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2001年 1月21日 「頭は垂れ、心は高く」

2001年1月21日 「頭は垂れ、心は高く」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 18:9~14)

 ルカ18:1以下の「やもめと裁判官のたとえ」の中で、主イエスは「絶えず祈らねばならない」と勧めておられます。その教えを聞きながら、そこにいたファリサイ派の人々は胸張ったのかもしれない。「イエス様、そんなこと改めて、あなたから言われるまでもありません」という顔をしたかもしれない。主イエスはここで、1「絶えず」、5「ひっきりなし」、また7「昼も夜も叫び求める」と言っていますが、それは祈りの「数・量」を思わせる、そのような勧めであります。

 「そうであれば」とファリサイ派は思ったと思う。数、量のことであれば、私たちは誰にも負けないと。ファリサイ派は、一日に七度、定められた祈りの時間に宮を詣でて祈っていました。またファリサイ派の人は、12「週に二度断食し、収入の十分の一を献げています。」と誇っていますが、そこには自分の功績を、数字で表現しようとする思い、成し遂げた業の数を指折り数える思いがあったのです。

 ファリサイという名は、「自分を他人から区別する」という意味でした。自分たちは他人とは違う。他がどれほど信仰の節操を棄てても、自分たちだけは、正しく生き抜くのだとの使命感をもっていたのが、彼らでした。その自負が、自分の成した正しい行いを数える思いとなっていったのであります。数字くらい、他者と自分との区別を、客観的に明らかにするものはないからでありましょう。

 今年も受験の季節となりましたが、これはまさに「数字」がものを言う世界であります。中学生がテスト結果を親に見せる。「お母さん、80点だったよ」と、子供が喜んで見せにきたのに、親というのは、変なもので直ぐ「平均点は何点だったの」と聞く。その「平均点」、「偏差値」、というような数字によって、初めて、「あなたの本当の実力は判明するのよ」と言うのです。このように他人と自分との優劣を客観的に有無を言わさず明らかにするのが「数」なのです。

 そうであれば、「他と自らを区別する」という名をもつファリサイが、数をここで持ち出したのは、当然のことであったと言わねばなりません。彼らはその数字を手に取った時、自信に溢れたのです。数によって保証された自らの義を掲げて、彼は堂々たる姿勢をとって神殿で祈りました。旧約聖書の哀歌3・41には「天にいます神に向かって/両手を上げ心も挙げて言おう。」という忘れがたい言葉があります。当時のユダヤ人は、この哀歌の呼びかけに従い、両手を天に向けて挙げ、天を仰いで祈ったのです。それがこの時のファリサイ派の人の祈りの姿であったと思います。

 ところが、天を仰いでいるはずの祈りの姿勢をとりながら、ルカはその直前で9「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても…」と書いている。ルカはそう言いながら、ファリサイ派の彼が実は本当に見ているのは、天ではない、他人だ、と。視線もまた逆だ。天の神を見てはいない。では、何を見ているのか。自分が高みに立って、他人を見下ろしているのだ、と。その思いの中で、初めて彼はこう祈ることができたのだ、と福音書は語ろうとしているのです。11「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」。

 「感謝します」と彼は祈っています。しかし、それならば、何故他人と比較するのでしょうか。何故いつも他者が気になるのでしょうか。80点取ったなら、それだけで何故満足できないのでしょうか。何故、平均点、偏差値を知ることが必要なのでしょうか。平均点が50点と知ったら初めて、親と子が手を取り合って喜ぶのでしょうか。では、その平均点を下げた子や親の気持ちはどうでもいいのでしょうか。学校に不合格になった人の気持ちもどうでもいいのでしょうか。いや、どうでもいいどころか、それは全て、自分の引き立て役と心得るのでしょうか。だから学校に合格しますと、今度は、落ちた人が受験者の何十%だったかなどと調べ始める。そういう心とは何でしょうか。それは全て、自分の優秀さ、自分の子供の優秀さを、他人との比較の中で、益々鮮やかに浮かび上がらせたいという思いなのです。ファリサイ派にとって、直ぐそばで祈っている徴税人とは、その自分の義を際だたせる存在以外の何者でもありませんでした。数字を列挙し、引き立て役を作り、何故そこまでしなければならないのか。その比較の中で、自分の義を不動のものとして確保したいからであります。そうであれば、もうそれが実現した時、彼はもう天を本当の意味で仰ぐ必要なんて少しもないのです。天の神など必要ないのです。前述のあのやもめのように、切実に神の義を仰ぎ求める、もうそんな必要はないのです。下を見ればいいのです。徴税人を見れば、それで彼は立てるのです。プライドが甦ってくる。神に頼らなくてもやっていけるのであります。自分の正しさはそこで獲得されるのです。元気になるのです。だから下を見るのです。

 ある人が申しました。「差別はこの社会から決してなくならない。何故なら、人は自分より下の者を見ることによって、生きる力を得るからである」と。一つの社会的差別が解消されれば、人は生きるパワーを得るために、新たなる差別を作り出すことであろう、と。人の心の暗澹たる闇であります。その闇は、信仰者の心の中にも、私たちの中にも広がってまいりまして、神の光を追い払ってしまうのではないでしょうか。神なしで元気になる道を、悪魔はちゃんと私たちに用意している。それが他者との比較の道なのであります。差別の道なのであります。そのような闇の思いの中で、なお語られる。11感謝の祈りは何と空しいことでしょうか。

 宮で祈るもう一人の人、13に記される徴税人とは、私たちの言う税務署の役人という意味ではありません。徴税人の仕事とは半分詐欺のようなものでした。徴税人は、この時、自分のしてきた罪の重さにはっと気づいたのではないでしょうか。何かその悪しき仕事による争いに巻き込んでしまい、愛する家族の一人を失ってしまうような悲劇に遭遇していたのかもしれない。夢遊病者のようになって、数年振りの神殿にようやく辿り着いたのかもしれない。13「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようとも」しなかった。合わせる顔もないということでしょう。徴税人は目を天に見上げることができない。伝統的な祈りの姿勢を取ることができない。両手も上に上げることができず、胸を張るどころか、拳を作って自分の胸を打ち叩きました。そして祈ったのです。13「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」彼は、神様しかいなかった。もう何もなかった。人と何か比較する、そんなもの一つも持ち合わせていなかった。それがたとえあったとしても、それで、自分が支えられるものでないことを、彼は、この度の打ちのめされる事件を通して洞察していた。十分の一献金を献げようにも、その金も罪と不正にまみれた金だったのです。だから献金すら携えて来なかったのではないか。手ぶらで来たのです。神様の前に出せる何の功績もなかった。だから礼拝する資格、祈る資格も何もなかった。ただ、こんな自分がもし受け入れられるとしたら、それはただ神様の恵みにすがるしかなかった。その祈りを、神が支えて下さる時だけ、祈ることもまた許されるかもしれない。ただその可能性に賭け、神だけを求めて、もはやそれは祈りでもないでしょう。泣きながら、その憐れみをひたすら求めて、悲鳴のような声を上げるのです。13「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」主イエスはこう物語られて、そして言われました。14「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」

 この説教後に、讃美歌21ー18「心を高くあげよ!」を歌います。これはラテン語では、Sursum corda(あなたの心をあげよ)という言葉にその源流を持つ歌詞です。この言葉の出典が、先ほども申しました、哀歌3・41に記される、「天にいます神に向かって/両手を上げ心も挙げて言おう。」という言葉なのです。Sursum cordaとは、2世紀頃、ローマ教会の聖餐式文に採用された典礼句でした。3世紀の司教キプリアヌスは、この典礼句の意味についてこう書いています。「主にのみ思いを向けることを会衆に教えているものである」。

 この讃美歌18はこう歌います。「『心を高くあげよ!』主の御声にしたがい、ただ主を見あげて、心を高くあげよう。」主のお作りになった譬えの中で、一筋に天におられる「主を見あげ」ることができたのは、実際に天を仰いだファリサイ派の人ではなかった。大変逆説的ですが、13「目を天に上げようとも」しなかった、うつむく徴税人の方でありました。繰り返し申します。神だけが彼の救いだったからであります。もう何も自分を支えるものはないと、頭を垂れた時、思いがけず心は高く上げられて、神を見ることができたのです。主はだから言われました。14「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

 この主イエスのお言葉以来、私たちの祈りの姿勢も変わりました。私たちはもはや両手を高くあげて祈ることはなくなりました。私たちは顔を天に向けることをせず、うつむいて祈るようになりました。そして、手を組むスタイルは、胸を打つ姿を表現しているのだ、と説明する人もあります。つまり徴税人の祈りの姿勢を、新しい祈りの姿勢と覚えたのです。この姿勢の中でこそ、心を高く上げることができると教えられたのであります。

 しかし、なお、私たちに悪魔の誘惑は続いて襲ってくるでありましょう。今度は、この頭を垂れる姿勢の中で、誰が頭を一番深く垂れているかの比較が始まるということも起こると思う。頭を垂れるとは、罪を告白することです。しかしその時、合わせて他人を見る。あの人もこの人も、罪人としての自覚が足りない。頭をあんなに持ち上げて、威張って生きているではないか。私は違う。こんなに謙遜に祈ることを知っている。「神様、あの罪を知らない傲慢な者でないことを感謝します」と祈りかねない。

 そうやって、この主の譬えに現れた、神殿にのぼった二人がそうであったように、同じ祈りの場に集い、同時に祈っていても、互いに、比べ合い、誰が一番祝福されているかをどこかで秤り合う中で、顔にも口にも出しません。しかし、そこで、本当には共に祈ることができない。ただ薄目横目でちらちら見合っているのだとしたら、そんなことが私たちの礼拝、祈りであるとしたら、私たちは、その時こそ、13「神様、私たちを憐れんでください」と祈らずにおれません。本当に自分は心を高く上げることができない、その惨めさの中で項垂れ、罪を告白し、悪魔の誘惑を振り切ることのできる、礼拝共同体を、祈りの共同体をここに作るために、心から懺悔したいと思う。

 私たちは今日のこの礼拝後、本当に14「義とされて家に帰りたい」と思う。もやもやした思いをもって、家に帰るのではありません。優越感の虜になって帰るのでもありません。しかし、相変わらず首項垂れたまま、帰るのでもない。義とされた者として、喜びの中で顔を上げて帰る者となりたい。なることができる。主の赦しがある。御恵みがある。その福音に捕らえられた者として、私たちは心を高く上げて帰ることができる。一人の例外もなく。


 祈りましょう。  主イエスキリストの父なる神様。あなたのみを見上げさせて下さい。ここにどんなに沢山の人がいても、救いを求めて、あなたにのみ心を向ける者とならせて下さい。それが故に、隣人と共に祈る交わりがここに出現し、互いに励まし合い、祈り合うことのできる共同体をここに形作ることができますように。

 最愛のご子息、まだ若いご子息を失い、じっと悲しみに耐えている兄弟姉妹もおります。主よ、本当に弱い私たちであります。何もして差し上げることのできない私たちであります。慰めの言葉一つかけることのできない、言葉一つ持たない私たちであります。それでもキリスト者なのです。
主よ私たちを憐れんで下さい。だからこそ、あなたにすがりつくように互いのために祈り合うことができますように。あなたからの救いがありますように、と。私たち自身は何も出来ないが故に、あなたの力が働きますように、と。

 スルスムコルダ!ただ主のみを見上げて、心を高くあげる者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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