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2000年 8月19日 「私にとって教会とは」

2000年8月19日 「私にとって教会とは」 

  日韓青年合同修養会 開会礼拝説教
  説教者 山本裕司
  (申命記6:1~9)

 この春、私はイスラエル旅行をなし、一週間ほど滞在しました。その時、ホテルの部屋、どのドアであっても、その右上の方に妙なものが付いているのに気づきました。それは長方形の箱なのです。何だろうと思い、ガイドに質問したところ教えてくれました。これは「メズザー」と呼ばれ、今朝読みました、申命記6:9のこの言葉に由来すると。「あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」

 この「メズザー」とは、6:9「柱」とありますが、この「柱」を意味する元の言葉です。その箱もそのまま「メズザー」と呼ばれるようになりました。その容器の中には、この6:4~5の言葉が書かれた紙が入れられているのです。「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 そしてイスラエル人たちは、そのドアを出入りする時、このメズザーに手を触れる。右側にあるわけですから、必ず右手で触れて出入りするという宗教的行為をなすのです。 どうしてそんなことをイスラエル人はするのか。それは、この6:8「覚えとして」とありますように、記憶するためであります。6:12にも「主を決して忘れないよう注意しなさい」と命じられています。それは自分だけと言うのではありません。その記憶は、一世代だけと言うのではない。6:6「子供たちに繰り返し教え」と記されています。子供たちの心にも、この記憶がしっかりと根付くことを求めています。そうやって、世代を超える「永遠の記憶」を、イスラエルが保持し続けることが、ここで強く求められているのです。

 どうして、イスラエルはそんな努力をしなければならないのか。それは、自分たちと、次世代の子供たちが生きるためであります。それは生命に関わる記憶なのです。そのことを、申命記6:3「幸いを得る」、「大いに増える」と表現しています。万が一この記憶が継承されなかったとしたらどうなるか。それは、6:15「地の面から滅ぼされる」とあります。それは死なのです。

 ここに現れていることは、イスラエルの揺るがぬ確信であります。

 6:4「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 これさえ覚えておれば、生きることができる。生命は保たれる、との確信であります。どのような試練、苦しみ、悲しみの中にあっても。

 ハンセン病を患った松本さんという人がいました。彼の唯一の希望は、病院で与えられたキリスト教信仰であり、聖書を読むことでした。点字で聖書を読んでいた松本さんに恐れていたことがやってきました。それはハンセン病の進行によって、手の感覚がなくなってきたことです。点字の小さな凹凸が指先で感じられなくなってしまった。そこで松本さんは舌の先で点字聖書を読むようになりました。しかし、やがて鋭敏な舌の先の感覚も失われてしまう時がきたのです。松本さんは今は、ただ一つ残っている耳から、御言葉を聞く以外に方法がなくなりました。だれかをつかまえては、聖書を読んでもらうのです。しかしそれでは、真夜中の病室で、一人孤独と戦っている時、最も御言葉をあえぎ求めている時、聖書の言葉に触れることができないことが分かりました。そこで、松本さんは聖書を片端から丸暗記して覚えるようになりました。ついに四つの福音書とパウロの手紙全部、ヨブ記、詩編などを暗誦できるようになったそうです。松本さんはこう言いました。「御言葉は味わえば味わうほど、私の本当の力であり慰めです」と。

 「御言葉こそ、本当の力であり慰めである」と肝に銘じて知った者は、自分の子どもにも孫にも、友人にも恋人にも、そのことを必死で伝えるでありましょう。そこに信仰継承の営みが始まっていくのです。

 今回の日韓青年合同修養会の主題は「私にとって教会とは」です。私は、教会とは、人類に与えられた「神の言葉の記憶」を保持する場であると思います。また教会とは、唯一の神を、未だ神を知らない人々と、次世代の人々に伝えるために選ばれた器であると思います。つまり、教会は全世界と未来に向かって、常に、ここに人類の生命に関わる言葉があると訴え続けていく使命が、神から託されている場であると思います。

 ところが、今、日本において、信仰の継承は難しくなっています。青年たちが教会に来なくなったのです。その理由の一つは、現在起こっている「価値観の多様化」ということがあるかもしれません。もっと自分を「生かす」多くのものがあるような気がするのです。また、現在は、年長者の
権威を認めないという風潮があります。父親が権威的に何か子供に命令しますと「俺の自由だ」と言い返される。「押しつけはいけい」と言われる。それで、信仰をもっている家庭であっても、その子供に対して「私は信仰を押しつけません、子供の自由を尊重します」というようなことになる。物わかりのよい親になるのです。

 しかし、それは、少なくても、この申命記の精神とまるで異なる考え方だと言わなくてはなりません。本当に子を愛しているのなら、「何もかも子は自由だ」などと言う親はいません。消防署の火の見櫓に上った子供がいました。下からお母さんが優しく「降りてらっしゃい」と声をかけている。大声を出すと子供が脅えてかえって危険だからですね。ところが、降りて来たとたん、お母さんは顔色を変えて子供を思いっきりひっぱたいているのを目撃したことがあります。生命にかかわることに対して、親とはそういうものです。「押しつけはいけません」などと言っているのは、そのことが、親にとっても実はどうでもよいことだったからではないでしょうか。

 これはカルトで起こっているような、子どもの奴隷化とは全く異なります。マインドコントロールなどで、人を精神的奴隷とすることこそ、人の命を奪うことです。神の言葉を記憶し、神を愛する時、人はあらゆる呪縛から解放され、真の自発性を得、命を回復するのです。「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)

 申命記6:2は、神の掟を守る理由を「長く生きるためである」と言いました。これは死活問題。生きるか、死ぬかの問題なのです。それは逆に言えば、多様なものはいらない、ということです。多くのものはいらない。「唯一」の神を愛する、この単純な一事に、人生を委ねれば、どんなに貧しくても命は守られる。弱さ貧しさの極みに陥っても、あの松本さんのように豊かに生きることができる、そう断言されているのです。

 主イエスはこう言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ10:41~42)

 四年前、この場所で、日韓青年合同修養会が開催されました。その時、両教会の青年たちが今後の交流のために、なすことを約束しました。それを見ると「絶対にやるべきこと」の項目に「修養会の感想文と名簿を送り合うこと」、「クリスマスカードの交換」などが記されています。「できればやってみること」の中に、「教会の関係史を学ぼう」とか「民泊をしあうこと」とあったり、あるいは「保留事項」の中に、「インターネットのホームページの作成」、「合同修養会の三ヶ月前から語学研修を行うこと」、など多くのことが記されています。

 これはどれも交流にとって意味あることだと思います。しかし私は、両教会青年会が、今後、一番なさねばならないことは、実は、ただ一つだと思います。「多くのこと」ではなくて、「必要なことはただ一つだけ」なのであります。それは、教会の礼拝に出席することであります。次回の合同修養会まで、ひたすら礼拝を守り続けることです。そこで神の言葉を記憶し、神から愛され、神を愛することを徹底して学ぶことです。これこそが、皆さんが、今回約束すべき「絶対にやるべきこと」であります。それなしに、他の交流がどんなに多様であり、豊かであったとしても、それは、教会にとっては空しい。

 何故なら、人間同士の愛も交わりも、人間だけでは必ず破れると、聖書は一貫して語っているからであります。和解者イエスキリストが、私たちの間に立って下さった時にこそ、私たちの和解も初めて可能となるのです。この絆の要である主イエスを、私たちが礼拝し愛さなければ、私たちの交流は、どんなに努力しても、終わってしまうのです。しかし逆に、もし礼拝を守ることができたなら、インターネットのホームページが例え実現しなくても、他の何も実現しなくとも、その交わりは進展する。皆さんそれぞれの神との交流が豊かになるにつれ、私たち両国青年の交流もまた限りなく深まっていくでありましょう。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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