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2000年10月22日 「来れ、既に備りたり」

2000年10月22日 「来れ、既に備りたり」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 14:11~24)

 先日、私たちは、秋の一日修養会を開催し、主の食卓・聖餐について学ぶ一時を持ちました。その時、ただ前から順番に読み進めてきたルカ福音書が、まるでその日程に合わせたように、食卓への招きを語るルカ14章のまことに印象深い物語にさしかかりましたこと、これもまた神のくすしき導きであったかと思います。今朝の御言葉でも、その安息日の食卓での話は続き、主イエスはさらに畳みかけるように、人々に「盛大な宴会」の譬を語られ始めるのです。

 ルカ14:17、これは宴会の主人が、招きのために遣わした僕に言わせた言葉です。「もう用意ができましたから、おいでください」。これは文語訳聖書では「来れ、既に備りたり」と美しい日本語で訳されています。かつて使用されていた礼拝式文は文語文でした。その古い式文の中の聖餐式文の一節、その「招詞」に、この言葉が用いられていたのです。その式文を作成した先達が、ここで明瞭にわきまえていたことは、このルカの物語にある主人の招きの声、それは明らかに礼拝への招きの言葉であり、主の食卓・聖餐への神の招きの声だということであります。もう一つ、かつて用いていました口語訳聖書では、ここは「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と訳しています。そこでは「さあ」と大変印象的な言葉を冒頭に置いて訳されている。これもまたとても良い訳です。私たちも時に、「さあ」と誰かに声をかけることがあると思います。「早く、早く」という何か気が急くような時の言葉です。もう楽しみが目の前にちらついていて、期待で胸が溢れそうな時、一緒に楽しみたいのに、何か相手がゆっくりしている時、だからもう我慢できない時「さあ、さあ」と私たちは促し始める。そういう時の、自分の感情を思い起こしてみるとよい。すると、この物語の中で、主人が「さあ!」と言った、その気持ちが私たちの胸にもひしひしと感じられてくると思う。それは時が充ちたことへの喜びの声です。「さあ、おいでください、もう準備ができました。」

 食事というのは、どんなにささやかなものでも、何げなく出てくるわけではない。まして、ここでは大宴会です。インスタントじゃない。スープのだしをとる所から始めたに違いありません。それに用いる皿一枚、ナプキン一枚に至るまで知恵を絞ったに違いない。どんなに主人とその意を受けた僕たちがかけずり廻って、この宴会の準備をしたことでありましょう。主イエスは、そういうことを語りながら、この後、教会が記念として、終わりの日まで挙行し続ける聖餐とは、そういうものだと、私たちに訴えておられる。そこには「心を込めた準備があったのだ」と。

 聖餐卓に備えられるパンと葡萄酒は、婦人会の姉妹たちが、第一主日の朝早く来て、準備して下さるものです。その姿は、主人のために奉仕する忠実な「僕」の姿を彷彿とさせる。しかしここで婦人会の皆さんに失礼を承知で言えば、実は、聖餐の食卓を準備したのは、本当は私たち人間ではありません。主イエスがなさったのです。その主の食卓に私たちを招くために、主イエスは33年間の地上の御生涯があられたと言わなければならない。その地上の御生涯、それは苦しみに満ちたものでした。飼い葉桶に生まれ十字架の上で死なれました。そういう準備の末に、ついに整えられた罪人を招く救いの食卓こそ、この主の食卓。その備えの厳しさ、備える労苦、備えの忍耐、しかし、そのお身体を裂き、血を流された御受難の苦しみが結実して、食卓は整う。とうとう完成した。神の食卓が、ついにこの地上に出現する。だから「さあ、準備ができました、おいでください」との神の歓喜の呼び声が発せられるのであります。

 ところが、何たることかと思う。そういう主人の招詞に、14:18「皆、次々に断った」と書いてある。理由は違います。三つの理由がここに登場します。三というのは、聖書の世界では完全数と呼ばれており、これはただ「三つあった」という意味ではなく「あらゆる言い訳」と解釈できるかもしれない。あらゆる言い訳を尽くして、人は、主の食卓の前に参じない理由とする、人間とはそういうものだ。ここに主イエスの人間に対する、深い絶望感が滲み出ているのであります。

 そして主人の激しい怒りが語られる。14:23「無理にでも人々を連れてきて、この家いっぱいにしてくれ」。神さまは究極的手段に訴える。力を発動する。そして何としても、主の食卓を充たそうとされたのであります。そんな宴席に自分の席があるなどと、これまで夢にも思っていなかったような者が集められる。23「通りや小道」という言葉がありますが、この「小道」とは「垣根」とも訳されます。それは、パレスチナでは、自分たちの領域とその外側を、垣根、あるいは小道で区分したということがあったらしい。つまり、垣根の辺りにいた者とは、同胞でない者、異邦人を現す、と理解することができる。救い主が来ても、その救い主の宴席とは無関係であったはずの境界線外の人たち、しかし、その者たちでいい、何が何でも、とにかくこの宴席を一杯にしたい。そういう神の激しい熱意。主の食卓、聖餐の前に、何が何でも人間を集めたいという熱き思いが吐露されているのです。

 思い起こしてみれば、私たちのうちの多くは、生まれながらのキリスト者ではありません。つまり、この14・17「招いておいた人々」とありますが、そのように最初から神の食卓に招かれていた神の民・イスラエルではありません。私たちは、垣根の向こう側にいたのに、無理矢理引きずられて来た者であります主人は、この時「屈強な僕」を用いて力尽くで、そこら辺をうろうろしている人たちを引きずってくる。人間とは、そういう神の怒りとも言いうる激しい力の介入なしに、礼拝の席に座ることはないのだと、人間とはそういうものだと、主はここでさらに言っておられるのではないでしょうか。神が私たちの人生に力尽くで介入されることなしに、私たちは心底礼拝を大切にするようにはならない。では「神の介入」とは、いったい何でありましょうか。

 無教会の指導者塚本虎二先生が、放蕩息子の物語を講解した言葉の中にこうあります。「人間は神の戒めを破って自由になろうとする。その時、神は羊を探す羊飼いのように逃げ出した人間の後を追われる。そして失敗とか病気とか天災とかあらゆる手段を以って、その人がもう一度神の元に戻るように心を砕かれる」、塚本先生は何故ここで神の追求の御手の最後に「天災」と付け足したのか。それはおそらく先生の体験から出ていると思います。先生は得意の絶頂の時、これからドイツに留学するといった矢先に関東大震災に見舞われ最愛の妻を失うのです。そこに神の御手を感じた塚本はドイツ行きを中断し、聖書研究に献身することを誓った。私たちはしくじると、神さまは怒っておられると当然思います。何故私を神さまは虐めるのかと思います。しかし、その怒りの裏側に、実は神の愛が隠されている。ある注解者は、ここで、コリント二5:14を私訳して「キリストの愛は我々を強制する」と書きました。神の国における、強制とは、力尽くとは、ただ一つ、愛の強制があるのみである、と書いてある。この大宴会の譬に登場する屈強な僕とは、それは病とか、挫折体験とか、失敗とか災の事だったのではないか。そういう試練を通して私たちは礼拝の貴さ、神なしに自分には真の平和はないし、生きることもできないことに、気づくのではないでしょうか。

 未だ、その神の愛の強制を知らない時代、人間は、神の招きを断り始めるのです。14:18~19「すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。」

 この男たちにとって、仕事が最も大切なのです。神様の招きより仕事が優先されるのです。しかし、彼らは二人とも「失礼させてください」と一応謝りました。どこか後ろめたかったのでしょうか。ところが、三番目の人は、14・20「『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」と書いてあり、謝りもしていないことに気づいた人もおります。学者というのは、おもしろいことに気づくものだと思いました。新妻を一人にしておいて、ほっておくわけにはいかない、これは愛情深い新郎の当然のわきまえであると、確信をもったということかもしれない。人は「愛の行為」の前に、神様のことも二の次となる、それは当然と、胸張るようなところがある。今で言えば、新婚旅行の最中くらい、礼拝に行かなくて当たり前、と思うことかもしれない。

 確かに、三者ともこの人生で必要な大切なことをしているのです。しかし主はこの譬を語りながら、優先順位ということを考えておられたに違いありません。機械でも電気製品でも、いろいろなボタンを押したり、操作をして、目的の動作を始めますが、押すべきところを全部実行していても、その順番が違うだけで誤作動を起こす、あるいは、うんともすんとも言わない、パソコンをしている時そういう経験をすることが多いのです。新妻に対する愛、それは正しい。しかし、それを第一にしただけで、本当に夫婦の絆が保てるのかということです。私たちの移ろう不確かな愛、それのみでやっていこうとする家庭とは、実はどこか脆いのではないか。私たちは愛の中で罪を犯すような存在なのです。私たちの夫婦の絆も、家庭の絆も、実は神の憐れみの内で、主イエスの十字架の赦しの内で、ようやく支えられるものなのではないでしょうか。つまり聖餐によって支えられているのではないでしょうか。そうであれば、新婚旅行の二人だけの甘い時を「中断」しても、どこの教会でもいい、旅の途上でも、主日になったら、礼拝に詣でる時、逆に夫妻の絆ははるかに強まるのではないでしょうか。

 今、「中断」と申しました。「中断された人生」と言った神学教師がおります。私はその説教を神学校のチャペルで聞いて、未だに忘れることができません。そこで先生はこう言われました。

 私たちはいつのまにか、自分の人生は自分で作るものと思っている。明日の仕事の計画をたてる。レジャーの計画をたてる。来年どころか、十年先の計画まで練る。しかしそう思って明日を楽しみにしている人生に、神が介入してくる瞬間がある。そしてその時は、自分の人生の計画は一切中断されてしまう。それは「死」の時だと言われました。そこで、私たちは自分の計画の一切が断ち切られる。そして神さまの御計画に身を委ねる他はない。私たちは、実はそういう存在なのだと言われるのです。

 先生は、しかしそこで死ぬ時だけ、私たちの人生は中断されるのではないとおっしゃる。他にいつ中断されるか。それが日曜日毎の礼拝の生活に
おいてだとおっしゃる。日曜日ごとの生活において私たちは、日常生活の営みを断ち切り、いわば人生を中断して、礼拝の中へとやってくるのです。時にこれは辛い。先生はこの中に、卒業論文を書いている者がいるだろう、と会衆席を見渡される。論文というのは、どうしたってまとまった時間がないと書けない。ようやく、論文の筋が見えたという時、しかし、日曜日がやって来る。この時を逃したら、もしかしたら今ある構想がぱーと頭から蒸発しちゃうかもしれないという恐怖感がある。今まさに自分は佳境に入っている。しかしその時、日曜日がやって来る。神学生は日曜日になったら、それでも教会に行く。行かねばならない。それができない者は、牧師にはなれない、と当然のことを言われた。しかしそれは神学生だけのことではないと思う。仕事が中断される、新妻との楽しい時が中断される、レジャーが中断される、礼拝生活とは、常にその中断という犠牲を祭壇に献げて成り立つ祭りであります。

 これは、それがたとえどんなに素晴らしく、夢中にさせる仕事であり、人生の喜びであっても、中断されない人生には、結局のところ真の慰めも、完成も救いもないということであります。改革者ルターは言いました。「人は業によっては救われない」と。人はどんなに働いてもそれを完成することはできず、途中で終わる。人はどんなに愛し合おうとしても、真の愛を現すことなく傷だらけになって、終わる。どんなにレジャーを楽しんでいるそぶりをしても、人に言うほど実は楽しんではいないのです。休みの日に遊べば遊ぶほど、空しさが残る。人は業によっては救われない。神はその時、私たちの人生を中断させて、ご自身の御前に召しだし給う。その時、私たちの仕事も愛も、そして楽しみすらも神の内で、完成へと導かれる。実は、神による中断の中にこそ、私たちの人生の完成がある。そうであるならば、中断される人生とは、それは自分の行いによって、人生を充実させようとして、結局何も充たされずに終わってしまう私たちに対する、神の大いなる憐れみに他ならない。そういう意味のことを先生は言われたのであります。

 神さまにお委ねするのです、そこで本当に私たちは憩うことができる。主の食卓、聖餐とは「奉献」の場でもあると先日学んだ。礼拝とは私たちの一週間の労働の業、愛の業、楽しみをも、真の人生の「主人」である神に奉献してしまう場であると思う。奉献なしでは、その未完成の業は未完成のまま終わり、何の意味もなくなる。主イエスキリストに献げてしまう時、私たちのささやかな業がキリストの業の中に組み込まれて意味を持ち始める。私たちの愛の断片が、キリストの全き愛の中に吸収され、その愛もまたキリストの内で生かされたということを知る。私たちの楽しみすら、キリストの喜びに包み込まれた時、裏側に張り付いていた「空しさ」の一切がぬぐい取られるのであります。人生はそこでだけ、神の内でだけ完成する。

 いつか私たちの人生は永遠に中断されます。しかしその時、不当なことが起こったと抗議することなく、自分の人生を全て携え、神の国の食卓に喜んでみな献げることができる。そして大宴会の喜びにあずかる。そのための訓練を、週毎の礼拝で、月毎の聖餐で、私たちはなし続けていく、それこそが私たちがこの地上で堅く礼拝を守り続ける意味なのであります。


 祈りましょう。  主よ、愚かな私たちを赦して下さい。あなたの御前に立つこと以外のこの世の宝、この世の喜びに、直ぐ目奪われてしまいます。どうかそのような私たちに、諦めず声を枯らして「さあ、さあ」と呼びかけられる主の御声を聞く耳をもつことができますように。そしてその招きの声が聞こえたら、はいと、喜んで、まるでバネ仕掛けの人形のように、立ち上がる者とならせて下さい。礼拝を死への訓練の場と心得、あなたの人生への御介入に身を委ねる喜びを学び続けていく、私たち、聖餐共同体である西片町教会の歩みを祝福して下さい。

 (この後、『讃美歌21』四三六「十字架の血に」を皆で力強く歌った。「『十字架の血に救いあれば、来たれ』との声をわれはきけり。主よ、われはいまぞゆく…」と。)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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