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2000年11月 5日 「あなたを捜し求める主」

2000年11月5日 「あなたを捜し求める主」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 15:1~10)

 ルカ福音書15章には、主イエスのお語り下さいました譬えが記されています。「見失った羊」、「無くした銀貨」、そして「放蕩息子」の三つの譬えであります。これらの譬えはこれを聞いた人々にあまりに強い印象を与えたために、これは教会だけのものではなくなって、全世界の様々な物語に広く応用されていくほどになりました。何故それほどのインパクトがあったのでしょうか。

 それは「捜す」物語だからであります。

 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(15:4)

 私たちもこの人生の中で、何度か捜し求めた経験があると思います。大切なものを無くしてしまって、焦りながら捜した経験。そしてついにその捜し物を発見した喜び、その経験とこの物語は重なってきて、深い印象を私たちに残すのだと思います。

 私は北海道の夏の原野で、愛犬を見失ったことがありました。呼べば直ぐに駆けてくるはずの犬が、いくら呼んでも現れない。自分の叫び声が空に消えた後、耳をすませても、風の音が聞こえるばかり。そのまま何分も十数分も時が空しく過ぎていく。その時の不安、恐怖、後悔。もう永遠にあの子と会えないと思うと悲しみが突き上げてきます。私は湿原に足をずぶずぶと沈み込ませながら、藪をかき分け走りました。呼んでは走り、走っては叫びました。すると向こうの草の間から、白いものがにゅっと顔を出しました時は、もうへなへなと座り込んでしまうほどでした。その時は短パンをはいていたのですが、後で見ますと藪の鋭い草で足は切り刻まれ真っ赤になっていた。しかし、走っている時はその痛みも少しも感じなかったのです。

 主イエスがここでこの失われたものを捜す譬えを語られながら、私たちにどうしても思い出させようと促しておられるのは、こういう私たちの捜す経験だと思います。どうして思いださせようとするのか。神が、主イエスご自身が、私たち一人一人をそのようにして、それに似たお心をもって、いえ、もっと激しい心をもって、実際血を流すようにされながら、捜しておられるからであります。主の十字架の御苦しみは、私たちを捜し回った末の傷だらけの姿を現しているのではないでしょうか。

 「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」(15:8)

 ここに「ともし火をつけ」と記されています。注解によると、それは夜のことではないらしいのです。窓のないパレスチナの家では、いつも室内は暗い。そこで転がり落ちた一枚の小さな銀貨を見つけることは簡単なことではなかったのです。今で言えば、落としたコンタクトレンズを捜すようなものでしょうか。だから彼女は灯りをつける。しかし、照度の弱い灯火ではよく見えません。そこで彼女は「家を掃く」のです。床は普通石でできています。薄暗い家の中で、女たちはそうやって物を捜しました。耳を澄まして掃けば、銀貨がかすかに石に触れて音をたてるでありましょう。最後には、ほうきすら捨てて、女は床に這いつくばり、なめるように両手を床にはわせていったかも知れない。金属のかすかな感触を捜して。見つかるまで。何分も。何十分も…。

 主イエスの母マリアもまたそうやって捜し物をしていた、その姿を、主イエスはここで思い起こしながら語っておられたのではないでしょうか。手をゆっくり動かし、耳を傾け、全身の神経を集中して一枚の銀貨を捜す女。銀貨一枚の値打ちを一〇〇円玉程度と注解者は言います。普段顧みられないほどの小さなものが失われたことを悲しみ、床にはいつくばって捜す女、そこには何かしら母なるもの、母性的なイメージが滲み出てくる。そうやって捜すことを諦めない母によって、小さな生命もまた守られてきた。その母の心象を15:8「あるいは…女がいて」と、主イエスはこの譬えを聞く者たちに思い起こさせようとしているのかもしれません。

 「北の国から」という有名なドラマがあります。その一九八九年の作品は、北海道の中学を卒業して、憧れの東京に出て定時制に通いながら、昼は自動車工場で働いている17歳の純君を描きます。彼はいつの間にか髪を赤く染めて、オートバイを乗り回しています。どこも長続きせずもう三度も職を変えました。そのような中、その憧れを裏切り続ける東京という渇ききった都市で、悲しい事件が次々に彼の身にふりかかってくる。彼が宝としていたもの。それは父親が東京に出る時、旅費として彼に与えた二万円の新札です。貧乏な父が泥だらけになって働いて得た二万円、それを象徴するように、その新札には泥で汚れた跡がついているのです。純君はそれをお守りとして大切にしていた。ところがよりによって、それを盗まれてしまう。血眼になって捜す純は、ついにそれが原因で傷害事件を起こしてしまう。

 警察の取り調べを受け、周りからも不良のレッテルを貼られ傷ついた純の前に、エリという少女が現れる。暴走族の兄を持つ、仲間からも最もやばいと思われている少女、相当はずれている女の子です。ところが彼女は、その失われたお札を捜してくれるのです。もう使われてしまったお札、それを、商店を一軒一軒訪ねて捜す。泥のついたお札をこんなに真剣に捜してくれる、そのエリちゃんの姿を見ながら、純の心は少しずつ穏やかになっていく。ドラマがそのシーンで用いる音楽、それは「アベ・マリア」。そして彼は故郷富良野に帰るのです。

 この「帰郷」という別名をもつシナリオを書いた倉本聰さんはキリスト者の家庭で育ちました。彼がこの「帰郷」というドラマを書いた時、明らかに思い浮かべていたのは、このルカ15章の三つの譬えであったに違いありません。純もまた放蕩息子のように都でずたずたに傷つき故郷富良野に帰る。その時、「無くした銀貨」のたとえをリメークして、一万円札を捜し続ける少女を同時に倉本さんは描いたと私は推測しました。

 東京で不良の烙印を押された一人の少年と一人の少女が、世間からはずれそうになっている二人が、一枚のお札を必死に捜して町を走る情景を通して、この二人もまた、何者かによって、必死に捜されている存在である。決して見捨てられている存在ではない。そしてこの一度失われた二人も、何か大いなる者に見出されて、迷いの世界・東京という砂漠から救われ、潤いある地に、愛の中に帰郷するであろう。ドラマはそう豊かなる救済を暗示しているのです。

 かくして、ここでも、このルカ15章の譬えは時代を超えて、なにげなく、それと知られず多くの人々の目の前に福音の断片を携えて登場してきているのです。

 今、このドラマは「福音の断片」と申しました。ここで、このドラマと福音書の譬えの違いをはっきりさせなければならないことがあります。私たち人間は、神の御手からこぼれ落ち、神の御前から失われているのに、私たちはそのことを、実はドラマの中で、「東京迷路」の迷子になってしまった少年、少女ほどにも悲しんでいない。そういうさらに深刻な面があると思います。神様から自分の気持ちが遠く離れてしまっている。でも別に悲しくも何ともない。致命的なことが、自分の魂の中で起こっているという感じを受けない。自分が「迷っている」ということが痛みとして感じられない。しかしその時こそ、最も人は神の御前から「失われた存在」になっているのではないでしょうか。

 そうやって、失われていながら、本当には悲しむこともできなくなっている私たちの分まで、主イエスは、ここで悲しまれ、痛まれ、それ故に、死に物狂いになって、私たちを捜されるのではないでしょうか。ただ私たちに対する憐れみの故に。その喪失が神の痛みであるからこそ、逆にその発見は「歓喜だ」と「大きな喜び」だと主イエスは言っておられるのです。15:7「このように、悔い改める一人の罪人については……大きな喜びが天にある。」15:10「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に
喜びがある。」

 この喜びとは、この譬えにおいて、発見された羊や銀貨の喜びではありません。「喜び」は確かに記されています。しかしそれは、すべて天の喜び、神の喜びについてです。それは、私たち人間が神に発見されたにもかかわらず、真に喜ばない、まことに鈍感な姿を暗示しているのではないでしょうか。この譬えで言われていることは、だから、最初から終わりまで、神の悲しみであり、神の喜びであります。捜す者の悲しみと、捜し当てた者の喜びであります。

 そして私は思う。私たちは本当に神様とのおつきあいの中で、自分のために悲しむことも、喜ぶこともできないような、感情貧しい者だということを。にもかかわらず、私たちの信仰とは、このような神の豊かなご感情に支えられているのだ、ということを。

 しかし私たちが失われた時、激しく悲しむ神の姿、私たちが教会に帰った時、爆発するように歓喜する御子のお姿を、私たちが知った時、私たちの感情も、それにつれて豊かになっていくのではないか。ここに15:6「一緒に喜んでください」とあります。これは、発見された私たち自身への神の呼びかけであると読むこともまた許されるのではないでしょうか。

 子は親の嘆き悲しみを見て、自分のした罪の重さを初めて感じます。子は親の喜ぶ姿を見て、自分のした善行の値打ちを知ります。そのように、私たちもまた、この神のお姿を見て、教会を去ることの罪を知り、帰った時の喜びを感じるようになると思う。

 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(15:2)。これから聖餐にあずかります。この失われていたはずの私たちが、今、主に発見され、主の食卓の前に等しく戻ることが許されました。ここに立つ私たちの姿を見て歓喜する主イエスキリストの喜びが、今、この鈍感な私たちの胸にも流れ込み、私たちもまた故郷に帰ることのできた感激へと導かれるのです。喜びをもって恵みの座にはせ参じ、感謝をもって食卓にあずかりたいと願う。


 祈りましょう。  主イエスキリストの父なる神様。時に、礼拝の席に座ることも、主の食卓に招かれることも、何でもないことのように思う、この鈍い私たちの魂を作り替え、研ぎ澄まして下さい。そして、天の大きな喜びが私たちの喜びとなるように、聖霊を注いで下さい。私たちの群の者であるはずなのに、ここにいない者が多くおります。主よ、失われた者に対する、あなたの悲しみもまた、私たちの悲しみとなり、私たちもまた主イエスと共に、その失われた者を捜し続け呼び続ける業に献身することができますように。そのように、捜す物語を、私たち自身が新たに物語っていく者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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