2001年5月27日 「新しい歌を主に向かって歌え」

  説教者 山本裕司
  (マタイによる福音書 14:19~20)

 「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。」(マタイによる福音書 14:19~20)

 私たち西片町教会に属する者たちが今日、この奉献式に集められましたのは、自らの業を誇るためではありません。あるいは、この美しいオルガンとその音楽を人々の前に鼻高々に披露するためでもありません。この事業のために尽力された人々に感謝するためですらないのであります。

 私たちがここに集められたのは、今、オルガン設置委員会委員長・高瀬尚也兄弟に導かれて口にしましたように、ただ一つの祈りを献げるためであります。

 「神よ、今、御前にこのオルガンを献げます。」

 福音書には、五千人の給食の物語が記されています。大勢の群衆が飢えている。その時、弟子たちが手に入れたものは、パン五つと魚二匹であった。それは弟子たちの特別の貧しさを表しているのでしょうか。そうではないと私は思いました。この物語は、人間の持ち物、それがどれほど地上の尺度では豊かであり、高価なものに見えたとしても、それはいつも五千人の前のパン五つと魚二匹に過ぎない、つまり人々の飢えを十分に充たすことにはならない、そう言われているのではないかと思いました。

 私たちに今日与えられたこのオルガンは、ビルダー・マルクガルニエ氏とその協力者たちが、心血を注いで建造したのものです。その作業をかいま見た者として、この業がどれほど神経をすり減らすような緻密な作業の積み重ねであるかを、いささかなりとも感じ取ることができました。そのようにして誕生した楽器であります。あるいは、今日それを演奏するのは今井奈緒子氏であります。今井先生は、この五月から私たち西片町教会の協力オルガニストとしてご奉仕下さることになりました。ガルニエと今井、この両者は互いにその高い志、またその高度な音楽性、技術を認め合っており、深い信頼関係に結ばれた友人同士でもあります。私たちはその両者、いわば最も馴染みやすく親近性に富むハードとソフトを、つまり今の私たちが望みうる最良の宝を、賜物として受けることができているのであります。

 しかしこれらの祝福も、もし一つのことを省いたとしたら、ただ一つの祈りを忘れてしまったとしたら、失礼を顧みず言うならば、弟子たちが「パン五つと魚二匹しかありません」(マタイ14・17)と言わざるをえなかった、小さきものに止まるでありましょう。五千人の飢えを充たすにはなお足りないまま終わる。つまり教会の存続の唯一の理由、教会が主から委託されて人々の飢え渇きを充たす、人間業を超えた大いなる業を果たすことはできないのであります。

 先程来、私たちがこの礼拝において唱え歌った詩編98編において、詩人は礼拝者たちに勧めました。「新しい歌を歌え」と。人間だけの世界によって作り出されるどのような新しい歌も、最初は不当なほどにもてはやされ、暫くすると、直ぐ古くなる。

 私はかつて若い頃、ある女性がこう言ったのを何故か今でも忘れることができません。好きなシンガーがいた。私はそのLPを買いました。そのレコードを聞くと深い感動で身も震えた。恋の歌だった。それで何度も繰り返し聞きました。しかし暫くすると飽きてしまった。聞いていても少しも心は動かない。それでも私は学校から帰ると、やはりそのレコードをかけてしまうの。もう沢山と思いながら。 思い当たるのです。あんなに新しかった歌が、もう古くなってしまう。あんなに感動した音楽に、もう今は、充たされることはない。彼女の恋に似て。全ては過ぎ去る。色あせる。その悲しみが呟かれているのです。

 詩編98編が「新しい歌を歌え」と勧めた。それはシカルの井戸の水のように、直ぐ渇く音楽に悲しむあなたたちに、常に新しき音楽を、渇くことなき音楽を与えようという意味であろうかと思う。どうしてそんなことが可能なのか。詩編詩人は続けます。「主は驚くべき御業を成し遂げられた」、「主は救いを示された」、「神の救いの御業を見た」、そして「主は来られる」からであります。音楽を主に献げた時、音楽のただ中に主が入ってきて下さる。その主を音楽をもって私たちがお迎えする時、音楽は一新される。そこでだけ、私たちは、多くの隣人の魂を慰め、同時に私たち自身も限りなく潤う歌を歌うことができるようになる。その音楽に内在するのが、移ろう人間だけではないが故に。永久の主がそこに来て入り込んで下さる時、音楽は決して渇くことなき命の水となるでありましょう。

 そうであれば、繰り返し申します。私たちが、今日、この時、省いてはならない一つのこと、忘れてはならないただ一つのこと、それは、このオルガンと音楽をその永遠の主に奉献することであります。弟子たちは、五つのパンと魚二匹を主イエスに奉献しました。主イエスは、それを取って、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂き、魚を分け与えられた時、全ての人が満腹した、充たされたと福音書は記すのです。

 その夕べの草原に座る多くの人々の魂はどのような姿をとっていたのでしょうか。詩編98・7に「海」という言葉がありました。「とどろけ、海とそこに満ちるもの」。海は虚無、混沌を表すと注解者は説明します。虚無にうち沈む時、私たちは声が出ません。歌えなくなるのです。しかしその虚無の海の中にいる者でさえも、その時、とどろくほど力強く賛美することが可能となると歌われている。「主を迎える」(98・9)からと。教会の葬儀に初めて参列した日本人が、そこにまことに明るい歌が響き渡るのに驚嘆したと聞いたことがあります。虚無に負けない、死に勝る歌がそこに生まれる。

 あるいは、自らの罪によって招いた悪霊に、夜毎さいなまれる王サウルの物語があります。そのために、主の霊に充たされた少年ダビデが召されました。そしてダビデは、サウル王が苦しみ悩み始めますと、傍らで竪琴を奏でたのです(サムエル記上16・23)。するとサウルの心は静まり、悪霊は彼を離れたと聖書には記されています。

 また福音書には、自らの欲望に負けて、全てを失った放蕩息子が、再び息子として迎え入れられた時、父の家から音楽や踊りが聞こえた、と物語られています。罪人が悔い改めて帰ってきた時の喜びの歌、祝いの歌がその家から溢れ出ていた。息子は放蕩の限りを尽くした時、それこそ夜の町で女たちと歌い踊りまくっていたことでしょう。人生にこんな楽しいことがあったのか、と彼は思ったかもしれない。しかしその快楽は一瞬。財産を失い街角に放り出された彼に聞こえてくる同じ歌は、もはや苦々しいだけの古い歌になってしまう。そうやって罪の故に、まさに歌を失った息子に、あなたのために歌われる歌があると、それは父の家から流れてくると言っているのです。傷ついた罪人を覆い包む柔らかな罪の赦しの歌が。歌を失った者のための歌が。つまり賛美が。

 虚無と混沌の海のような私たちの心であります。悪霊によってさいなまれる私たちの心、父なる神から離反したが故に、飢え渇きに悩む私たちの魂。しかしそこで私たちが、もう一度立つことができるとしたら、その虚無と罪のただ中に、主イエスが来て下さるからに他なりません。その時、私たちは立って「新しい歌を歌う」ことができる。そして、本当に充たされる経験をするのです。

 西片町教会は、この再生と癒しの恵みが週毎の礼拝において現実になることを求めて、オルガンと音楽を奉献致します。その時、西片町教会は、この混沌の海・東京のただ中で、主イエスから委ねられる伝道の御業、神の言葉を伝え、病を癒し、証しをつとめ、バプテスマを授け、共に生かされる(『讃美歌21』五六四)、喜びの歌、恵みの歌を歌い続けることができる。

 CANTATE DOMINO CANTICUM NOVUM


 祈りましょう。  主イエスキリストの父なる神様。一切はあなた御自身のもの。ただ御手から受けて御前にお返しをするこの奉献礼拝をここまで導いて下さり心より感謝致します。あなたに全てを献げることは、私たちが失うことではありません。むしろそこから私たちを充たす救いの歌が響き始めることを信じ、自らが誇ることを願うのではなく、このオルガンをもって、あなたのみが褒め称えられるようにと歌う教会を建てていくことができますように。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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