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2001年 5月 2日 「真の休みを求め」

2001年5月2日 「真の休みを求め」

  説教者 山本裕司
  (創世記 2:1~3)

 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記 2:1~3)

 連休の狭間の水曜日であります。この週はゴールデン・ウイークと呼ばれます。休みとは「黄金」に匹敵する宝物と言うことでしょうか。この言葉に私たちが、どれほど「休み」をかけがえのないものとしているかが込められているのではないでしょうか。それは反面、私たちがどれほど「休めない」ことに苛立ち苦しんでいるかの現れであります。

 仕事は完成すれば、休みはくるのです。その休み、安息を私たちは心待ちにしながら、昼も夜も働き続けます。そしてようやく一つの仕事を片づけたと思う。しかし、それは、カーブを曲がる度に、なお新たな道が現れ出るマラソンコースのように終わりがない。春は中学三年生の受験が終わる季節。ついに目的の高校に合格して、これで休めると思う季節。しかし、明日ポストを見てご覧なさい。予備校の分厚い宣伝パンフレットが送られているのです。受験が終わった日は、新しい受験勉強の始まりの日でしかない。大人になると、さらに過酷な終わりなき労働の日々が待っている。ある月刊誌の編集者は申しました。「一難去ってまた一難」ならぬ「一冊去ってまた一冊」と。

 ギリシャ神話の中に、丘に巨石を上げる刑罰が登場します。囚人は、手足を踏ん張り、巨石を丘の上に上げる労働を強いられる。ついに、頂上に石が上がったと思った瞬間、石は下まで転がり落ちていくのです。囚人は再び一番下からまた巨石を上げなければならない。それは私たちの労働の終わりなきことを表現しているのではないでしょうか。私たちのなす業は決して完成しない。だから、仕事と仕事の中断はあっても、それは真の休みではないが故に、解放されない、安んじることができないのです。

 ではもう何もかも止めた。労働は空しいのだから、仕事はしない。毎日遊んで暮らそう、そうすれば本当の休みが得られると私たちは思うかもしれません。しかし、生産することなき、遊びの人生に本当の休みが生じるのでしょうか。休みとは、何かを成し遂げた後に感じる、充足と解放感のことなのではないでしょうか。

 天地創造の神話は、神が「ご自分の仕事を完成され」た第七の日に「安息をなさった」と記されています。労働の完成の後に、安息は生まれているのです。完成なきままの休み、そこに真の安息はないのです。連休中、レジャーをする。家族で旅行に行って楽しいのは最初だけ、渋滞で進まない車の中で、だんだん刺々しくなり不快感ばかりになる。ただ金と時間も浪費して、家に帰って来たら疲れ切っていた、「こんなものが本当に休みなのか」と首をひねってしまうことがあるのではないでしょうか。「そうだ、家族が煩わしいのだ、それなら、一人旅に出よう」と気づき、美しい景色の中に身をおいてみる。全ての煩わしさから逃れたはずなのに、何か心はもやもやしている。何故なら、自分の心からは逃れられないからであります。不安と罪と虚無。どんな高い山に登っても、地球の裏側へ旅しても、自分の空しい心はついてくる。どんなに走っても、夜空の月、星がどこまでも追ってくるように。そうやって、私たちは働いても、遊び暮らしても、本当に自分は休んだ、そういう実感をもつことができないのであります。そこで、私たちはこよなく、真の休みに憧れるのではないでしょうか。

 天地創造の神話には「完成」という言葉が繰り返されます。完成の充足の中で、神は「安息」を生み出されるのです。

 「神の安息こそ、神の創造の目的であり、創造の完成を祝う祝祭日である。…つまり、私たちは働くために休むのではなく、充足した休みを喜び祝うために、それを目指して働くのである。」(森野善右衛門)

 この言葉から学びますことは、私たちが真の安息を得るためには、ただ遊んでいても駄目だということです。安息の前提として、何かを作り出さなければならないということであります。しかし一番最初の話に戻りますが、その私たちの労働がどうしても完成しない。やってもやっても、ギリシャ神話のように無駄に終わってしまう。神の創造のような完成を知らない。そこに私たちが休めない大きな理由が生じているのです。私たちは神ではないが故に、仕事を完成させることはできません。何をしても不完全であり、中途半端なのです。

 しかしだからこそ、神は、安息日を私たちに与えられました。神は、安息日・日曜日に教会に来て、そこで重荷を下ろして私たちが、安息することを求めておられるのです。安息日に私たちは六日の間してきた業を、神様にみな差し出してしまうのです。するとその未完成、不完全な業を、神は御自分の業の中に組み込んで下さる。私たちの貧しい働きを、ご自身の豊かな業の中に吸収して下さって、私たちの業を意味あるものに変えて下さる。私たちの業を神にみな委ねてしまう。すると、私たちの空しいと思う仕事が、神の完成の中に取り入れられることによって、完成される。それを知る時、私たちは初めて安堵するのではないでしょうか。本当に自分はやるべきことをやった。後は神様が完成させて下さる。そのように後はお任せ、と神に委ねる時、私たちは本当に安らぐことができるのではないでしょうか。

 そして私たちもいつか死ぬ時を迎えます。しかしその時も、私たちは、生涯を通してなした業をみな神様に委ねてしまうのです。その時、ああ、私の人生も決して浪費ではなかった。壮大な無駄遣いではなかった。意味があった。生きた意味があった。仕事を残せたのだと知り、私たちは真の安息の中に喜んで入っていくことができるのではないでしょうか。そして「ああ、終わった、本当に終わったのだ」と最期の息を、安堵のため息をつくことができるのではないでしょうか。キリストが十字架の偉業を終えられた時、「成し遂げられた」(ヨハネ福音書19:30)と言われ、限りなき充足の中で、永遠の安息の中に入られたことに似て。

 長く学び続けてきた申命記を読み終える今夕、モーセが彼の人生の究極の目標であった、約束の地カナンに渡ることができない、との神の宣言を
読むことになりました。彼の心血を注いだ仕事は完成しなかったのです。「にもかかわらず」モーセは未完成の闇の中で落胆、疲労困憊して去ったのではありません。「モーセは死んだとき…目はかすまず、活力もうせていなかった」(申命記34:7)。モーセは充足しているのです。彼の罪(申命記32:51)の故に、彼は究極の目標を眼前にして、挫折を経験したのです。もう一度申します。「にもかかわらず」モーセは満ち足りて、安息の中に入っていくことができたのです。神が自分の未完成の業を、空しくされず、必ず完成させて下さることを信じたからに他なりません。

 「休み」とは、決して信仰の脇役の事柄ではありません。主題であります。それはまさに「ゴールデン」であります。それは、ただごろ寝の日曜日を過ごすのでは与えられない、輝ける宝であります。むしろ、肉体にむち打ってでも立ち上がって、来る時、与えられる安らぎなのであります。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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