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2000年 7月23日 「真の福音を楽しめ」

2000年7月23日 「真の福音を楽しめ」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 12:13~21)

 今朝私たちに与えられました御言葉の少し前で、主イエスは真に美しい説教をされ ました。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。…恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカ12:6~7)

 私たちは神によって守られている。私たちは神に知られている。何も持たない、無一文のすずめですら、神の御支配の外に置かれてはいない。ましてあなたたちは人間ではないか。神があなたたちを生かすために、どれほどの御配慮をなさっているか思い起こすのだ。そして恐れず、安心して生きていくのだ。そういう説教が語られた直後のことです。

 12:13節以下、聴衆の一人が主イエスの前に近寄ってきて申しました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」遺産相続の争いです。それは外から見ていても、あまり気持ちの良いものではない。兄弟同士なんだ、もう少し何とかならないかと、誰でも意見したくなるものです。しかし、それが自分のことになると、黙ってられないのです。もうそのことが四六時中頭を離れなくなる。礼拝中でも、説教は頭を素通りして、この話が終わったら、早く何か手を打たなくては、そんなことばかり考え、席で足踏みしていたのかもしれない。

 それに似て、私たちもしばしば礼拝中、気が散るのです。私も他の牧師の説教を聞く機会がありますが、いつのまにか、自分の心配事で頭が一杯になってしまって、はっと思ったら、もう説教が終わっていた、などということがありました。説教・神の言葉こそ、自分の思い煩いを解決する根本的言葉だということを忘れてしまう。もっと別の言葉を、この世の言葉をうろうろ探し始める。そして言うのです。もうそんな抽象的な説教はいい。具体的に財産の調停をして欲しい、と。

 しかし、そこで主イエスは、自分は裁判官でも調停人ではない。そう14節で言っておられる。ではイエスとは誰か。主イエスは説教者であります。神の言葉の説教者なのであります。

 むろん、不正を受けた時、裁判や調停をする、結構なことです。私たちにもそれは当然の権利として認められている。しかし、裁判こそ自分を救う、と思う中で、最も大切な説教を受け入れる余地がなくなっている心を、主は問うておられる。「命」(12:15)と主は言われる。彼はこの遺産を兄から取り戻さなかったら、自分の命はないくらいまでに思いこんでしまっている。遺産なしに、自分はもう生きていけない、とまで思っている、そこが問題なのだ。それが説教を聴かなかった故に生じた、あなたの大きな問題なのだ。私は裁判官ではなくて、説教者だから、どうしても
そのことを指摘しておきたい、財産よりもっと大切なことがある。一番大切なものは富じゃない。例え、あなたが、兄との相続争いで敗れたとしても、別にあなたの「命」には何の支障もない、その事実をちゃんと聴き分けて欲しい。そのことを聴かずに、相続争いに突入してご覧なさい、本当に最後には、あなたは「貪欲」(12:15)の虜になって、死んでしまうかもしれないんだよ。そのことを分かってもらおうと、主イエスはもう一度、説教を始めて下さる。

 よく、学校で質問すると、先生は「さっき言ったでしょ、聴いてなかったの、私は二度言わないの!」、何て怒って、もう教えてくれないことがありますが、主イエスは違います。さらに分かりやすく譬を用いて説教をしてくださる。何度でも話そう。さっき聴いてなかったのならもう一度話そう。10代で聴いてくれなかったのなら、あなたが20代の時、もう一度話そう。20代でも駄目なら30代で、いや、70、80になっても、もう一度同じことを説教しよう。今度は聴いてくれるかもしれない。本当に礼拝中うかうかしている私たちに対して、主はそこまでお優しい。それは主の確信から生まれる優しさ。神の言葉・説教だけが人に「命」(12:15)と「豊か」(12:21)さを与えるものであるという確信の故に、主は、飽きずに語って下さる。16「ある金持ちの畑が豊作だった。…」と。

 金持ちは思ってもみないような豊作を経験します。作物をしまっておく所がないと考えた彼は、作物を貯える計画を練ります。毎年豊作となるとはかぎらない。だが作物を蓄えてさえおけば、いつまでも安心だと考えた。このどこが「愚か」(12:20)なのでしょうか。私たちもお金が入ったら、ぱっと使ってしまうような人間ではありません。蓄えるのです。それが安全な人生をつくる方法だと言う。そうであるならば、この物語は私たちの生き方のモデルとしてもいいような、「賢い男の譬」ということになるのではいでしょうか。 しかし主は、この物語の男を「愚か」と説教される。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」(12:20)と。しかし、これは、決して、人生は短いのだから、堅実に蓄えて生きることはつまらないぞ、などと言っているわけでは決してありません。そのような人生の「はかなさ」が問題なのではなくて、この男の最大の問題は19節の「一人言」だと、ある牧師は指摘しています。そこでその牧師は、大変興味深いことを書いています。この男は自分で自分に「説教している」と言うのです。今朝の説教で、私はこれまで、意識して何度も「説教」という言葉を用いてきました。この男も自分で自分に説教するのです。「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」と。」(12:19)

 「ひと休み」とあります。これは福音的な言葉。説教、礼拝の第一のテーマでありましょう。今朝も先ほど歌いました。「七日の旅路守られ歩み、きょうまたここに集まり祈る み恵みの日よ、安息の日よ」(讃美歌21-206)と。主もまたこう言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)。

 「食べたり飲んだりして」ということも、福音的な言葉ではないでしょうか。主イエスは食事をされることを好まれました。罪人、徴税人を集めては、食卓の交わりをつくられました。復活された主は、エマオ途上の孤独な弟子たちと食事をなさり、彼らの心を燃え立たせました。主イエスとの飲食、それ自体が神の国の喜びの宴を表現していた。その食事の喜びというのは、私たちの聖餐に連綿と連なっています。その主の食卓こそ、私たちに安息と喜びを与え、私たちを生かす恵みです。

 「楽しめ」、これは「喜びなさい」という意味です。説教とは福音を伝えることです。福音とは喜びのおとずれということです。古いカテキズムに『耶蘇教略問答』というものがあります。これは1878(明治11)年に出版されたもので、改革派教会の重んじるウエストミンスター小教理問答の日本初の翻訳であります。それはこう訳されました。

 問一「人のたもふ目的(めあて)とすべきことは何ぞや」、答「人のたもふ目的とすべきことは神の栄えを現し、限りなく神を楽しむことなり」。

 人生の目的とは、神の栄光を現し、神を楽しむことだ、と語り始める。神を楽しむ、こういう言葉は今はあまり用いません。しかし信仰をもつということは、ただ窮屈な生活をするんじゃない。我々の信仰というのは、福音であるのであるから、本当に楽しいことなのだとの喜びのほとばしりが、このカテキズムにはある。この金持ちは同じようなことを説教している。ところが、皆さんお気付きの通り、その安息、食卓の喜び、楽しみをもたらせてくれる原因、根拠が、この金持ちと主イエスとは全く違う。彼の安心の理由は何だったのか。それは自分の財産だった。長年分の蓄えだった。彼にとって富こそ福音であり、神であった。そこに陥ると、真実の福音、主イエスの説教は、人間には聞こえなくなるのであります。自前の説教が、真の説教の魂への浸透を妨げる!

 私の知り合いの牧師がこういうことを言っていたのを思い出しました。その人は長く保険会社に務めていました。その収入は、今から十数年前のことですが、若いのに一千万円を越えていた。ボーナスが何百万円だったこともある。それを内ポケットに入れて帰る時、自分がいつのまにか胸はって、顔を上げて歩いているのに気付いて驚いたと言っていました。人間というのは、胸に札束が入ってるだけで、誇るようなところがある。しかしその人は、何故かその会社をやめました。そして収入が三分の一になるような中で、牧師になったのです。その人もまた、主イエスの説教、真の説教「人の命は財産によってどうすることもできないからである」(12:15)、との言葉を、その会社勤めの中で、聴いたからに違いありません。

 この譬の中の金持ちが陥っている状態は、「富の偶像崇拝」ということです。本当に人を生かす神は富ではなく、主イエス・キリストの父なる神お一人です。このお方だけが、人々の魂に対して19「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と説教できる唯一の権威をもっておられるのです。

 金持ちは倉一杯の富を抱えました。その時、真の神のお声が聞こえてきます。20節、愚かな者よ、穀物倉が一杯になったとしても、今夜起こるあなたの死に対して、その楽しみは力をもつのかと問われるのです。富の神々は、あなたが今夜死ぬという事実の前に、なお「休みなさい、食べ飲み、楽しめ」と説教する力はあるのか。偶像にそこまで人を生かす力があるのかと、主イエスは問われる。死の前に無力な福音など、福音の名に値しません。私たち誰もがいつか死ぬのです。本当に求められる楽しみというのは、この死に対して立ち向かいうる喜びであります。死に勝つことのできる楽しみであります。その楽しみとは、神を誇ること、神の言葉を聴き漏らさないこと。お金の問題が、心をしめてしまおうとする時、からみつく雑音を振り払って主の説教に集中すること、そこから来る強かな楽しみなのであります。

 15節「命は財産によらない。」それなら何によるのか。主イエス・キリストによる。キリストの十字架と復活が私たちの命を救うのです。だからこそ私たちは今夜死んでもかまわない。キリストが永遠の命を用意して下さるではないか。財産がなくても、それが致命的なことでないことを知る。裁判の末、兄に遺産を全て奪い取られたとしても、それであなたは終わりではない。致命的なのは、主の言葉を聴かないことの方。主イエスより金が自分をよりよく生かすと思うこと。給料で自分の職業を決めること。それこそが致命的なのだ。キリストの愛の中に自分の命があると信じる時、私たちもまた金銭の思い煩いから自由になることができる。この世において貧しくとも豊かでも、神の御前で等しく豊かであり、いつも喜び楽しむことができる、病んでもです。破産してもです。死に際してもです。何と感謝なことか。

 (この後、喜びに溢れ、讃美歌21-522を歌った。「キリストにはかえられません、世の宝もまた富も…」と。)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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