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2001年 9月16日 「彼らはそのとき知らなかった」

2001年9月16日 「彼らはそのとき知らなかった」

  (ルカによる福音書 23:32~38)

 20世紀は「戦争の世紀」でありました。破壊と大量殺戮の世紀でありました。それだけに、今私たちが生きる、この21世紀は平和の世紀と、後の時代に呼ばれるようになることを祈って、私たちは2001年を出発したのではないでしょうか。にもかかわらず、2001年の9月11日、最悪のテロによる破壊を私たちは目の当たりにして、今、未来に対する深い不安にさいなまされいるのです。自由主義経済の不変不動の神殿とも思われた、超高層のビル群が次々に崩落しているシーンを見て、繁栄と平和の大地が、いかに脆い砂上の楼閣だったのか、まざまざと見せつけられたと思う。

 この想像を絶するテロの方法が実際に実行されたというところに、私たちは未来に対する深い憂鬱を抱かずにおれません。それは多くの指摘の通り、このテロの方法は、防ぐことが非常に困難だからです。そうであれば、今回が最悪の結果であったとも言えないことに気づく。何故なら、犯人が「原発」を標的にしなかっただけまだ良かったとも言えるからです。もし何カ所もの原発が同時に破壊されたとしたら、その時こそ、私たちは放射能汚染によって終焉を迎えることでありましょう。

 現在、日本政府の誰かが有事立法を改変して、自衛隊がアメリカの報復戦争に何らかの形で参加できないかと考えているらしい。そうであれば、その人たちは、次のことが起こることを覚悟しなければならないと思う。次のこととは、羽田から飛び立った大阪行きの日航と全日空のエアバス数機が伊豆の辺りでUターンし、東京都庁と、国会議事堂と、皇居に突っ込むことであります。それでもいいのかということであります。

 武器によって、人の命は守れないのではないかということであります。それは、世界一の軍事大国であるアメリカが、今回少しもニューヨーク市民の命も財産も守れなかったことによく現れているのではないでしょうか。従って、今後アメリカが報復戦争に踏み切れば、次はもっと恐ろしいことが起こるのではないでしょうか。復讐は復讐を呼び、憎しみは憎しみを生みだし、結局、20世紀はまだ生ぬるかった。それは破局の前触れに過ぎなかった。21世紀こそ、人類滅亡の時代であったということになるのではないでしょうか。

 では、どうしたらいいのか。そこで私たちキリスト者は、主イエスは言われたお言葉を思い出さなければならないのであります。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44)

 「あなたの敵を愛しなさい」、しかし、私たちはこれを聞いてこう思うのではないでしょうか。この愛の教えは、私たちの小さな個人的生活の中で起こる、個人同士の葛藤の場合には、あるいは有効であるかもしれない。しかし、国家間、民族間の争いに適用するのは現実的ではない。特に国際紛争解決のための戦争は、積極的な善とは呼べないまでも、悪のこれ以上の増長を防ぐ、消極的な善の役割を果たすことになるのではないか、それこそが現実的であると、と。従って、今回のような、真の敵・テロリストに遭遇した「そのとき」、「汝の敵を愛せ」と言われた時、人々は思うでありましょう。「何というお人好し。詩人のたわ言」と。

 私は今朝の説教を、マルティン・ルーサー・キング牧師の言葉を読みながら作成しました。そのキング牧師には「働く愛」という題の説教があります。これは「敵を愛しなさい」、この御言葉に匹敵する、以下の主の巨大な言葉についての説教であります。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ23:34)。

 キング牧師は、先ず冒頭に記される「そのとき」という、なにげないと思われる、小さな御言葉に注目しています。 9月11日の朝、「そのとき」の出来事。「これは戦争だ!」と叫ばれた出来事。個人的な衝突と次元が異なる国家的、民族的規模で起こった巨大な争いの「そのとき」。報道はこう記しています。そのとき、「多くの人々が同じ感情を抱いていた。報復を求める強い衝動である。街頭インタビューには、その『思い』が一番ストレートな形で表れていた。『ワシントン・ポスト』紙のインタビューに対し、ある女性は『復讐してやりたい』と語った。識者の中にも、体裁などお構いなしで意見を述べる者もいた。12日12日付の『ザ・ニューヨーク・タイムズ』である人は『我々はやつらを粉砕しなければならない』と論じている。」

 しかし、この9・11の「そのとき」に匹敵する、いえそれ以上の「そのとき」を主イエスはここで迎えられておられるのであります。この主の経験を、決して個人的問題と矮小化することはできません。それどころではありません。これは、アメリカで起こった出来事より巨大な悲劇なのであります。アメリカで起こったことは、民族間の争いです。それはどんなに大きくても、人間同士の争いです。しかしこのエルサレムで起こったことは、神と人間の争いなのです。神の子を殺すとは、人間が神にテロを働いたことであり、宣戦布告したということに他ならない。「そのとき」であります。主は「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのであります。

 主イエスは安逸を貪りつつ、大教会の美しい説教壇から、この祈りを献げられたのではありません。最も苦悩し、屈辱にまみれ、不名誉の死にのぞんだ「そのとき」、主は、「父よ、彼らを粉砕してください」とは祈られなかった。主は、自分を殺す者のために執り成しの祈りをささげられたのです。そうであれば、この主の祈りは、限りなき悲劇に遭遇し、今、憎しみを爆発させている人々に対して、問いを発する権利をもつではないでしょうか。「そのとき」であっても、敵の滅亡を願うことは正しいことか。あなたがたがキリスト者であるならば、つまり「そのとき」執り成しを祈ったお方の僕であると自称するのならば、あなたたちも、どんなにそれが苦痛であっても、罪を犯した者に対する執り成しが祈らねばならないのではないか、と。

 それは敵をつけ上がらせてしまう。それは我々の死を意味しているだけだ。そう言われるかもしれない。しかしキング牧師は言う。「敵を愛しなさい」、この言葉こそ真実であって、この命令こそ、私たちに生命のために絶対必要である、と。

 「汝の敵を愛せ」、これは、ユートピア的夢想家の指示でなない。主イエスこそ真実の現実主義者なのだ。憎しみに対して憎しみをもって報いることは、既に星のない夜になお深い暗黒を加えるようなものだ。暗黒は暗黒と駆逐することはできない。ただ光だけができる。その光とは愛のことなのだ。憎しみは憎しみを増し、暴力は暴力を増し、かたくなさは、頑なさを増していくのである。私たちは、既に、このやり方をずっとしてきたからこそ、現代世界は果てしなく行き詰まってしまったのではないか。憎しみは憎しみを生じ、戦争はさらに大きい戦争を生むといった悪の連鎖反応は、破られねばならない。そうでなければ、私たち人類は絶滅という暗黒の奈落に投げ込まれるであろう。

 憎しみは、憎むその人にとっても全く有害なものである。それは、彼に美しいものを醜いものとして、また醜いものを美しいものとして感じさる。さらに真実のものを虚偽なものと、虚偽のものを真実なものと混同させるようになる。主は祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」憎しみは、知性と正常な判断力を奪う。自分でも何をしているか分からなくなってしてしまう。同害応報の掟、「目には目を」と叫ぶ時、ついにはその目は両者ともに塞がれ、正常にものを見ることは出来なくなる。そのため、互いに正義を行っていると主張しながら、最悪のことをするようになる。二千年前の祭司長も律法学者も敬虔な民衆たちも、自分たちが信仰のためにやっていると確信していた。しかしそれが最も恐ろしい御子殺害の罪を犯すことになることを、見ることはできなかった。憎しみが自分が何をしているか、分からなくなさせたのだ。

 キング牧師はこうも書いている。正常な常識人が、一たび人種的不正義の問題を討論し始めると、信じられないような不合理なことを言う。これは憎しみがそうさせているのだ。精神医学者たちは、精神的混乱は多くの場合、憎しみに根ざしていると報告している。その時、カウンセラーたちは、「愛しなさい。赦しなさい。さもないと死んでしまう」とアドバイスする。しかし、それは既に、二千年前に主イエスがもう教えられたことだ。すなわち、憎しみは人格を切り裂き、愛は逆に人格を結合する。憎しみが敵を滅ぼすことはできない。滅ぼすことができるのは愛だけである。

 しかし、私はこのようにキングの言葉を引用しながら、一つの問いが付きまといました。復讐を叫ぶニューヨーク市民を、本当に私は戒める権利をもっているか、と。私たち日本に住む者は、まだこのルカ23:34に記される「そのとき」を経験していないから、余裕ある所で「報復はいけない」などと言っていられるだけなのではないか。私たちも、都民数千人が、私たちの家族が、恋人が、友人が崩落した新宿副都心ビル群の下敷きになったとしたら、「そのとき」、東京都知事と共に喜び勇んで「憲法九条」の改正を一気に成し遂げてしまうかもしれない。「そのとき」、教会もまた、50数年前そうであったように、日の丸を掲げ、「君が代」と「海行かば」を礼拝で歌い、戦争勝利祈願をし始めるかもしれない。小さな個人的な争いにおいてすら、直ぐ「赦せない」と呟き、それからというもの陰に陽に復讐し続ける私たちなのですから。

 しかし、主イエスは「そのとき」、そうやって、目塞がれた教会から見捨てられ、ただお独りになられても、やはり祈り続けられるでありましょう。私たちのために。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。

 この「赦す」という言葉の意味を調べて見ますと、「暇をやる、熱がひく」という意味もあります。使用人が気むずかしい主人のもとで働いている。その重荷に喘いでいる時、主人が暇をやろう、と言う。その解き放たれた喜び。あるいは、高熱にうなされる日々が続く。ある朝、その熱がすっかり引いた。体が自由に動くようになる。その解放感を表す言葉なのです。従ってこの祈りは、「重荷を取り去ってあげてください」という意味です。どんな重荷か。人を憎み、人を赦せない重荷、復讐に生きる重荷、その思いの中で、目塞がれ、イエスの真理の言葉、それは詩人の戯れ言、イエスの愛の言葉、それは無力、イエスの赦しの言葉、それは非現実的だ。そうやって全部抹殺して、自分が自分で作りだした復讐のための「守護神」に跪く。そうやって、御子をもう一度、十字架につける愚を犯す重荷。その重荷に喘いで、20世紀を生き、境を跨いで21世紀を迎えた私たちの懲りない罪を「父よ、彼らを赦してください」と主イエスは今も祈っておられる。この恐ろしい罪の重荷を負う現代人を解き放ってください。それがあなたのなさることだ。この私のために。この私が死をかけて、そのために祈ります。そこに解放が生まれる。そこに人間の新しい歩みが生まれる。そこにだけ、21世紀の希望が生まれる。そう主は私たちのために、アメリカのために、それに敵対する者のために今朝もまた祈っておられる。お独りで祈っておられる!


 祈りましょう。  独り祈られる主イエスの祈りに、私たちが、「そのとき」であっても「アーメン」と声を合わせることができる教会でありますように。

 (この後讃美歌21-304を歌った。「彼らはその時知らなかった、み国は永遠につづくことを」と。)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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