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2001年 7月 日 「愛餐(アガペー)に招かれた喜び」

2001年7月 「愛餐(アガペー)に招かれた喜び」

  (ルカによる福音書 22:23~24)

 「使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」(ルカによる福音書 22:23~24)

 このルカ22章の23節と24節は、その形式においても内容においても、まさにワンセットの議論でありました。23節は、主イエスが「わたしを裏切る者が、この食卓に手を置いている」と指摘されました時起こった議論です。この場合「自分たちのうち、いったい誰が」と問うた時、彼らの思いの中にあったのは、自分を除外した上で、この中で、裏切り者はいったい誰なのだ、そういう議論でありました。自分だけは、主を裏切るようなことはない、自分こそは正しい弟子である。そのような確信の中で、あいつが怪しい、などと話し合ったのではないでしょうか。従って、その議論は、そのまま続いて24節「自分たちのうちで誰が一番偉いのか」という議論になだらかに推移していくことができたのです。それは、自分こそが、一番偉いのだ、自分が一番正しいのだ、それを皆は認めるべきなのだ、どうやってそれを分かってもらおうか、そういう議論になっていったのではないでしょうか。

 この24節に記される「偉い」という言葉は、原文では「大きい」という言葉の「比較級」が用いられています。まさに大きさを比較し合うことが使徒たちの間で起きているのです。ここで、ルカがしていることは、この弟子たちのことを、後の教会の時代における教会の最高指導者の称号、「使徒」という言葉であえて呼んでいることです。それは、ルカの時代の教会の中で起こっていた、使徒たちの権力争いが、この物語に反映しているのではないかと考えることもできるのです。この大きさ比べとは、教会の中でのことですから、世俗的な意味における、人の値打ちの比較ではないかもしれません。しかし、だからこそ、そこでなおさら問題になってくるのは「義」ということです。誰が教会の中で、最も御心にかなう正しさに生きているか、その大小が際だって問題になるのです。

 それは食卓の席で起こり易い議論です。まして酒でも入れば、それこそ、人の義の大小をあげつらう議論に歯止めがきかなくなる。そして、最後にその人が言いたいのは、本音は「自分こそが最も正しい、最も義において大きい」ということではないかと思う。そういう議論を延々とする中で、食卓に集う者の心はだんだん暗くなり、結局、食卓を囲む前以上に、人は、ばらばらになってしまう。その中に、幼い子どもでもいれば、その子どもの信仰の健やかな成長は妨げられ、私たちにとって最も大切な、信仰継承は不可能となる。それが私たちの食卓であるならば、それは何と、罪深いことでありましょうか。正しくありたい、いつも自分だけを大きくしていたい、そこで、この使徒たちは、自分の裏切りの思いは決して認めず、ただひたすら、自分の大なることを主張して止まなかった。しかし、人は、その正しさの中で、罪を犯す。子どもの信仰の健やかな成長を妨げる罪を犯す。私たちの作りだしてきた家庭の食卓とはまさに、そのような危うい存在だったのではないでしょうか。

 「最後の晩餐」を主題にした作品は膨大な数にのぼると言われています。美術館に展示されているものは、そのほんの一部で、古い教会堂や修道院の食堂には必ずと言っていいほど「最後の晩餐」の絵がかかっているそうです。

 『キリスト教名画の楽しみ方』(高久眞一著)のシリーズ「最後の晩餐」の中に、やはり元は修道院の食堂に置かれた絵と思われる、大英博物館所蔵、一一五五年の作者不詳の作品が、紹介されています。

 レオナルド・ダビンチの有名な作品同様、長い食卓の中央に主イエスが立たれ、食卓の向こう側、ほぼ左右対照に弟子たちが配置されています。ところが、他の弟子たちから離れ、食卓のこちら側に、独りだけユダが背を向けている。ユダが、他の弟子たちから離されている、その構図は、彼が裏切りの罪の故に、主の食卓の交わりから疎外されている。つまり教会共同体から孤立していることを示しているのです。他の使徒たちは、皆食卓のあちら側・上席に立ち、決してユダのいる、末席の方に出て来ようとはしません。まさに、23節に記されている通り、「私は正しい側の弟子である」という思いがそこで表現されているのです。

 ところが、この絵には、もうお一人主イエスが登場するのです。そのもう一人の主は、食卓のこちら側に出てこられ、ユダの傍らに跪き、やはりこの後否認の罪を犯すペトロの足を洗っておられる。それは罪人の側にあえて出て来られ、仕える者として、罪人の汚れを洗い、その孤独を慰められる。そして、罪人を教会共同体に再び呼び戻そうとされる主の食卓における愛(アガペー)が表現されているのです。

 礼拝後の食事会、教会の交わりにおける食事会を、古くから教会は聖餐と区別して、愛餐、元の言葉では「アガペー」と呼んでまいりました。「愛」という言葉です。教会の食事とは、単なる食事ではない。アガペーなのだ。愛を食べることなのだ。そう教会は呼んだのです。そうやって、教会や修道院はそこでの食事を、単なる飲食ではなく、信仰と深い関わりのある交わりと捕らえ、この上なく大切にしてまいりました。その食堂にこの「最後の晩餐」の絵をかかげることは、まことに相応しいことであったと思う。この最後の晩餐で出現した、私たちの食卓の罪をぬぐい取る、アガペーを、私たちも、この食卓において学び、私たちもそのような食卓の喜びを、これから、主に倣って実現しようとの思いが、そこにあるからです。

 食卓とは、私たちが一つになるために備えられた恵みの座。しかし、私たちは食卓においてこそ、最も深い罪を犯すような存在なのです。本当に、罪作りな議論を延々とし続ける、愚かな存在である。しかし、そのようにして、罪の故に本当に孤独になる、私たちの傍らに主は進み出て来て下さる。隔ての中垣を超えて、主は歩み出て来て下さる。それこそ、主の受肉と十字架の意味なのです。この私たちを、救い養うために、主は「かがみ込んで、食べさせて下さる」(ホセア11・4)、して飢えから救って下さる、交わりを回復して下さる。この無価値な罪人を、なお愛するアガペーそのものである主の食卓が私たちに与えられていることを、心から感謝したいと願う。


 祈りましょう。  主イエスキリストの父なる御神。この朝、この主の御前の席に招き入れて下さり、あなたの愛・アガペーによって飢え充たされる経験を与えて下さり、心より感謝申し上げます。なお自分の正しさを主張し、人を見下し、一致の食卓を分け隔ての食卓にしてしまう、私たちの驕り高ぶりの罪を思います。主よ、どうか、真っ先に、自分の罪を認め、主の愛によって、その罪許された者の共同体を、ここに作っていくことができますように。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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