きられたお方です。だから、アバ、アバといつも祈られました。そしてこの御子だけがもっておられた祈りの言葉を、主は、ここで「あなたたちにもあげよう」と気前よく与えてくださったのです。そうやって、父よ、と祈る特権を無償で受けた私たちは、この主の祈りを祈る度に、真の「神の子」へと成長する歩みを始めていくのであります。

 私たちが、神の「真の子」になるとは、どうなることでありましょう。主は言われました。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18:17)と。

 子供とは、神の国を、神の言葉を、率直・素直・素朴に「受け入れる人」のことだと言われていると思います。ところが私たち人間は、大人になってしまった人間は、それができないのであります。

 破壊と廃墟の中に投げ込まれた時、人間は「報復」の思いを燃え上がらせるのです。自らの大人の気概をもって、腕力に頼って立ち上がろうとするのであります。自らの知恵を用いて難局を切り抜けようとするのであります。それが今のアメリカの姿なのではないでしょうか。その時現れてくる祈りは「アバ父よ」という、ひたすら神の言葉に聴こうとする幼子の祈りではなく、大人の祈りであります。「敵を壊滅させてやります」との報復の祈りであります。自分たちの力で、軍事力をもって、経済力をもって、廃墟から立ち直って見せます、という奮い立つ祈りであります。

 そのような中で、ただでさえ困窮の極みにあるアフガニスタンの女性や子どもたちが逃げまどっている荒れ野に、空爆を開始する。それを全世界に納得させるために、難しい大人の理屈、大人の知恵を駆使するのであります。そうやって、キリスト教国アメリカは、報復を許容してくれる神を、自分たちで作り上げてゆくのであります。しかしその営みは最初から空しいのです。その大人の理屈は教会学校で子どもたちが心から祈る祈り、主の祈りによって、根本から打ち砕かれてしまうでありましょう。この後、今井奈緒子オルガニストによって演奏される音楽「ダビデとゴリアテ」に示されるように、巨人が少年に打ち砕かれてしまう。この時の少年ダビデが用いた武器「飛礫」(つぶて)とは、まさに「主の祈り」を象徴しているのではないでしょうか。

 「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(マタイ6:12)

 どれほど優れた神学者が注解しても、どれほどへそ曲がりな言語学者が解釈しても、この祈りから、報復や戦争を肯定する神の子の姿は浮かび上がってこないのであります。私たちは今こそ、一切の大人の複雑な読み方を捨てて、主の祈りを、幼子の信頼感をもって、単純・素朴に受け入れることからやり直さなければならないのであります。
 
 アメリカのことばかり申しました。日本の小泉首相はテロ直後から、アメリカの報復戦争を、自衛隊を最大限用いて、後方支援していく決意を明らかにしてきました。その態度は一貫して変わりません。その時首相が考えていることは、戦争放棄の「日本国憲法」の枠内で、どこまで戦争協力が可能か、という一点にあります。そして「神学論争は止めよう」などとうそぶきながら、自分自身が屁理屈を論じ、複雑な憲法解釈をなすことによって、戦争協力を合法化しようとしているのであります。

 ここにも、大人の言葉が満ち溢れている。「幼子のようにならなくては」とは「聖書」を持たない日本人にも当てはまるのではないでしょうか。それは「憲法9条」を、幼子の心をもって、解釈も新法も屁理屈も付け加えないで、単純・素朴に受け入れ、実行することであります。

 「日本国憲法第9条 第一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 「主の祈り」はこうも祈ります。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」(マタイ6:13)。私たち日本人が、再び武器を取ることを求める誘惑に遭わせないでください。私たち日本人から、憲法9条を奪い取る、悪い者から救ってください。

 主の祈りこそ、全てであります。私たちが廃墟の中から立ち上がり、生き抜くことができる力の源であります。まさに「福音の要約」なのであります。日韓両教会に等しく与えられている宝・主の祈りを、今、心と声を合わせて祈りましょう。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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